6.8. 糸口
すると、川辺はオレに携帯端末を見せて言った。
「外の連中に連絡したいけど、携帯の電波を掴めないみたいだ。どうする?」
「恐らく、どこかから妨害電波が出ているんだろう。妨害電波を出している機器を見つけ出してどうにかできれば…。」
川辺はうなずいて言った。
「分かった。それは俺が探す。だからお前は…。」
「分かっている。何とかして『フォンノイマンのレクイエム』へログインする。そうすれば、ここから脱出できるかもしれない。」
オレはコンソールの前で考えた。ログインできないシステムのコンソールを、遠く離れた場所にリモートで設置する技術を持った犯人のことだ。
こんなことをする前に、いろいろと試したに違いない。辞書を使ったパスワード推定、ブルートフォースアタック、AIによる推定などなど。
それらが全て失敗したから、今のこの状況だ。それで、玉置由宇と里奈を誘拐してまで、ログイン情報を持っていそうなオレをコンソールの前に引き摺り出した…ということだ。
だけど、これは父が創ったシステム…らしい。興味が無いわけがない。それなら試しに、アカウントに父の名前を、パスワードに『フォンノイマンのレクイエム』を入力してみたが弾かれた。それで次には、アカウントをオレの名前に、パスワードを「Rina」にしたが、やっぱりダメ。
ここまでログインできるとは思わないで試したが、入力後に再入力できるようになるまでの時間が、失敗するたびに指数関数的に長くなっていくようだ。1度目のログイン失敗後にはすぐに入力画面に戻ったが、2度目のログイン失敗の後に入力画面に戻るのに3分くらいかかった。
この様子では、次に失敗すると、数十分、そして数時間、さらにその次は数日とか、復帰に時間がかかる仕組みだろう。だったら、次はよほど確信が無いと…。
入力画面に復帰するまでの時間が長くなると、復帰する前に餓死してしまうことになる。どこかのタイミングで復帰するまでの時間はリセットされるのだろうけど、それは何日、それとも何十日先のことか…。
これでは、試行錯誤でログイン情報を割り出すのは、事実上不可能だ。なるほど、これだけの技術を持った犯人でも、お手上げだった訳だ…。
それなら、父が考えそうなログインアカウントとパスワードの組み合わせを、もっと真面目に推理しなければなるまい。このシステムを創った父のことをもっと良く思い出して、システムが創られた経緯を理解できれば、父が設定したアクセス情報を思いつくかもしれない。
父はKAONソフトが頭脳工房創界に買収された後も、研究を諦めずに続けたのだろう。そして、時宮准教授に預けた研究テーマの「別の到達点」が、このシステムなのだろうか?
では、このシステムがいつ創られたのか?
父が亡くなったのは、今から約10年前。そして、時宮准教授に同じ名前の研究テーマを預けたのは彼が高校卒業の時と言っていたから、17〜20年前くらいだろう。
だから、「フォンノイマンのレクイエム」ができたのは、その間のことだろう。そして、今ならわかる。父はこれだけ執念深くその完成を目指したのだ。…だからこそ、「完成」はしない。
「完成」しそうになると、また新しいアイディアが出てくる。そして、それが実現すると、また別なアイディアが出てくる。だから、「フォンノイマンのレクイエム」が「完成」してしまったのは、それは父が亡くなった時なのだろうか?
…いや、何か引っかかる。それだけでは無いような気がした。
ふと、AM世界で、父と祖父が見つかった時の話を思い出した。祖父は、電子コンピュータのシステムには詳しかったけど、量子コンピュータのシステムはあまり得意では無かった。その祖父が、AM世界では「フォンノイマンのレクイエム」の構築を手伝っていたらしい。
きっと現実世界でも、祖父は父を手伝っていたのではないか? だったら、このシステムが最後に更新されたのは祖父の存命中、オレが高校生の頃のハズ。それは、せいぜい今から6年くらい前だ。
このシステムを犯人が手に入れたのは、恐らく、その後のことだ。
その犯人は、桜井俊がこのシステムを創ったことを知っている。それだけではない。オレと時宮准教授が桜井俊の関係者…オレが息子で時宮准教授が元助手…ということまで、知っている。
そのくせ犯人は、父がこのシステムの情報をオレにも恐らく時宮准教授にも残していないことは、知らないらしい。ということは、犯人は父を知っているが、それほど近くにいた訳じゃない…というところか。
そんな犯人が、どうやってこのシステムの存在を知って、それを手に入れたのだろう? それに、こんな古いシステムへのアクセスに、どうしてこだわっているのだろうか? オレがこのシステムにアクセスできたとして、そのログイン情報を犯人に知られると、何か恐ろしいことになってしまうのではないだろうか?
さらに深みにハマっていきそうだったオレの思考を、現実に引き戻したのは、川辺の声だった。
「怪しいガジェットを見つけたぞ。」
「どれだ?」
「これだ。」
そう言って、川辺が指差した方を見ると、コンセントに何か黒い箱が刺さっているようだった。そして川辺は、
「これ、コンセントから外して見ていいよな?」
と言うのでうなずいた。
彼が、黒い箱をコンセントから外すと…何も起こらなかった。音も光も、何も発しなかった。
いや、そうじゃない。オレも慌てていたらしい。反省しながら、川辺に言った。
「携帯端末を確認しよう。」
すると、メッセージやメールが次々着信した。川辺は、
「外と連絡できるみたいだぞ。オレから木田に連絡する。」
と言って、操作を始めた。
オレにも豊島から何通かメッセージが届いていた。
「田舎の一軒家で桜井君の位置情報が消えて、心配してる。川辺君からもこちら側に連絡が来ないので、警察に通報したよ。可能なら早く連絡して。」
だそうだ。
やはり、そうなったか。
川辺も木田に連絡しているようだけど、オレも一応、豊島に伝えた。
「犯人から、『フォンノイマンのレクイエム』にアクセスできないうちに外から扉を壊すと、オレたちが閉じ込められている部屋が窒素で満たされて窒息するって脅されている。だから、こちらから連絡するまで強行突入しないで欲しいと、警察に伝えて欲しい。」
と。
こうなったら、早く「フォンノイマンのレクイエム」にアクセスしなければなるまい。多分、そのヒントは、オレが知っている父と祖父に関する情報の中にある。
その時、新しいメッセージが届いた。AMのオレからだ。また、AM世界での父と母、それに祖父の話だ。彼らに会えて嬉しかったのは良く分かる。だけど、今、ピンチのオレにわざわざ連絡してくる話ではない。
そう思って、携帯端末の表示をメッセージから別なアプリに切り替えようと思ったその時、突然思い出した。そうだ、AM世界の父と祖父もまた、「フォンノイマンのレクイエム」を創っていて…確か…。
慌てて、過去のAM世界のオレからのメッセージを探す…そして見つけた。
そのシステムの名前は”rina1024”、rootユーザーは”amadeus”、そしてパスワードは”KV626#Requiem$in%d-Moll”。そして、目の前のディスプレイに表示された”Created by Satoshi Sakurai”の文字列の前の行にも同じ、”System:rina1024”の文字列が…。
これはただの偶然では無さそうだ。オレが元々持っていた父と祖父の記憶、そしてストレージなどで後から「睡眠学習装置(改)」に追加した情報で、AM世界の父と祖父は現実世界の父と祖父を精度良く反映しているからだろう。だから、AM世界の「フォンノイマンのレクイエム」もきっと…。
オレはもう迷わなかった。




