2.27. 仮眠室にて
こうして、鍵を持つ高木さんを先頭に時宮准教授とオレが後に続いて、仮眠室の前に立った。高木さんが、少し上擦った声で言った。
「鍵を開けます。」
時宮准教授とオレは、少し緊張した表情で頷いた。高木さんが鍵を開けて、ドアを開けた。
ガチャ。
仮眠室に入ると、そこには確かにムーコがいた。仮眠室のベッドで毛布をかけて、ヘッドセットを装着して横たわるムーコ。でも、あまりに静かで不安になる。まさか、死んでいるのか…?
思わず、ムーコの口元に耳を近づけると…呼吸している!オレは、かつて経験したことがない程、幸せな気分を感じていた。オレは2人を振り返ったが、何と言って良いのか,言葉が出なかった。
ようやく頭をフル回転させて上擦った声で吐き出した言葉は、小学生の頃に初めて話した英語のレベルだった。
「…ムーコは呼吸してます。」
「ムーコは生きてます!」
すると高木さんが、ホッとした表情で時宮准教授を振り返った。
しかし、時宮准教授の表情は硬いままだった。
「生きていることが確認出来たとはいえ、平山さんの状態は良くない。意識が戻らないのだから。そして、ここは桜井君のAMの世界だ。だから、桜井君に問おう。君にとって、平山さんは邪魔な存在か?それとも、かけがえのない存在なのか?」
時宮准教授の目が、ジッとオレを見た。何故、時宮准教授の表情は硬いままなのだろうか?
困惑したオレを見て、時宮准教授は話を続けた。
「今の桜井君は、動揺して冷静に考えられないようだから、少し説明しよう。」
オレが頷くと、高木さんも身を乗り出して来た。
「ここは、桜井君のAM世界だ。いわば桜井君の夢の中のようなものだ。時には悪夢もあるかもしれないが、基本的には桜井君にとって都合の良いことが起こるはずだ。すると今回の件は、桜井君が平山さんを邪魔だと思ったせいか?しかし、それなら平山さんは意識を失ったり亡くなったりするのではなく、消えてしまうはずだ。」
そこまで聞いて、ようやく時宮准教授の表情が硬い理由がわかった。ムーコの意識が戻らない原因が、オレにあると考えているからだろう。だが、オレはムーコが邪魔だなんて思っていない。それどころか、本音を言えばこのAM世界で一緒に生きて行きたいと思っている。でも、そんなことを時宮准教授と高木さんの前で言うのは、恥ずかしくて出来ないが…。
そこで、オレの気持ちをほんの少しだけ2人に語った。
「オレはただ、このAM世界でムーコやみんなと楽しく過ごしていきたいだけです。」
すると、時宮准教授は表情を少し和らげて言った。
「だが、それならどうして平山さんの意識が無くなったのか、不思議だ。理由が解らない。逆に言うと、その理由さえわかれば、平山さんの意識を回復させることができるかもしれない。」
そうだ、ここはオレのAM世界だ。しかも目の前の2人は、現実世界でも高木さんは信頼してきた。…時宮准教授もまあまあ信頼してきたかも知れないが。オレはAMになってから今までに体験して来たこと…劉老師の世界と上泉先生の世界を構築して実質何年も過ごしてきたこと、「神々の記憶」でのことも含めて話した。
上泉先生の世界で上泉梨奈と結婚の約束をし、「神々の記憶」で璃凪姫と結婚したことも隠さずに話した。すると、高木さんには、
「桜井君って、どこの世界に行っても『リナ』っていう名前の娘が好きなのね。」
とからかわれたが、時宮准教授には、
「それは違う世界の話だろう?」
と納得してもらえた。
しかし、改めて思い出すと、2人の「リナ」は良く似ている。それに出会った経緯もだ。どちらも暴漢に襲われていたところを助けたという点で一致している。これも、ムーコの件と何か関係あるのだろうか?
そんなことをぼんやり考えていたら、時宮准教授から、
「先ずは基本に戻って、ヘッドセットに接続したPCと、『神々の記憶』のサーバーとのパケットを確認してみたら?ムーコの意識が桜井君のAM世界にあるのか、『神々の記憶』にあるのか、分かるかも知れない。」
と提案された。
その言葉に背中を押されるように、オレは研究室へ走り、1台のPCを起動した。やがて、オレの突然の行動に驚いた高木さんが追ってきたので、ルーターの情報を尋ねたが、
「ごめんなさい。私には分かりません。」
と言われた。そうだった。オレのAM世界の人達は、オレの知らないことは知らないのだった。
そこで、つなぎに着替えて、ヘッドギア、グローブを着用すると、「睡眠学習装置(仮)」の自動オペレーションシーケンスを起動させた。その後、睡眠導入剤を飲みシェル内のベッドに横になると、シェルが閉じられて「ゲート」が自動的に起動した。
間も無く、オレの意識は「真っ暗でコンソールしか無い空間」に転移した。そこから、このAM世界が内包されている現実世界の「睡眠学習装置(仮)」と「神々の記憶」との通信パケットを確認すると、昨夜以降は全くパケットが送受信されていないことが判明した。つまり、少なくともオレが「神々の記憶」からログアウトした後には、ムーコは「神々の記憶」で活動していない。
再び「真っ暗でコンソールしか無い空間」からログアウトすると、つなぎを着替える時間も惜しんで、仮眠室に急行した。まだ仮眠室にいた時宮准教授に状況を説明すると、時宮准教授は答えた。
「恐らく、平山さんは『神々の記憶』にはログインしていないのだろう。だから、ヘッドセットを外しても問題は無さそうだ。しかし…。」
時宮准教授の言葉はそこで止まってしまった。オレは思わず、
「しかし?」
と応じて、先を促す。
時宮准教授は少し苦しそうな表情で、ゆっくり言葉を続けた。
「恐らく、ヘッドセットを外しても、平山さんの意識は戻って来ないだろう。平山さんの意識が無いことと、『神々の記憶』へログインしていないことは、無関係なのかも知れない。」
他にムーコの意識を回復させる手掛かりの無いオレは、時宮准教授に詰め寄った。
「それじゃ、どうすればムーコの意識を戻せるんですか?」
「私には分からない。この問題を解決できる人間がいるとすれば、歴史上1人しかいないのではないか、と思う。」
「それは?」
「かの大天才、フォンノイマン氏だ。前にも彼の業績を話したことがあるだろう?私もあんな頭脳を持ってみたいものだ。」
時宮准教授は、やや自嘲するように答えた。だけど、そんなことを言われても、彼ははるか昔に亡くなったのではないか?
