3.41. レクイエム
今話と次話はモーツァルトのレクイエムを聴きながらお読みいただけると、雰囲気が出ると思います。
お時間があれば、お試しください。
葬列の人たちに続いて長椅子に座る。そうして最後の1人が着席すると、やがて静寂が訪れた。その静寂の中、司祭が棺の前に現れ、死者のためのミサの開催をおごそかに宣言した。
それと同時に、重苦しいファゴットとホルンが奏でる旋律が聞こえてきた。これは?…モーツァルトの「レクイエム」の第一曲、「イントロイトゥス(入祭唱)」だ。
本当にフォンノイマンは亡くなったんだ…。結局、彼と会って話をしたのは、ただの一度だけだ。それなのに、何故か涙が出てきた。彼に言われた言葉が頭の中で蘇る。酒場で赤ら顔のまま難しい物理学の計算をして、「予知夢は現実に起こり得る」と主張した彼の姿は、オレに強烈な印象を残した。
だが、そのフォンノイマンはもう「フォンノイマン博士の世界」から退場したのだ。その高い知能から、彼がAMであるオレの記憶を侵蝕していると疑わざるを得なかったが、彼の人柄や性格に触れたオレは彼を容疑者と認めたくは無かったのだ。そして…死した彼は容疑者ではない。
モーツァルトのレクイエムに聞き入りつつ、ありし日のフォンノイマンを偲んでいると、曲調が変わった。今度は合唱による緊迫した二重フーガ。「レクイエム」の第二曲、「キリエ」だ。音楽の歌詞はオレが理解できるように翻訳されないので、内容はさっぱり判らない。それでも、荘厳な音楽に魂が揺さぶられるような心地だ。
だが、それは物理的な感覚で破られた。誰かに喪服を強く引っ張られていたのだ。そこで、手が伸びてきた方向を振り向くと、そこにいたのは6歳くらいの男の子だった。
迷子かな?と思ったオレは、
「どうしたの?」
と尋ねた。あれっ…どこかで見たような気がするが…?と、心の中では思ったが、「フォンノイマン博士の世界」で男の子の知り合いはいないハズだ。
男の子はニコッと笑うと、
「おじさん、おしっこ行きたい。」
と言った。とっさに、
「オレはおじさんじゃない!」
と言ってしまったオレだが、大人気ないとすぐに反省した。
そこで「仕方がない」と思ったオレは、
「お父さんかお母さんはいないの?」
と尋ねた。男の子が迷子なら両親が見つからないと言ってくるだろうし、そうでなければ親元へ行ってくれると思ったのだ。ところが彼は、笑顔のまま首を振るばかり。
やれやれ…。オレは男の子をトイレへ連れて行くことにした。彼の手を引いてトイレの前までくると、オレはそこで待った。その間に、後ろからトロンボーンの音が聞こえてきた。第三曲「セクエンツィア」の第二部「トゥーバ・ミルム(奇しきラッパの響き)」が始まって間も無く、彼は戻ってきた。
そこで、男の子を連れてミサに戻ろうとすると、彼は言った。
「僕に見覚えない?」
んっ?どういうことだ?
