3.17. 盗聴
あんな夢を見た後だ。オレは現実世界のオレから任された、ムーコのドローンをチェックした。だが、システムからチェックできる範囲では異常は無かった。
ムーコのドローンの映像を見ると、真っ暗だ。まあ、展開していないのだから当然だろう。
マイクをオンにすると、
「3行3列の行列の固有値は…」
…女性の声が聞こえてきた。鳥羽先生だろうか?多分、線形代数の講義だろう。
行列計算はプログラミングで良く使うので、オレは楽勝だった。だが、鳥羽先生は、成績の悪い学生を容赦なく落とす。線形代数は必修なのだが…。だから、楽して単位を取りたいエコロジーな履修を目指す学生には、あまり評判の良い講義ではなかった。
さらに耳を凝らして聞いていると、
「スー。スー。」
寝息が聞こえて来た。現実世界のムーコの寝息だろう。
必修だし講義室の入口で入室確認されるから、講義室に学生は多く先生の目は行き届かないハズだ。…さぞ、ムーコにとって寝心地の良い講義なのだろう。今のところ現実世界のムーコは平和だが、鳥羽先生の講義で眠っていれば、近未来に悲劇が訪れる可能性は高いかもしれない。
だが、それはAM世界のムーコの意識と関係するだろうか?いや、そんなことは無いだろう。そのうち、現実世界のオレや高木さんに、試験範囲の内容を教えて欲しいとムーコが泣きついて来る位のことだ。最悪、ムーコが留年するとしても、世界は平和だ…。
現実世界のムーコに異常は無いようなので、ついでに「妹」の里奈のドローンもチェックした。
システムから確認出来る範囲では、こちらも問題は無かった。そして、映像が真っ暗なのも、ムーコのドローンと同じだ。何も問題は無い。
マイクをオンにすると、2人の女性の話し声が聞こえて来た。そのうち1人の声は、多分、叔母の倉橋香だ。
「里奈ちゃん、今日はわざわざ来てくれてありがとうね。それで、西玉美術大学への進学に備えてうちに来ること、考えてくれた?」
里奈は西玉美術大学に進学しようとしているのか?それに、叔母の言う「進学に備える」って、どういうことなのだろう?
「まだ迷っています。」
こちらは里奈の声か?
この声は、「神々の記憶」の「璃凪姫」に、いや「上泉先生の世界」の「上泉梨奈」にもそっくりだ。やはり、現実世界の時宮准教授が推定した通り、この2人は現実世界の妹「桜井里奈」の虚像なのだろう。しかし、AM世界には「桜井里奈」は存在していない。
AMであるオレには「桜井里奈」の記憶は無いが、その後もこの2人の会話が気になり、聴き続けてしまった。どうやら、叔母は里奈に自分と同居させて、彼女の家から近い西玉美術大学の学生を里奈の家庭教師につけようとしているようだ。それに対して里奈は、家庭教師から教わるのは魅力的と言いながら、叔母との同居には何故かためらっているようだ。
AM世界のオレには、叔母の話は「妹」の里奈にとって良い話のように思えるが、現実世界のオレはどう思うのだろう?それに、現実世界のオレは里奈の葛藤を知っているのだろうか?
それと、…オレがこうしてドローンのマイクを通して2人の会話を聞くのは、盗聴行為だろう。「盗聴」で知った情報を、現実世界のオレに伝えて良いのだろうか?現実世界のオレは、盗聴行為になってしまうことを恐れて、ドローンの管理をAMのオレに任せたのだろうか?
AMのオレは、法的にはAIと何ら違わないだろう。AIが入手した個人情報は、個人が特定できないように利用すると、法律で定められている。だから、AMのオレは、こうして知ったことを現実世界のオレに伝えない方が良いのか?
いや、そんなことより、知ってはいけないことを盗聴してしまったことが、どこか後ろめたいのだ。だから、この件は放っておこう。そう思いながら、オレはあまりよく知らない「妹」のドローンのマイクをオフにした。
アインシュタインとフォンノイマンのAIがそろって緊急だというから、オレはすごく焦っていた。だが、どうやら現実世界のムーコは平和なようだ。
むしろ、現実世界の「妹」の変化が、シスコンらしい現実世界のオレの心に波風を立てる兆しがある。だが、現実世界のオレの心に波風が立っても、AMのオレにとってはどうでも良いことだ。
少し落ち着いたオレは、出かけることにした。今は午後4時。夕暮れが近づくこの時間には、きっと時宮研究室に行くと高木さんや木田、豊島たちもいるかも知れない。それに、3人寄れば文殊の知恵とも言う。みんなに「フォンノイマン博士の世界」で経験したことを話せば、何か良い知恵が思いつくかも知れない。皆に会うのも久しぶりだし、楽しみだ。
ついでに、その後に頭脳工房創界へも行ってみよう。考えてみれば、このAM世界に来てから、一度も行っていない。お金を稼がなくて良いから行く必要は無いが、AM世界の加賀さんや三笠さん、吉川さんにも会ってみたい気がするが、いるかな?
だが、そこでさっき見た夢を思い出した。黒いワンボックス車から降り立ったムーコのストーカー「八神圭吾」と、対峙する夢だ。夢の中で、ムーコはとても怯えていた。
でも頭脳工房創界とレゾナンスとの共同開発は終わり、八神さんはレゾナンスに帰ったのだ。だから、頭脳工房創界付近であの黒いワンボックス車を見ることはないだろう。
あれっ、何か違う。そもそも、八神さんはムーコのストーカーだったハズだから、ムーコのいない場所には来ないだろう。…ってことは、今頃はムーコが出没する地域にいるのか?
そういえば、先日現実世界のオレから来たメールには、黒いワンボックス車が大学付近に出没するようになったと書かれていたではないか?そのせいで、あんな夢を見たのだろうか?
そんなことを考えながら歩いているうちに、大学に着いた。まだ夕食にはやや早いが、少しお腹が空いてきたような気がする。学食の近くを通ると、良い匂いがしてきた。
このまま時宮研究室に向かうか学食に寄るか悩んでいると、後ろから肩を叩かれた。振り返ると、見覚えのある「のっぺらぼう」ではない顔があった。
時宮准教授だ。
「桜井君は、フォンノイマン博士のAIと会えたかな?」
「ご存知でしたか?」
「高木さんから聞いたよ。君がフォンノイマン博士のAIを創って、平山さんの意識を戻す方法を相談しようとしているって。」
「その通りです。」
「夕食をおごるから、その辺りのことを聞かせてもらえないだろうか?」
渡りに舟だ。オレの答えは、
「その話、乗ります。」
であった。