オレのAM世界の時宮准教授は、オレが現実世界で学んだことと、オンラインで検索出来る情報しか持っていない。だから、残念ながら知識が浅い。それに、現実世界の時宮准教授には人の心や未来を先読みしているような所があったが、オレのAM世界の時宮准教授にそれは反映されていない…というより、出来無いのだろう。その時のオレは、何故そうなのかは考えてもみなかった。
ただ、現実世界の時宮准教授ならこの状況を何とかしてくれるのではないか、とオレは思った。
しかし、結局ムーコからヘッドセットを外す勇気は無く、当面仮眠室を使わせてもらうことになった。高木さんから鍵を預かり、オレ1人、ムーコの眠るベッドの側に残った。
ムーコの手を握ると、体温が伝わって来る。暖かい。ムーコは生きているのだ。だが、相変わらずピクリとも動かない。目の前にいるムーコは、たった今、一体何を考えているのだろうか?あるいは、完全に意識を失った状態なのだろうか?
気がつけば、ムーコの手を握ったまま、ムーコが寝ているベッドに突っ伏して眠っていたようだ。窓から射し込む赤い朝日が眩しい。チュンチュンと、鳥が鳴く声も聞こえてきた。
オレは、ヘッドセットを装着したまま眠り続けるムーコに、静かに語りかけた。
「オレが何とかするから、待ってろよ。」
それは、オレの決意表明だった。
第2章の主な登場人物
桜井祥太
主人公。大学二年生でコミュ障のオタクハッカー。
「睡眠学習装置(仮)」内の人口意識体(AM)として存在する。
自身の意識内に「AM世界」を構築し、ハッカーとしての能力を活かして「AM世界」からネットワーク内の情報にアクセス出来るようにした。また、歴史上の人物とその周りの世界を構築するAIを創り、構築された世界やゲームの世界に「ゲート」を使って「転移」する。
平山美夢
大学一年生で、桜井祥太の高校の陸上部の後輩。祥太を追って先駆科学大学情報工学部に入学した。家族や友人から、ムーコと呼ばれる。「AM世界」では、桜井祥太の同居人となる。
<桜井翔太のクラスメート>
木田仁
川辺亘
豊島結衣
新庄由紀
小鳥遊由宇
<時宮研究室>
時宮良路
先駆科学大学の準教授で、ヒトの記憶を量子コンピュータに読み込む方法を発明して、「睡眠学習装置(仮)」を開発した。
高木希
時宮研究室の学部四年生で、「睡眠学習装置(仮)」のオペレーション担当。
<劉老師の世界>
劉老師
格闘ゲーム「武道家達の宴」に出てくる、八極拳の達人。元々、実在した八極拳の英雄である「李書文」をベースにして作られたキャラクターだったので、李書文の言い伝えや人生に基づいて構成されたAI。
<上泉先生の世界>
上泉真
格闘ゲーム「武道家達の宴」に出てくる、新陰流の達人。実在した新陰流の開祖「上泉伊勢守信綱」をベースにして作られたキャラクターだったので、上泉伊勢守信綱の言い伝えや人生に基づいて構成されたAI。
上泉梨奈
上泉真の一人娘。兵士に襲われているところを主人公に救われ、主人公と駆け落ちする約束をしている。
堀三太夫
上泉梨奈の元々の許婚。主人公を倒そうとするが、逆に打ち負かされる。
<「神々の記憶」の世界>
ショウ
「神々の記憶」における主人公のキャラクター。
ミュウ
「神々の記憶」における平山美夢のキャラクター。
少彦名命
「神々の記憶」の世界における神の一柱。主人公の従者となる。
海の要塞の所有者で、無限複製、空間転移(限定)のスキルを持つ。
海の近くの集落の村長。
璃凪姫
少彦名命の一人娘。主人公の妻であり従者となる。
大風命
少彦名命が治める集落の副村長。
第2章のハードウェア・ソフトウェア
睡眠学習装置(仮)(すいみんがくしゅうそうち)
現実世界の睡眠学習装置(仮)は、現実世界で時宮准教授が開発した。被験者の記憶や意識をコピーして量子コンピュータ内に人工意識体を創るための、実験装置。主人公のAM世界では、主人公の全感覚を入力して、主人公の意識を他のプログラム(ゲームやAIが構成した仮想世界)に転移させるためのハードウェアとして利用されている。
リアライズエンジン(改)
ゲームから提供される限られたデータを元にリアルなゲーム世界を構成しユーザに体感させることを可能とするために、頭脳工房創界により「リアライズエンジン」が現実世界で開発されていた。これを、主人公(AM)の手により改良を加えた、量子コンピュータ上で動作するプログラム。
ゲート
AM世界の「睡眠学習装置(仮)」と「リアライズエンジン(改)」を組み合わせた、AMの主人公がゲームやAIが構成した仮想世界に自分の意識を転移させるために利用した、AM上の装置。




