1.6. 天才と大天才
それから三日後、時宮准教授から呼び出しがあった。先日の実験結果の説明と、今後の方針を説明してくれるのだそうだ。「睡眠学習装置(仮)」を見てみたいと言っていた木田にその事を話すと、一緒に時宮研へ行ってみたいとせがまれた。仕方がないので時宮准教授にメールで相談すると、連れて来ても良いとの返事だった。
既に勝手知ったる時宮研だ、もうノックはしない。一応挨拶して研究室内に入ると、コーヒーの芳ばしい香りがした。それから間も無く、研究室の奥の方から高木さんが出て来て、少し蒼ざめた表情で、
「こ、この間は、ごめんなさい。」
と謝罪して来た。
高木さんによると、被験者実験を実施した後に、報告書を指導教官と学内の倫理委員会へ速やかに提出しなければならないらしい。そこで、高木さんは報告書を作成して、2日前に時宮准教授と倫理委員会の委員長でもある二階堂先生に提出したそうだ。ところが、実験終了後にオレが自力で「睡眠学習装置(仮)」から出られなかった件が、倫理委員会で問題になった。そこで昨日、時宮准教授は二階堂先生にコッテリ絞られ、高木さんは時宮准教授に愚痴られたとの事。
でも、オレにとっては一大事でしたとも。里奈がいなかったら、どうなった事やら。話を聞いたオレは、少し調子に乗りつつ語気を強めて、
「二階堂先生が怒るのも、もっともですよ。大袈裟と思われるかも知れませんが、あの時火事になっていたら、オレはこの世からオサラバしていたかも知れなかったんですよ。」
と言い放った。すると恐縮した高木さんは、個人的に何か埋め合わせをするとまで言ってきたが、それは貸しにしておいてもらった。いずれにしても、「睡眠学習装置(仮)」は中から自力で出られる様に改良中だそうだ。
高木さんと話をしている間に、時宮准教授がやって来た。オレ達にソファーに座るように勧めると、
「この間は悪かったね。」
と言った。でも、なんか軽い。こういう人だよ、この人は。時宮准教授はさらに続けて言った。
「さっき、高木さんが桜井君に何か埋め合わせをするって言ってた様に聞こえたけど、変なお願いをしたら妹さんにチクるから、そのつもりでね。」
ちょっと表情が怖かった。
「分かってますって。」
痛い所を突かれたオレは、苦虫を噛み潰すように返事をした。
そう言えばあの実験の後、里奈の態度が少しおかしい気がする。ボーっとしてたり、何か独り言を言ってたり、素っ気無かったり。実験の時も、高木さんやムーコにあまり打ち解けて無かった様に思えたし。しばらく治まっていた反抗期の再発だろうか?それとも、高木さんとムーコにヤキモチをやいていたのだろうか?まさかね。
時宮准教授は、今度は木田の方を向いて、
「君は、木田仁君で良いのかな?」
と尋ねた。木田も時宮准教授の講義を取っていて、出席も皆勤賞ものなんだが。木田は、時宮准教授にしっかり覚えてもらえていなかった事を気にもせず、答えた。
「そうです。今日は実験装置を是非見たくて、桜井に付いて来ました。」
「二年生前期の私の担当は生物学だったけど、この講義の成績は桜井君より君の方が優秀だったみたいだね。」
それはそうだ。オレは赤点だったけど、木田は普通に単位取れてたし。
オレは少しムカついたが、木田がフォローしてくれた。
「でも、僕はテンソルでは桜井に教わってばかりです。」
「テンソルか。あれは、連続体とか電磁場の計算なんかをするのに重要なスキルだね。」
「スキル…、ですか。」
「我々情報工学屋にとって、数学は使えれば良い道具なのさ。理屈は数学屋に任せて。だってね、あれは天才アインシュタインでも苦労して学んだと言う話だよ。」
「アインシュタインですか? 相対性理論の。」
「その通り。一般相対性理論はテンソルを使わないとキチンと表せないから。常人は決められた通りに式を使うだけ。つまりは、巨人の肩に乗っていれば良いのさ。」
そうなんだよね。水の流れや炎をゲームで表現する時にも、テンソルの扱い方を一応理解して使わないと不自然になるから、頭脳工房創界でも勉強会したよな。
そこに、高木さんが四人分のコーヒーを持って来てくれた。コーヒーを配り終えると、自身も時宮准教授の隣に座り、話に加わった。高木さんが座ったのを確認すると、時宮准教授は話を続けた。
「でも我々情報工学屋は、何と言っても、かの大天才フォンノイマンを忘れてはいけないね。彼こそが、コンピュータの実質的な発明者なのだから。」
その言葉に、オレは激しく同意した。フォンノイマン。今のコンピュータの基本的な設計や利用法、数学的な基礎の殆ど全てを造り上げた、オレが密かに尊敬する超人。
時宮准教授の話に高木さんが、
「そう言われてみると、これまで色々な講義でその名前を聞きました。素晴らしい人だったんですね、きっと。」
と応じた。すると、時宮准教授の反応は少し意外だった。
「素晴らしい人…、かな?彼は、よく悪魔とも言われるんだよ。核爆弾の起爆装置は彼が発明したようなものだし、実際に使う事を主張したのも彼だ。その結果、日本に二つの原爆が落とされた。」
フォンノイマンを尊敬するオレでも、残念ながら同意せざるを得ない。彼の頭脳はジキルとハイド、いや、神と悪魔が一つとなった様なものだったと言うべきだろう。
時宮准教授はさらに続けて言った。
「それと、変人と言えるかもしれない。彼は、フォンノイマンの箱と呼ばれた鍵のかかった箱を残して、自身の死後五十年経ったら開ける様に遺言した。なにしろ、大天才でアメリカの国家的な要人だった彼の事だ。箱が開かれる時には注目されたらしい。でも、それを開けたら出てきたのは、彼の奥さんと、奥さんがフォンノイマンと結婚する前に夫だった男に関する資料ばかりだったそうだ。何故そんな物を遺したのか? まあ、大天才の考えることなんか、常人に解るハズも無いのだろうけど。」
その話も、オレは知っていた。でも、オレはその話にフォンノイマンの人間らしさを感じた。きっと、彼にとって一番重要だった情報が、箱に入れられていたのだと思う。そんな、神でも悪魔でも無い人間だからこそ、尊敬に値する大天才だと思ったのだ。
ふと、時計を見た時宮准教授はそこで話を打ち切ると、皆を実験室に連れて行った。「睡眠学習装置(仮)」は実験の時と同じ場所に鎮座していたが、大分イメージが違った。「睡眠学習装置(仮)」を覆っていたシェルが外されて、シェルを開閉する機構や、様々な測定装置らしきものが剥き出しになっていたからだ。それと、小さくて低い周波数の音が途切れる事なく鳴り続けている。一回目の実験の時には、こんな音は聞こえ無かったと思うが。