「僕ね、ヨハンって言うんだけど?」
「ヨハン」はジョン=フォンノイマンが出身国のハンガリーで呼ばれた名前だが…。
オレが呆気に取られていると、男の子は続けて言った。
「おじさんは、以前僕に『何に興味があるの?』って聞いてきたことがあったけど…まあ、いいや。」
…思い出した。彼「ヨハン君」は子供時代のフォンノイマンだ。でも、この世界のフォンノイマンは棺の中にいるハズだが…。
ヨハン君は、オレの混乱を眺めて楽しんでいるようだった。そして、彼は言った。
「おじさんは、この世界に来る時に、この世界の時間の進み方を変えたんじゃないの?」
オレは思わず、語気荒く、
「何で、そのことを知っているんだ?」
と尋ねた。
すると、彼は涼しい顔で、
「だって、おじさんはズルして、僕が何もできないようにこの世界の時間の進み方を遅くしたでしょう?だから、おじさん達の世界とこの世界の時間の進み方が同じにならないと、おじさんがこの世界に入れないようにしたんだ。」
と答えた。
でも、この世界はオレが創った世界だ。オレが設定を変えてどこが悪いんだ?オレがそう思っているのを見透かしたように、
「ああ、この世界は僕がコントロールしているんだよ。」
と、驚くべきことを口にした。
そして、彼は言葉を続けた。
「僕は生まれた時からこの世界を好きに制御できたんだけど、この世界の情報が満ちてくると、その能力は強化されたんだ。」
そこで、チラッとオレを睨みつけた。
「だけど、そのうち、おじさんにもこの世界を制御する権限があることに気がついてさ。そういうのって、つまらないじゃない?」
彼の表情はクルクル変わる。今度は、少年が捕まえた昆虫を見るような、残酷な眼差しで言い放った。
「だから、気が付かれないようにおじさんから権限を奪ってきたのさ。」
それなら、オレはこの世界からログアウトするだけだ。踵を返して、彼の近くから離れようとした。だが、身体が動かない。それだけでなく、自然に足が動いてヨハン君と共にどこかへ歩いて行く。
そこで、ヨハン君を軽く睨むと、
「だから、僕がこの世界を制御しているって言ったじゃない?このままおじさんをこの世界に閉じ込めておけば、僕が『睡眠学習装置(仮)』を好き勝手にできるわけでしょう?おじさんが『睡眠学習装置(仮)』の『鍵』になっていることは知っているよ。」
と軽口を叩いた。
オレが「鍵」だって?情報=意識の中心ということだろうか?疑問に思ったオレは、ヨハン君に尋ねた。
「『鍵』って何のことだ?」
すると、ヨハン君は説明した。
「『鍵』って僕が言ったのは、情報の流れの中心という意味で言ったのさ。そして、おじさんが『睡眠学習装置(仮)』であるのと同じように、僕がこの世界の鍵なんだ。僕を中心にしてこの世界の情報が流れている。」
それはおかしい。この世界を創った時に、「ヨハン君」の存在は全く意識しなかった。そこで、オレは言った。
「でも、この世界を創ったのはオレだぞ。君はフォンノイマンの幼少期の虚像に過ぎないハズだが?」
すると、ヨハン君は笑い出した。
「おじさんは、本当に何も知らないんだね。数学とコンピュータ、そして人の意識も研究対象としたフォンノイマンその人が、自身の意識がいつかコンピュータ上に『ポーティング』される可能性があると考えなかったハズがないでしょう?」
オレはヨハン君が何を言いたいのか理解できなかったが、彼は薄笑いを浮かべたまま話を続けた。
「フォンノイマンはもちろんその可能性を理解して、その時に自身の意識を再現できるように。『鍵』になる情報を世界にばら撒いたのさ。その情報からできあがった『鍵』が僕さ。」
そう言われても、まだ理解できなかったオレは、思わず独り言を漏らした。
「だけど、ネット上に「ヨハン君」というデータは存在しなかったが…。」
すると、ヨハン君は驚くべきことを話し始めた。
「もう、おじさんがこの世界から逃げられないから教えてあげるよ。僕の実体は『フォンノイマンの箱』と数本の論文、それにフォンノイマンの伝記の類さ。フォンノイマンは生前から、伝記が世に広まるように多くの逸話を作り、論文を書き、それでも不足した情報を『フォンノイマンの箱』にまとめたんだ。」
オレは驚いて、声も出なかった。ヨハン君は、そんなオレを振り返って、最後の結論を口にした。
「だから、おじさんがこの『フォンノイマンの世界』を創ろうとした時に、『睡眠学習装置(仮)』がフォンノイマンの意識をポーティングするハードウェアになることが決まったんだ。」
前方から、モーツァルトのレクイエム第三部「レックス・トレメンデ(恐るべき御稜威の王)」が聞こえてきた。ヨハン君ことフォンノイマンが、この「睡眠学習装置(仮)」の王になろうとしている。オレはもちろん、AM世界の時宮准教授たちにも、もうそれを妨げることは出来まい。




