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フォンノイマンのレクイエム  作者: 加茂晶
第1章 プロローグ
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1.7. フォンノイマンの手のひらで

 睡眠学習装置(仮)の前で、時宮准教授が話し始めた。

「先日の実験で、被験者の桜井君が自力でシェルを開けられず、睡眠学習装置(仮)内から出られなかった事が、学内の倫理委員会で問題になってしまったんだ。そこで、委員会の指摘に対応する為、外部からのノイズを遮断するためのシェルを外して改良中だ。だけど、改良中の今だからこそ、普段はシェルに隠れて見えない部分も直に見る事が出来る。」

と言って、脳波、微弱電磁波、赤外線、磁化ベクトルの各解析装置、人体内の情報伝達系を模擬した量子アニーリング/イジング回路が納められた冷凍庫等を、一つ一つ説明した。

 先程から聞こえていた低周波音は、量子回路を冷却する冷凍庫の動作音らしい。以前は動作していなかった量子回路。そこに、オレの記憶や意識のカケラがもう再現されているのだろうか?しかし、一体どうやってそんな事が出来るのだろう?


 オレの心の声が聞こえたのか、時宮准教授は脳の働きについての仮説を説明し始めた。

「君達も知ってると思うけど、脳の活動はシナプスの働きを解析すれば通常のコンピュータでシミュレートできるとされて来た。量子回路なんて使わなくてもだ。最近は脳のバックアップと称してシナプスの働きを解析しコピーしておき、脳死や植物状態になってしまった場合に備えるなんて言う商売もあるくらいさ。」

だったら、睡眠学習装置(仮)は、何故量子回路を持つのだろう?

「でも実際は、脳死や植物状態になった人の脳に、バックアップした情報を書き戻して回復した例は無いんだ。バックアップした情報で、コンピュータ上では脳の働きが模擬出来ているにもかかわらずだ。」

 時宮准教授は、ジェスチャーを加えつつ続けた。

「そこで私は考えた。シナプスの情報を解析しただけで、本当に脳の活動をシミュレート出来たと言えるのだろうか?とね。例えば、人間の脳を脳波の周波数程度の低周波数のコンピュータとして見ると、想定される能力は実際よりもかなり低い。多分、電子回路で構成されたコンピュータと人間の脳は、別な原理で情報を処理しているからだろう。」

 時宮准教授は、遂に、フォンノイマンの世界の一歩先に足を踏み入れたのだろうか?しかし、期待はすぐに裏切られた。

「かつて大天才フォンノイマンは、人間が思考する時に量子力学的な現象が起こっていると推測していたんだ。そこで、私は彼の考えに立ち返ってみた。」

フォンノイマンの世界の先にもフォンノイマンがいるのか…。天才ではない常人の我々は、フォンノイマンの手のひらから逃れられないのかも知れない。

「脳の情報処理能力の話に戻ろう。特に大局的な判断が要求される場合に、脳の情報処理能力は異常に高い。」

オレもそう思っていた。囲碁やチェス等でコンピュータが人間に勝つのは当たり前ではあるが、それは脳と比べて遥かに高い動作周波数と記憶量のコンピュータを使っての話だ。「ハードウェア」のスペックを同等にすれば、勝つのは多分人間だ。この話は頭脳工房創界でも話題になった事がある。

 時宮准教授の講演は、激しくなるジェスチャーと共にヒートアップしてきた。

「これは、何かと似ている。そう、量子アニーリング/イジングタイプの量子コンピュータだ。」

そうか…。量子コンピュータのプログラムを組んだ事のあるオレには、合点がいった。そして、自己陶酔した表情の時宮准教授は締めの言葉を吐いた。

「それを実現しようとしているのが、この冷凍庫の中にある量子回路なのだ。」

段々、話し方や身振りが中二病っぽくなってきた時宮准教授だったが、三十歳オーバーのおじさんの身体には少しきつかったらしい。ここまで話すと、疲れたから研究室に戻ってお茶したいと言い出した。


 研究室に戻ると、時宮准教授は皆をソファーに座らせ、ペットボトルの紅茶と紙コップ、そして個別包装の色々なお菓子の入った木製の大きな皿をテーブルの上に置いた。

「さあ、どうぞ。」

と言うが早いか、自分でコップに紅茶を注いで飲み始めた。

「生きかえる!」

実験室はエアコンが効いていたが、残暑の中歩いて移動したので、オレもすっかり喉が渇いていた。オレもコップに注いだ紅茶を、一気に飲み干してしまった。

 こうして気分がスッキリすると、さっきの「講演」に対して疑問に思っていた事を思い出した。

「一つ質問があります。」

「何かな?」

「不確定性原理のため、オレの脳内の量子の状態を厳密に観測するのは不可能だと思うんですが?」

「良い質問だね。もちろん、その通りだよ。」

「それでは、量子回路にオレの脳の状態をコピーするのも不可能だと思いますが?」

「言いたい事は分かる。まあ、順を追って説明しよう。」

 説明が長くなると思ったのか、時宮准教授はコップの紅茶を飲み干した。

「さっき言った通り、脳の活動の内シナプスの働きで説明出来るのは人間の表面的な記憶だ。反対に、十分に説明できないのは主に演算処理と言ったところだろう。量子の状態が影響するのは、その演算処理に関する部分と考えられるが、多分記憶の奥底も含まれると思う。ものの考え方に直結する記憶、すなわちオペレーティングシステムのようなものだ。」

