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フォンノイマンのレクイエム  作者: 加茂晶
第1章 プロローグ
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1.2. 時宮准教授

 その頃、オレは日夜アルバイトとハッキングに勤しむ大学二年生だった。友人共は、そんなオレの事を「オタクハッカー」と言っていたが、気にしなかった。英語ではそれをGeekと言って、尊敬される存在なのだから。

 そんなGeekなオレが、前期の必修科目である生物学の期末テストで赤点を取ってしまった。生物学なんてプログラミングやシステム構築には関係無いのに、情報工学科で何故こんな科目が必修なのか、オレには理解できない。しかし、必修を落としてしまうと留年の可能性があり、学費無料の特待生の資格を失いかねない。

 生物学を担当していたのは、時宮良路(ときみやりょうじ)准教授だ。コミュ障のオレにはとても苦痛だが、何とか赤点を救済してもらえるよう直談判しなければならない。だが、当時のオレにとって時宮准教授は苦手なタイプだった。年齢は三十歳位だろうか。学生の人気はまずまずで、基礎AI論や基礎サイバネティクスの講義は必修では無いのに多くの学生が選択しており、出席率も高い。だが、頭の回転が速いためなのか、話をするといつも先回りされてしまう感じがして、気持ちが悪いのだ。

 しかし、兵は拙速を尊ぶと、いにしえの兵法家の孫子も言っている。こんな時は、相手の意表を突いて、早く土下座でも何でもして単位を勝ち取らねばならない。そう思って、赤点のテストが返却された講義の直後に、時宮准教授の研究室にアポ無しで押し掛けた。


 ところが、ノックをすると扉の向こうから声が聞こえた。

桜井祥太(さくらいしょうた)君だね。どうぞ入って。」

 オレは名乗って無いのに、オレが来る事を知っていたかの様だ。時宮准教授は、オレをソファーに座らせると、研究室の女学生に、

「コーヒーを出してあげて。」

と告げて、自分は隣の部屋へ行ってしまった。

 彼女はほとんどすっぴんでメガネをかけていて、Tシャツにジーンズのラフな服装だった。その彼女からコーヒーカップを受け取ろうとすると、胸元がチラリ。ダイナマイトボディをお持ちの様で、よく見るとやや童顔で可愛い。

 しかし、余韻に浸る間も無く、時宮准教授が書類を抱えて戻って来て、向かい合った反対側のソファーに腰を下ろした。彼女を自身の隣に座らせると、オレの方に向き直って言った。

「ご用件は何かな?」

 オレはいきなり土下座しようと考えて来たのだが、ここで持病のコミュ障が出て何も答えられず、何も出来なかった。

「まあ、赤点の事だろう?」

と言われて、うなずいた。

 すると、時宮准教授から、開発中の「睡眠学習装置(仮)」の被験者になる事を提案された。この装置の開発に関わることは、情報科学と生物学の境界領域において極めて重要な知識の獲得に貢献するため、単位を認定するのに十分なのだそうだ。オレにとって重要な事は、被験者になれば赤点を回避させてもらえるという事で、「重要な知識の獲得」などどうでも良かった。

 オレはホッとした。しかし、準備が良すぎる。少し訝しんで時宮准教授から視線を外して、隣の女性の方をチラッと見た。すると、時宮准教授は、

「そうそう、紹介が遅れたね。こちらは、高木希さん。うちの学部四年生で睡眠学習装置(仮)のオペレーターだ。」

と告げた。

 続けて、高木さんに自己紹介するよう促すと、

「わ、私は…」

嚙み噛みで声も小さく、よく聞き取れない。少し赤く上気した表情で、手元が震えてコーヒーをこぼしてしまった。この頃のオレは妹の里奈以外の女性を目の前にすると緊張して上手く話せなかったのだが、高木さんはオレ以上に人とのコミュニケーションが苦手らしい。そんな高木さんを見て、オレの緊張もますます高まった。

 緊張したオレと高木さんを尻目に、時宮准教授は「睡眠学習装置(仮)」の資料を見せながらスラスラ説明し、被験者として「睡眠学習装置(仮)」の実験に参加するオレの同意を取ってしまった。この人はこうなる事を知っていて、高木さんを同席させたのでは無いだろうか? 「でも、この高木さんとお近づきになれるのなら、それも良いかもしれない。」と一瞬考えた直後、これも時宮准教授の思惑である可能性に気付いた。やはり、あの人は苦手だ。一見穏やかで安心感を与える人ではあるのだが。


 家に戻った後で、自室で貰った資料を改めて読んで驚いた。以前ヒトの記憶について書かれていた本を読んだ事があったが、そこにはヒトは睡眠中に学習出来ないと説明されていた。だから、「睡眠学習装置」の実験と言われて、胡散臭さを感じた。時宮准教授の説明を上の空で聞いていたため、「睡眠学習装置(仮)」を文字通り「睡眠中」に「学習」するための「装置」だと思い込んでいたのだ。

 しかし、時宮准教授の「睡眠学習装置(仮)」はオレの思い込みとは全く異なるものだった。ヒトの神経構造を模擬した量子回路を持つらしいこの装置は、被験者の神経を含めたあらゆる情報伝達の応答特性を解析し、その量子力学的な構造までも量子回路上にコピーする。これにより、被験者の記憶のみならず、意識までも量子回路上に再現する事を目指している。情報伝達の応答特性をノイズの影響を受けずに観測するため、被験者の睡眠中に、脳を含む様々な組織から電磁波や原子核の磁化ベクトルの状態等を読み取る。すなわち、被験者の「睡眠」中に機械が被験者の記憶や意識を「学習」する、世界初の「装置」なのだそうだ。実験が成功すれば、オレの記憶と意識を持つ存在、人工意識体Artificial Mind(AM)が、睡眠学習装置の量子回路上に実現するらしい。オレは量子コンピューターについて何も知らない訳では無かったが、こんなモノは想像した事も無かった。


 資料を読み終えた頃、一階から声が聞こえて来た。

「お兄ちゃん、夕食出来たよ。」

 妹の里奈(りな)だ。里奈はオレの出身校である五嶺高校の二年生だ。身長は160cm弱で、美しいボディラインの持ち主だ。顔の輪郭や目鼻立ち、小さい唇、ストレートで肩の下まで伸びている美しい髪。容姿には非の打ち所がない。いつも放課後に美術部で活動した後、帰宅途中のスーパーで買い物をして夕食を作ってくれる。二年前位からお年頃のせいか、時々反抗的になったりオレの事を無視したりもする事もあるが、基本的には素直で性格の良い娘だと思う。変な虫が付いたら是が非でも退治してやるつもりだ。いや、これは娘を持つ父親のセリフだな。

 夕食時に里奈に「睡眠学習装置(仮)」の説明をして、その被験者になると話したら、猛烈に反対された。

「お兄ちゃん、そんなの絶対ダメ。もし、機械が暴走したらどうなるの?」

「どうなるって、普通に機械を外して、実験を終わらせるだけだよ。」

「そんな怪しい実験をする人達が、お兄ちゃんの安全のために実験を終わらせてくれるなんて思えない!」

 マッドサイエンティストが出てくるマンガや映画でも見たのだろうか。しかし、困った。今のオレは里奈との二人暮らし。オレにとって里奈は唯一の家族で、大切な宝物だ。思えば、オレ達兄妹は大切な人達を失い続けて、もうお互いしか残っていない。考えてみれば、里奈の反応は当然なのかも知れない。


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