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フォンノイマンのレクイエム  作者: 加茂晶
第2章 人工意識体の世界
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2.9. 劉老師

 オレは「ゲート」を使って、最初に、「劉老師の世界」に入ることにした。そこで、いつものように睡眠導入剤を飲んでから、「睡眠学習装置(仮)」のベッドで横たわった。そして、ムーコのオペレーションで「睡眠学習装置(仮)」のシェルが閉じられて、真っ暗でコンソールしか見えない世界に意識が転移する。そこで、コンソールから「劉老師の世界」を20万倍速にした後、ログインした。


 こうしてオレが「転生」した「劉老師の世界」すなわち「李書文が40歳だった頃の世界」は、1904年頃の中国の大都市、天津だ。当時の中国は、清帝国の末期だった。義和団(ぎわだん)の乱で清が大揺れに揺れて、袁世凱(えんせいがい)という人が中心になって、軍事力の増強と外国との交渉で収拾を図っていた。李書文すなわち劉老師は、袁世凱の軍隊「北洋軍」を鍛える教官という立場にあったのだ。

 この世界でのオレ自身は、この「北洋軍」の軍事顧問という設定だ。ざっくり言えば、劉老師の同僚と言って良いだろう。それでも、劉老師に会えたのは、この世界に入ってから3日後のことだった。

 劉老師は、「武道家達の宴」のキャラクターの姿を少し現実っぽくした感じの風貌だ。劉老師の世界を創っている時にネットで見つけた、李書文の合成画像に少し似ていた。この世界もおれのAM世界の一部でもあるから、オレが新たに得た知識が早速反映されたのだろう。


 オレは、劉老師の姿が視界に入るや否や、即土下座した。

「どうか、この私に八極拳を教えて下さい。」

すると、劉老師の眼光は鋭く、でも口調は穏やかに、

「頭をお上げなさい。あなたがこの世界を、私から八極拳を学ぶためだけに創られたことは、良く存じています。それに、お分かりと思うが、あなたは顔が見える数少ないお方だ。必ず、意に添いましょう。」

と言ってくれた。

 そう言えば、「劉老師の世界」を構築するために使ったデータで人物の写真があったのは、西太后(せいたいごう)愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)蒋介石(しょうかいせき)毛沢東(もうたくとう)、それに袁世凱くらいだろうか。オレがネットで探した限りでは、当時の李書文やその家族、弟子たちの写真は無かった。「劉老師の世界」でもAM世界と同様に、顔の見える人は劉老師以外にはほとんどいないはずだ。

 その日は、軍の食堂で夕食を共にしながら歓談した。ただし、残念なのは豪華な中華料理は出て来なかったことだ。オレが現実世界で食べたことがなかったから、ゲートで再現できないのだろう。


 翌日からは、八極拳と槍術(六合大槍)を指導して貰えることになった。劉老師もオレも、この世界で仕事が与えられているのだが、それを放り投げての修行だ。現実世界では有り得ない。


 それから5年。朝から日が暮れるまで、修行の毎日だった。天津の夏は東京と同じくらい暑くなり、冬は札幌よりもずっと寒い。もちろん、夏でも冬でも、外での修行だ。

 その5年間に、この世界でも歴史の流れに従って、政情が激変している。光緒帝(こうしょてい)が崩御し西太后が病没すると、劉老師とオレの後ろ盾であった袁世凱が失脚した。でも、ここはオレが修行するために作られた世界だ。こんなに状況が変わっても、オレの修行には全く影響が無かった。多分、「劉老師の世界」を構築しているAIが、うまくコントロールしてくれたのだろう。


 八極拳の修行では、最初は正しい動作が出来ず、腕、脚、腹などを木の棒でバシバシ叩かれまくった。叩かれた所は夜間には腫れあがり、劉老師が本音でオレに八極拳を教えるつもりなのか疑ったことも、一度や二度では無い。

 しかし、徐々にではあるが、何が理にかなった動作なのかわかる気がして来た。3年後には、一応八極拳は形になって来たような気がした。


 だが、その後始まった六合大槍の修行は、もっと苛烈だった。最初の頃は、脳天を打ち据えられて失神する毎日。オレがAMじゃなくて現実世界の生身の存在だったら、後年脳障害に悩まされるのではなかろうか、と思った。実際、公式には李書文の死因は脳溢血であった。昔の武道家達の苛烈さがしのばれる。


 こんな修行の結果、5年後には、どうにか劉老師と対等に組み手ができるようになった。

 実は、この劉老師は、伝説となった李書文ほどには強く無い。それは、史実にある李書文は小柄だが凄まじい剛力とされているが、劉老師の筋力は通常レベルに設定したからだ。それでも、基本に忠実な劉老師が弱いはずもなく、修行を積んで技を身につけたオレは相当強くなったはずだ。

 その日の修行が終わると、劉老師から、

「教えられることは、全て教えた。あとは、日々の鍛錬の積み重ねだ。」

と言われた。手ごたえを感じたオレは、ひとまず修行を終えることにした。劉老師に礼を言って再会を約束すると、オレのAM世界に戻ることにした。


 一度、真っ暗でコンソールしか見えない世界に戻って、そこをさらにログアウトする。AM世界に戻ると、「睡眠学習装置(仮)」のシェルターの中にいるハズだ。

 自力でもシェルターを開けられるが、一応、シェルターの壁をノックしてみた。すると、ムーコが開けてくれた。5年ぶりにムーコの顔を見て、なんだかホッとした。

「ムーコ、ただいま。」

「おかえりなさい、桜井先輩。」

そう言って柔らかい笑顔を向けてくれたムーコの背景が、キラキラ輝いたような気がした。


 だが、すぐに通常モードになった。

「でも、桜井さん大げさですよ。もしかして、私のことが好きになっちゃったんですか?」

「そう言う訳じゃないぞ、同居人。何しろ、再会したのは5年ぶりだし、同居人同士でも『ただいま』くらい言うだろうが。」

「『5年』って、先輩どうかしちゃったんですか? 先輩が「睡眠学習装置(仮)」で寝てたのって、ほんの10分くらいじゃないですか?」

「えっ?」

「おかげで、コーヒーもまだ出来ていないんですから。あっ、桜井さんも飲みますよね、コーヒー。」

もちろん、オレはうなずいた。


 5年間いた「劉老師の世界」から瞬時にこの世界に戻っても、認識が着いて行けず、頭がクラクラする。そうだ、「劉老師の世界」はまだ20万倍速だった。時間スケールをすぐに遅くしないと、あの劉老師に二度と会えなくなる。そこで「睡眠学習装置(仮)」のコンソールから、急いで100万分の1倍速モードに戻した。


 それにしても、劉老師は言わば李書文のコピーだ。よくもコミュ障のオレが、初対面の劉老師に開口一番に弟子入りをお願いして、そのまま5年間も一緒に生活して来たものだ。ついに、コミュ障を克服できたのか? それとも、この世界がAMであるオレが構築したものだから、こんな冒険が出来たのだろうか?

 そういえば、高木さんもコミュ障だったはずだが、先日の時宮研ではあまり面識の無い川辺や新庄達と普通に接していたように見えた。AMのオレがこの世界でのコミュ障を無いものとして扱っているのか、高木さんが努力した結果なのか、はたまた普通に接していたように見えただけなのか?機会があれば、高木さんに聞いてみたい。


 そんなことを考えてぼーっとしていると、ムーコがコーヒーカップを持って来てくれた。それから…5年ぶりにムーコが淹れてくれたコーヒーを堪能した。いつもの味のはずだが、何故かとても落ち着く。今日はこのまま、ムーコとまったり過ごすことにした。


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