オレはうなづいた。

「人間の細胞内の量子の状態は、ポズナー分子に含まれるリン原子のスピン状態で決定されると考えられているんだ。しかし、ある状態は1日程度しか維持出来ず、動的に変わっていく。だから、睡眠学習装置(仮)の量子回路に、スピン状態をコピーする必要は無くて、脳の活動と矛盾しないようにシミュレート出来れば良いと考えている。」

 「矛盾しないようにシミュレートさせるのだって難しそうに思いますが、どのようにするんですか?」

今度は木田が質問した。

「秘密兵器を使うんだ。」

時宮准教授がニヤリと笑った。

「量子回路を用いた、量子アニーリングラーンメソッドだ。さっき見せた冷凍庫の中の装置に、プログラムも組み込んである。脳だけでなく全身のポズナー分子の状態をシミュレートする、睡眠学習装置(仮)の心臓部だ。」

 オレは背筋がゾクッと寒くなった。本当にオレの記憶と意識は、あの装置に取り込まれてしまうのか。今さらながらその事を実感して、魂を抜き取られるような恐怖を感じた。


 「さて、そろそろ本題に入りたいのだけど、良いかな?」

疑問に答えられると新しい疑問が湧いて来たが、先に本題とやらの説明をしてもらう事にして、うなずいた。

 時宮准教授は皆を見渡してうなずくと、話を進めた。

「先日の実験の主な目的は、これらの装置の動作確認と、ポズナー分子の体内分布の確認だったんだ。」

 そして、高木さんの方を向くと説明を促した。

「高木さん、実験の時の脳波を見せて説明して下さい。」

すると、高木さんが手元の端末を操作して、脳波をプロジェクターで表示した。

「覚醒から睡眠への移行に伴い、アルファ波の振幅が徐々に小さくなっていき、やがてシータ波に変わっています。だから、この辺りで桜井君は入眠したと判断して、実験を開始しました。」

「睡眠後の波形についてはどうかな?」

「全体的には教科書等に載っているものと、大きな違いはありません。詳細な波形は睡眠学習装置(仮)が学習中です。ただし、このままでは、脳の電気信号が被験者の刺激にどう対応するのかわかりませんが…。」

 すると、時宮准教授はニヤニヤして言った。

「まあ、教師無しでも量子回路が学習してくれるから、睡眠学習装置(仮)の実験としては回数をこなして学習データを増やせば良いんだけど…。高木さんの卒論もあるし、刺激を与えて反応のデータを取る方が、実験結果を説明しやすいかな?実験中に、眠る前の桜井君を突っついたり、こちょばしたり、映画を見せたり…エロい動画を見せるのも良いかも知れないね。後で考えてみよう。」

 木田が笑いながら何かを言いたそうにしてたが、顔を赤くした高木さんを見て、口をつぐんだ。きっと、ロクでも無い事を考えていたに違いない。


  時宮准教授は話題を変えた。

「さて、今回の実験ではポズナー分子の分布を得ることが目的だった訳だが、その目的は概ね達成された。」

と言いながら、手元の端末を操作してプロジェクターで表示した。

「ポズナー分子はイオンチャネルを制御する働きがあり、身体中の各細胞で必要とされるから、予想通り大体均等に分布しているようだね。さらに、一定方向の磁場をかけてリン原子のスピン状態を計測したら、結果はこうなった。」

 色分けされた図では、複雑ではあるが組織化された構造を示していた。

「ポズナー分子のリン原子のスピン状態は、コヒーレントとデコヒーレントを繰り返しているから、こうなるのは予想通りだ。今後は、変化して行く量子状態の動的な構造を学習させて行けば良いだろう。」

  そこで、時宮准教授はプロジェクターの表示を、脳の構造を示す図に切り替えた。

「その後、量子状態に影響を受けるシナプスの働きを学習させていけば、最終的に桜井君の記憶と意識を睡眠学習装置(仮)に再現出来ると思うけど、君達はどう思う?」

流石だ。この若さで准教授を名乗っているのは、伊達では無いと思った。少し怖いけど、今後もこの実験に付き合って行こうと思い、大きくうなずいた。それを見て、時宮准教授は、

「それでは桜井君、今後ともよろしくね。高木さんも頑張って。木田君も、興味があったらいつでもおいで。私は別の打ち合わせがあるから、そろそろ失礼するよ。」

と言ってこの場を解散させて、研究室から出て行った。

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