6.27. 歓喜の歌
思考速度5倍では、白銀と「SATもどき」たちの相手をするのは厳しそうだ。そこで、今度は心の中で
「set brainstorm 10」
と唱えてから、「棒」を手にして明るい世界へ足を向けた。
だけど、本当に思考速度が10倍になったのか? オレは半信半疑だった。
その時間感覚が異常になったかもしれない世界でオレの眼に映ったものは、倒れている「SATもどき」たちと散らばった機械の部品…小型ドローンの残骸のようだ。どうやら、里奈の自己防衛システムらしい。
多分、さっきのガス銃の音で、自己防衛システムが起動したのだろう。それで「SATもどき」たちと戦った…のか?
しかし、倒れている「SATもどき」たちの中に、白銀の姿は無かった…。
自己防衛システムは、こんな戦闘の化け物を知らなかった頃に、戦い方を知らなかったオレが作ったものだ。オレのAMがコントロールしていたのから、100%能力を発揮できたとは思うけど、それでもきっとあの白銀は倒せない…。
白銀はどこに行った?
何らかの理由で白銀がこの場にいないのなら、それは好機だ。今のうちに、里奈を連れてここから出るんだ。
それで、里奈はどこだ?
彼女はソファーに座っているとばかり思っていたのに、そこにはいなかった。「SATもどき」たちと自己防衛システムが戦っている間に、里奈はどこかへ逃げたのだろうか?
いや、この部屋と繋がっているのは、オレが一時的に「SATもどき」たちから退避した真っ暗な部屋と、その反対側にあるドアの向こう側だけだ。すると、白銀と里奈は2人とも「向こう側」に行ったのか?
少し嫌な予感がして躊躇したが、ドアのノブに手をのばした。だが、オレの手がノブに触れる前に、ドアがわずかに開いた。
そして、ドアの向こう側で何かが鈍く光った。眼の焦点が合ってくると、それは拳銃?…のように見えた。その引き金に指がかかって、ゆっくり動いている。きっと、あとコンマ何秒かで、銃口から弾丸が飛び出す。
銃は、とどのつまり、間合いが極端に長い武器だと思えば良い。どうせ射線上を高速で飛ぶ弾丸を躱せないのだから。ならば、射線を外せば良い。
いや、跳弾というものもある。この建物は、多分、鉄筋コンクリートで出来ている。プロは跳弾まで考えて撃つ…オレはそのことを「ウォーインザダークシティ」で学んだ。
だから、白銀がこんな所で容易く銃撃してくるなんてことは…。
余計なことを考えているうちに、射線がしっかりオレの頭を向いていることに気づく。ヤバい! 必死に射線を外そうとして、ドアから飛び退る。だが、身体は思考ほど速く動かない。
やがて、間延びした爆発音が聞こえた。
ド…ン…
来る!
その瞬間、ドアに何かがぶつかるような音がして、銃口がわずかに動いた。そして、その銃口から火が噴き出す。しかし、この音は…拳銃ではなく、ガス銃か?
流星が視界を掠めて左へ消えて行った…のが見えた気がした。いや、それはきっと弾丸だったのだろう…。
そして赤い液体が一滴、ゆっくり落ちていく。
何気に左頬に触ると生暖かくぬるぬるする感じがして、そこから少しずつ痛みがやってくる。弾丸が掠めたらしいけど、オレの意識は失われていないし、身体は動く。
それなら、まだ勝機はある…と思った。
今のオレは、AMのオレと同じように思考加速ができて、「八極拳」も「新陰流」も使える。そして、「ウォーインザダークシティ」で訓練して、白銀のキャラクターである「グリムリーパキラー」のコピーを何度も倒している。
白銀の目的がオレを倒す…殺す…ことなら、負けるわけにはいかない。あの残虐なグリムリーパキラーの本人だ。オレが倒されたら、里奈だって危ない。
そんなことを考えていると…いや、実際に思考していた時間は1秒に満たないだろうが…ドアの後ろから人が倒れたような音と、声が聞こえた。
「う…っ。」
里奈の声だ。
そして、すぐに
「チ…ッ、ま…だ…動…け…た…の…か。で…も、こ…れ…で…私…の…勝…ち…だ。」
白銀の声だが、思考速度を10倍に加速していたので、聞き取りにくい。
どうやら、里奈は白銀に捕えられているらしい。
間も無く、ドアが全開した。そこから現れたのは、両手と両足を手錠で拘束された里奈と、里奈の手錠の鎖を左手で引きづり右手にナイフを手にした白銀。里奈は意識が無いのか、眼を閉じてグッタリしているように見えた。
白銀は里奈の頬にナイフを当てると、高笑いした。
「そ…こ…か…ら…動…く…な。一歩…で…も…動…い…た…ら、コ…イ…ツ…の…頸…を…切…る。」
聞き取りにくいが、白銀の言いたいことは分かった。いくら思考加速したオレでも、白銀のナイフから里奈を守れない。距離はわずかだが、オレが2人に到達する前に、白銀のナイフは里奈を襲うだろう。
手錠の鎖を白銀に引き上げられた里奈の頬に赤い筋が現れ、そこから血が微かに滲む。そして、やがて一滴の血が流れ落ちるのが見えた。…許せん。
ン? 何かおかしい。里奈と白銀の姿に違和感を覚えた。何だ?
その謎は、まもなく解けた。
「お前の妹を助けたければ…」
…白銀の言葉が普通に聞こえる。理由は分からないけど、「思考速度10倍」が解除されたらしい。
白銀の前で、思考加速が効かないのは危険だ。しかも、里奈は白銀に生殺与奪の権を奪われている。
白銀の声は続いていた。
「これを一発、喰らうことだな。」
言葉と同時にガス銃から爆発音がした。
思考加速が解除されたとはいえ、今は白銀の全身が見えている。それに、間合いも遠い。だから、躱せないこともない。
オレが銃弾を躱したのを見て、白銀はイライラを隠せなかった。
「私は言ったぞ。コイツの命はお前次第だと。」
白銀は里奈の頸にナイフを突き立てた。全く動かない里奈の首に赤い筋ができた。オレはたまらず叫んだ。
「待て、オレと『戦って』勝ちたいんじゃなかったのか?それなら、里奈を傷つける必要は無いだろう?」
「お前に勝てば良いんだ。勝ち方なんてどうでも良い。とにかく動くな。」
もうこれ以上は、里奈を傷つけられるのを見せつけられるのは、もう耐えられない。それなら、もう…オレの命を差し出すしか無いのか?
オレは諦めて、白銀の前に立った。白銀のガス銃の射線がオレを捉えた。
あと少しで、里奈を救えたのに…。
その時、オレの耳に音楽が聞こえた。
「O Freunde, nicht diese Töne! Sondern laßt uns angenehmere anstimmen und freudenvollere.」
…美しい。
…これは、歓喜の歌? ベートーベンの交響曲第9番。モーツァルトのレクイエムとは違う意味で、素晴らしい曲だ。
でも、おかしい。オレは三木さんの「帽子」を被っている。それなのに、美しい音楽が聞こえているなんて。…何故だ?




