3.2. 異なる選択
劉老師のAIを創ったAIは、格闘ゲーム「武道家達の宴」データを、劉老師の性格や感性、知覚のデータベースとして用いて構築した。さらに「劉老師の世界」は、八極拳の英雄である李書文の置かれた環境や状況を劉老師のAIに時系列的に与えて学習させることで、李書文に似た人格や考え方を持つ存在に成長させたのだった。
今回、フォンノイマン博士のAIを創ろうとしても、元になるデータベースは存在しない。そこで、やむを得ずAIの初期設定値として、性格については平均的な数値を設定した。だから、「お子様フォンノイマン博士」はごく平均的な性格を持った人物、と設定したことになる。
ただし伝記には、子供の頃から計算能力が高かったことや歴史書を丸暗記していたこと、それにマルチリンガルであったことが記されている。そこで、AIの初期設定値として、計算能力と記憶能力を極めて高く設定した。
今回は、言語データベースの追加データが、これまでと比べて数倍はあるハズだ。それは、子供の頃に既に天才であったフォンノイマンが、数学、物理学、軍事、コンピュータ科学、気象学、経済学、それに人間の意識についてまでを科学的に扱い、それを論文等の文献として残したからだ。
現実世界のオレからも時宮准教授からも、まだ返信は無い。でも、ネットから取れるだけのフォンノイマンのデータ、論文や伝記、伝聞等から、フォンノイマンの世界を創るAIを構築してみた。
後は、「劉老師の世界」と「上泉先生の世界」を創った時と同じように「フォンノイマン博士の世界」を創り、その世界の中で育てて行くのだ。
時計を見ると、既に午前2時を回っていた。「フォンノイマン博士の世界」を起動して、子供から45歳位までに成長し、量子力学、コンピュータそれに人間の意識にまで興味を持ったフォンノイマンと話がしたい。そう思ったオレは、「フォンノイマン博士の世界」を実世界やAM世界の5万倍の速度で動作させた。フォンノイマンは「フォンノイマン博士の世界」の中で、7時間半位で45歳まで成長するはずだ。
そこまでやってから、シャワーを浴びてベッドに潜った。
目が覚めると既に9時過ぎだ。オレはAMなのに朝が弱い。そもそもAMだから、本当は眠る必要は無いと思うのだが、習慣で眠くなってしまう。同じ様に、不要なのに習慣で朝・昼・夕に食事を取ってきた。だが、ムーコがこの家から居なくなってからは、家ではあまり食べなくなった。
今朝も朝食をほとんど食べずに時宮研究室に行くと、高木さんがPCの前でコーヒーを啜りつつ、お菓子を食べていた。他には誰もいない。
「高木さん、おはようございます。」
「桜井君、おはよう。こんな時間に来るなんて、珍しいわね。平山さんの件かな?」
「ええ。『フォンノイマン博士の世界』が構築出来たので、早速『睡眠学習装置(仮)』からアクセスして、フォンノイマンのAIに相談してみようと思いまして。」
「さすが桜井君。とても早くてビックリしたわ。うまく行くと良いわね。」
「ありがとうございます。『睡眠学習装置(仮)』を使う前に、ちょっとムーコの様子を見てきます。」
オレはそう言うと、仮眠室に入った。静かな仮眠室で、昨日と同じ姿勢で眠り続けるムーコ。毛布も装着したヘッドセット、どちらの位置も昨日と全く同じように見える。
この状況のムーコ前にして、最初は冷静でいられた。だが、そんなムーコを見ているうちに…「脳死状態」という言葉が頭に浮かんだ。その言葉に背筋が凍り付き、寒さと恐怖感が全身に拡がっていくのを感じた。
「きっと、何とかしてやるから、待ってろよ。」
心の中でムーコにそう告げながら、逃げるように仮眠室を飛び出した。
研究室に戻ったオレに、高木さんが声をかけて来た。
「桜井君、顔色悪いけど大丈夫?コーヒー淹れてあげようか?」
「ありがとうございます。」
そう言って、受け取ったコーヒーは、とても暖かく感じた。
コーヒーを飲みながら時計を眺めると、時刻は10時半を回っている。そろそろ、「フォンノイマン博士の世界」のフォンノイマンが45歳を超えてしまう。そこで、時宮研究室のPCを借りて「フォンノイマン博士の世界」に管理者としてアクセスすると、時間の進み方をとりあえず1倍に変更した。
