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フォンノイマンのレクイエム  作者: 加茂晶
第1章 プロローグ
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1.20. うららかな休日の夕暮れ

 どこかでピアノの音がする。この曲は…ショパンの舟歌。どこか甘く、そして切ない。舟歌と名前が付いてはいるが、そこはフレデリック・ショパンの名曲だ。船乗りが唄うような明るく陽気な曲ではなく、不安定な情緒とどこか甘美な印象を与える。

 この曲が流れていると言うことは、豊島結衣(とよしまゆい)が来ているのだろう。クラシックのピアノ曲が好きな、オレと同学年の学部4年生だ。2年生の前半までに、オレと木田、それに川辺は、テストやレポート対策で助け合うようになっていた。豊島も、小鳥遊(たかなし)新庄(しんじょう)ら女子同士でつるんでいた。それが、学生実験のグループ分けの時に人数合わせで同じグループになったのを機に、協力するようになった。今では、オレにとって気心の知れた友人の一人だ。

 ムーコの事を思い出していたはずのオレは、いつのまにか、時宮研の自席で突っ伏して寝てしまっていたようだ。起き上がると、外の景色は夕陽でオレンジ色に染められていた。


 起き上がったオレに気づいた豊島が、声をかけてきた。

「桜井君、起きたの?」

「ああ。知らない内に寝てしまったみたいだよ。ところで、高木さんは?」

「さあ、私はさっき来たばかりだけど、高木さんは見てないわ。」

 ふとディスプレイを見ると、見覚えのある字で書かれた付箋が貼られていて、

『木田君が来たから、一緒に帰ります。戸締まりは宜しく! 高木』

とあった。

 そこで、頭を掻きながら、豊島に言った。

「高木さんから伝言があったよ。彼氏と一緒に帰ったらしい。」

「高木さん、久しぶりに研究室内で発見されたのね。私も話がしたかったわ。」

高木さんが、まるでレアモンスターであるかのような扱いだ。でも、豊島にとって、高木さんは頼りになる相談相手なのだろう。

 何しろ、今の高木さんは、「睡眠学習装置(仮)の実験」をしていた頃とは大違い。ドジっ子でも人見知りでも無く、ハツラツとして研究室を引っ張る、リーダー的な存在なのだから。それに、今の高木さんには別な役割もあって、オレは随分お世話になっている。例え、それが高木さんの責任で起こった問題のためだとしても。


 豊島が続けて言った。

「そう言えば、高木さんと木田君って、凄くラブラブだよね?」

「だな。」

「桜井君は、あの二人の馴れ初めを知っているんじゃない?」

「まあね。」

「いくら聞いても、二人とも顔を赤くするばかりで答えてくれないし。桜井君から教えてもらえないかな?もちろん、ここだけの話って事で。」

 どうせ「ここだけの話」っていうのはどこまでも広がるし、二人とも両手でバッテンを作りそうな提案だけど…。豊島が思案中のオレにさらにプッシュしてきた。

「桜井君も一人暮らしだし、一緒に夕食行かない? 語ってくれるなら、私が奢ってあげても良いかも。」

豊島は鼻息が荒い。川辺ほどでは無いけど、豊島も他人の色恋沙汰は大好きだ。でも、そう言う事なら話に乗っても良いと思った。どうせ、家に帰っても、誰かが待っている訳でも無いし。

 オレの答えは、

「よっしゃ。その話、乗った!」

であった。


 こうして、陽が落ちて薄暗くなった大学を、豊島と二人で後にした。西の空はまだ鈍く茜色に染まり、それに抗うように金星が金色に輝く。

 さて、どんな話を語ってやろうか?

 豊島もオレも、幸せそうなあの二人を、少し妬ましく思っていたのかもしれない。

 だが、豊島との夕食では、高木さんや木田の顔が脳裏をよぎり、結局は大した暴露話が出来なかった。当然、豊島の奢りは無し、となった。それでも、豊島からクラシック音楽について色々な話を聞く事が出来て、楽しいひと時を過ごすことが出来た。


 夕食後、豊島と別れて家に帰ったオレは、リビングに飾られた幾つもの家族写真を眺めた。ある写真は両親とオレと里奈、別な写真は祖父とオレと里奈、一番新しい写真には叔母とオレと里奈が写っている。

 いつも一緒だったはずの里奈は、今はもうここに居ない。里奈は叔母の養女になり、養母と二人で同居している。だから、今は戸籍上は兄妹では無い。何より、今のオレには、『里奈が妹だった』という実感が欠落している。


