3.35. 緊急避難
AMであるオレの意識は、量子コンピュータの一種である「睡眠学習装置(仮)」にある。だから、一度入力された情報を本当に忘れてしまうことは、原理的には無い。
だけど、何故かAMのオレがド忘れするのは、良くある。そんな時は、オレ自身の心の奥底で思い出したくない…多分そんなところだろう、きっと。
だが今回は、オレの意識が「睡眠学習装置(仮)」にあることを、つくづく感じさせられた。センチネルにムーコの写真を見せられてからというもの、彼女の艶姿を全く忘れられない。
結局、そのせいで一睡もできないまま朝になってしまった。オレの心が他の誰かに覗かれるようなことは無いにしても、そんな悶々とした状態から早く抜け出したい。それで、気分転換のつもりで学校へ行った。
久しぶりに授業を受けてみた。しかし、以前と同じように、オレが知らない内容については、文字も数式も全く読み取れない。不明瞭で、何が書かれているのか、さっぱり分からない。
嫌気がさしたので、授業を抜け出して時宮研究室へ行った。そこには、いつものように高木さんがいた。
「おはようございます、高木さん。」
「あっ、桜井君おはよう。」
普通に挨拶した後の高木さんは、真剣な表情になった。
「桜井君なら、わかるかな…?なにしろ、このAM世界を作った張本人だし。」
高木さんの声は、後ろの方では微かに聞こえる位に小さかった。
そんな高木さんの様子を見て、不安を感じながらもオレは応えた。
「えっと、なんでしょう?」
「昨日の夜から、何か気分が変わるようなことが無かったかな?って。」
「どういう意味ですか?」
高木さんは何か焦っているように見えた。だが、それを堪えて言葉を紡ぎはじめた。
「現実世界の『睡眠学習装置(仮)』に人工意識体を構築するのが、私の研究テーマであるのは桜井君も知っているわね?そして、このAM世界はその人工意識体である桜井君が作ったものだから、『睡眠学習装置(仮)』の一部なのよね。」
オレは頷いた。
それを見て、高木さんが話を続けた。
「それでずっと『睡眠学習装置(仮)』の量子状態を観察して、神経回路とのアナロジーから、人工意識体の構造をマッピングしてみたの。」
そう言って、高木さんはマッピングした図をディスプレイに映しだした。
うーむ、高木さんが何を言いたいのか、まださっぱり分からない。
そんなオレに、高木さんは説明を続けた。
「これまでにAM世界の桜井君を見ていて、人工意識体のパーセプトロンの感度を比較していて、分かったことがあるのよ。どうやら、この部分の数値が大きいと楽しそうに、小さいと悲しそうに見えたわ。」
オレは、ようやく高木さんが言いたいことがわかってきた。研究対象としている「睡眠学習装置(仮)」が、オレの心と直結していることを、高木さんは実感してきているのだ。
でも、それは何か恐ろしいことを引き起こすような予感がする。が、ポーカーフェイスで答えた。
「はあ。」
高木さんは、そんなオレを見ることもなく、映しだしたマップに向かって話し続けた。
「それが、昨夜から、その領域に近いこの部分の感度が異常に上昇してきたのよ。きっと、多分この辺りの影響が強くなってきているはずだわ。だから、桜井君に何かあったかな?って。」
オレは血の気が引くのを感じた。恐らく、ムーコの写真を見てからのオレの心の変化を、高木さんの研究により解明されてしまいそうになっているのだ。
マジで困った。逃げ出したい。
そうだ、逃げるアテはある。
「申し訳ありませんが、取り急ぎ、『睡眠学習装置(仮)』で転移しなければいけないので後にしてもらえませんか?」
「そう?このAM世界全体に関わることだと思うのだけど…。桜井君がそういうのなら、戻ってきてから話し合いましょう。」
「わかりました。」
そう言うと、オレは急いで仮眠室へ行き、睡眠学習装置専用のつなぎに着替えた。そしてそのまま、「睡眠学習装置(仮)」のベッドに横たわり装置を起動させると、いつものように真っ暗でコンソールしか見えない世界に意識が転移する。
とりあえず、高木さんから逃げるためにここに来てしまった。だが、どこへ行くのか何も決めていない。うーん、どうしよう?
えっと、オレの気持ちが昂っていると、そのことが高木さんにバレそうだから逃げてきたのだ。高木さんに気づかれないうちに、ムーコの艶姿が頭から離れない状況から脱け出さなければ…。高木さんは、あくまで真実を探究したいだけなのだろうけど。
それなら、行き先は「劉老師の世界」一択だろう。あの世界は女っ気が無く、ひたすら劉老師との鍛錬に明け暮れた。今度も劉老師との修行で、雑念を振り払うことができるだろう。それに、「上泉先生の世界」で習得した新陰流や「廃墟の街の世界」で戦った経験が、劉老師にどこまで通用するのか楽しみでもある。
そこで、コンソールから「劉老師の世界」を20万倍速に設定した後、ログインした。時は前回ログアウトした後。劉老師とこの世界でのオレの後ろ盾であった、袁世凱が失脚したという時代だ。
この世界では、劉老師は李書文の人生をトレースするように設定されていたので、老師も混沌の時代の真っ只中で生きている。ただしこの世界では、情勢が変わってもオレの修行に影響が出ないように、適当に歴史が歪められているようだったが。
劉老師にとって、彼のもとで5年間の修行を終えたオレと別れてから、まだいくらも経っていないハズだった。だから、再び軍事顧問の寮に現れたオレを見て、劉老師はただ呆れているように見えた。
そんな劉老師の第一声は、
「あなたはどうしてここに居るのだ?」
だった。そう言われてもねえ。相手がフォンノイマン博士でもない限り、歴史上の人物にオレの置かれている状況を説明しても、理解してもらえるハズがない。
そこでオレは答えた。
「私は老師から八極拳と六合大槍の教えを受けた後、他の武道家からも他流派の武術を教わりました。そこで、その成果を見ていただきたく、参上した次第です。」
劉老師は頷くと、静かに言った。
「それは明日にしよう。それにしても、あなたが去ってから僅か1日しか経っていないが…それで他流派の武術を身につけたというのか。」
オレは少し戸惑った。AM世界の時間では、オレが「劉老師の世界」から去ってから、まだ2週間程度だ。その間、「上泉先生の世界」で過ごした時間は、その世界の中では3年程だった。だが、時間の進み方を遅くしていた「劉老子の世界」では1日しか経っていなかったようだ。
そうだ。いくつもの世界を転移して生きるAMのオレには、瞬くほどの短い時間と長い年月とで、本質的な違いは無いのかも知れない。それに対して、現実世界の人々やAM世界の住人やオレが作った世界のAIたちは、それぞれ定められた連続した時間の中を生きている。
その夜は、劉老師と夕食を共にして、オレが経験してきた新陰流やマシンガンやライフルを使った戦いについて話した。
新陰流の「転」については、劉老師は最初は否定した。というよりも、老師にとっての僅か1日で他流派を習得したというオレの言葉が納得できなかったのだろう。
しかし、オレが上泉先生と戦った時に槍が想像しない方へ弾かれたと話すと、大きく頷いた。六合大槍にはオレがまだ真奥に至っていない技があり、それと原理が似ているらしいので、納得されたようだ。。
一方で、ライトマシンガンやサブマシンガンについては、驚いていた。この時代にマシンガンは存在し、軍隊に武術を教える立場の劉老師は当然知っていた。だが、陣地に据え付けられた大型のマシンガンが戦場を支配した、日露戦争が終わってまもない時代だ。まだ、小型のマシンガンは存在していない。