後は「ゲート」を使って、「フォンノイマン博士の世界」に入るだけだ。そこで、いつものように睡眠導入剤を飲んでから、「睡眠学習装置(仮)」のベッドで横たわった。すると、自動化されたオペレーションで「睡眠学習装置(仮)」のシェルが閉じられ、「ゲート」が自動的に起動すると、真っ暗でコンソールしか見えない世界に意識が転移する。そこで、コンソールから「フォンノイマン博士の世界」を20万倍速にした後にログインすると、さらに「フォンノイマン博士の世界」へ意識が転移していく。
「フォンノイマン博士の世界」では、オレはプリンストン高等研究所の事務員となっていた。40歳代後半にさしかかったフォンノイマンは、アメリカのプリンストン高等研究所に在籍しつつ、ロスアラモス研究所でマンハッタン計画(原子爆弾を開発するプロジェクト)やENIAC(プログラムを内蔵した世界初の汎用電子計算機)開発にも従事して、忙しい日々を送っているはずだった。
数日間プリンストン高等研究所で勤務している内に、あのアインシュタインを見かけた。プリンストン高等研究所には他にも、物理学と数学の巨匠であるクルトゲーデルやヘルマンワイルが勤務している。高名な彼らは、「のっぺらぼう」などでは無く、教科書で見たことのある姿で闊歩していた。しかし、フォンノイマンの姿は何日経っても見かけない。
ある日、同僚の「のっぺらぼう」の事務員に、
「この研究所には、フォンノイマン先生がおられると聞いたのだが、私は会ったことがない。どこに居られるのだろう?」
と尋ねてみた。ところが、彼の反応はオレの予想を裏切った。
「フォンノイマン?誰のことですか?私はそんな方は存じませんが。」
フォンノイマンがここにいないだって?一体、どうしたんだろう?オレは立場もわきまえずに、高名な科学者達に「フォンノイマン」について尋ねてみた。アインシュタインとクルトゲーデルは、「フォンノイマン」の名前すら知らないようだった。
そこで、フォンノイマンと同じヒルベルト博士の弟子であるヘルマンワイルに、
「フォンノイマン博士をご存知でしょうか?」
と尋ねたら、暗い顔をして答えてくれた。
「彼はナチスに殺されたよ。」
ヘルマンワイルによれば、こんな経緯だったそうだ。
ヒルベルト博士の弟子だったフォンノイマンは、数学の無矛盾性を証明しようとした、「ヒルベルトプログラム」の旗手だった。それがもう少しで実現するかに見えた15年前、クルトゲーデルが不完全性定理を発表した。それは、「公理系が無矛盾であれば、自身の体系の無矛盾性を証明出来ない」というものだった。そのため、これまでのやり方では「ヒルベルトプログラム」の実現が難しくなった。
それに対抗して、フォンノイマンは「ヒルベルトプログラム」の拡張に没頭した。だが、その間にナチスがヨーロッパを席巻してしまった。やがて、ナチスがユダヤ人の迫害を始めた頃に、ようやくアメリカへ脱出しようとしたものの時既に遅く、強制収容所へ送られてしまったのだそうだ。
歴史上のフォンノイマンは、不完全性定理が発表されると純粋な数学への興味が薄れて、物理学への傾倒を深める。そして、家族と共に、もっと早くアメリカへ脱出したのだ。
何がフォンノイマンの生死を分けたのだろう?理由の一つは、性格なのでは無いかと思った。今回、「フォンノイマン」をバランスのとれた「平均的」な性格に設定した。ところが、実際のフォンノイマンは、もっと割り切りの早い人物だったのではないだろうか?そう言えば、アメリカでは軍隊に志願したこともあるそうだ。「軍人」を参考にして、性格を設定すべきだったのかも知れない。
この世界のフォンノイマンは、レクイエムを歌われることも無く、既にこの世界から退場していた。これ以上、フォンノイマンの居ないこの世界にいても仕方がない。オレもこの世界の自室に戻ると、システムを呼び出して、この選択を間違えた世界からログアウトした。