 今のオレの意識は、オレがこの世に生を受けてから今に至るまで継続したものではなく、一度断絶した。そして、「睡眠学習装置(仮)」の人工意識体(AM)となったオレを、生身の身体に移し返したものなのだ。だが、AMのオレには何故か、「妹」に関する記憶だけが失われていた。

 オレの異変に気付いた里奈に言われて時宮准教授と連絡を取り、高木さんも加って、調査が始められた。その結果、ムーコのタチの悪いイタズラのためであると推定されたのが、ようやく1年前の事だった。

 半年前から、時宮准教授の勧めで、湊医科大学(みなといかだいがく)の大学病院でカウンセリングが行われた。これにより、オレと里奈の客観的な事実や関係性は理解できた。即ち「仲の良い兄妹だった」と言うことではあったが、それは他人事としか感じられなかった。

 2ヶ月前から、ムーコがAMのオレから「妹」の記憶を消すために使ったデータで、オレ自身の脳神経回路に「妹」の記憶を強化する治療が始まった。この治療には、時宮准教授と高木さんの協力が欠かせなかった。この治療により、かつてオレが里奈に感じていた愛情と里奈との約束、里奈と過ごした日々などを次々と思い出し、その感情を自身のものとして感じられるようになった。

 しかし、それでも『里奈が妹だった』という実感は、まだ戻らない。昔のオレが「妹」である里奈を愛していた事を禁忌と思い、葛藤していたのだろうと想像はする事はできる。だが、そこに実感は無い。

 今は、ようやく思い出した里奈への愛情や約束と、里奈が独立した生活を送っている他人であるというギャップに葛藤している。里奈とどう距離をとったら良いのか、わからないのだ。


 …こんな目に遭わされたのに、それでもムーコの事は何故か憎めない。オレや皆を手駒のように動かして、掌の上で踊らされているような感覚は嫌だけど。これが、ムーコの人徳というものなのだろうか?

 でも、当のムーコは、もうこの世にはいない。オレがAMとして過ごしている間に、永遠に失われてしまったのだ。


ここまでの主な登場人物


桜井祥太(さくらい しょうた)

主人公。大学二年生で、コミュ障なオタクハッカー。シスコン。プログラミングやネットワーク構築などの技術力は、大学やアルバイト先等でも認められている。


桜井里奈(さくらい りな)

主人公の妹で、高校二年生。絵を描くことが好き。ブラコン。


倉橋量(くらはし はかる)

主人公の祖父で故人。量子コンピュータプログラミングの草分け的存在。主人公兄妹の育ての親。


倉橋香(くらはし かおり)

主人公の叔母。主人公兄妹の実質的な保護者。


平山美夢(ひらやま みゆ)

大学一年生で、桜井祥太の高校の陸上部の後輩。祥太を追って先駆科学大学情報工学部に入学した。家族や友人から、ムーコと呼ばれる。


木田仁(きだ ひとし)

桜井祥太のクラスメートで友人。あまり友人のいない主人公を気遣う。


川辺亘(かわべ わたる)

桜井祥太のクラスメート。お調子者で、交際範囲が広い。


豊島結衣(とよしま ゆい)

桜井祥太のクラスメート。クラシックのピアノ曲が好き。新庄、小鳥遊らと一緒に行動することが多い。


新庄由紀(しんじょう ゆき)

桜井祥太のクラスメート。ゲーム裏情報が大好きで、存在自体がゲームのデータベース。


小鳥遊由宇(たかなし ゆう)

桜井祥太のクラスメート。


加賀直(かが ただし)

頭脳工房創界で桜井祥太と平山美夢の所属するプロジェクトのリーダー。古参社員。


三笠俊徳(みかさ としのり)

頭脳工房創界で加賀のプロジェクトのプログラミングチーフ。冷静沈着でキレ者。30代前半。


吉川渚(よしかわ なぎさ)

美術系の大学を卒業したばかりの、頭脳工房創界新入社員で、ムーコの話題に良く出て来る女性。


八神圭伍(やがみ けいご)

レゾナンスから、頭脳工房創界との共同プロジェクト(ゲームのヒューマンインタフェース開発)のために送り込まれてきた。根暗だが、若いのに関連知識が豊富。20代後半。


時宮良路(ときみや りょうじ)

先駆科学大学の准教授で、ヒトの記憶を量子コンピュータに読み込む方法を発明して、「睡眠学習装置(仮)」を開発した。


高木希(たかぎ のぞみ)

時宮研究室の学部四年生で、「睡眠学習装置(仮)」のオペレーション担当。


平山現咲(ひらやま ありさ)

平山美夢の姉で、現実主義者。家族からリアコと呼ばれる。

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