6.2. 騒乱の始まり
やがて、辺りが暗くなってきた。そして、ゴーッという風の音。
そのうちに、窓を叩く雨の音が聞こえて来ると、豊島の独り言が聞こえてきた。
「ここはやっぱりテンペストだよね。」
そして音楽がスタートすると、軽快な導入から低く激しい律動に入って行く。ベートーベンのピアノソナタ第17番ニ短調作品31-2。
だんだん、夢で見た状況に近づいてきたようだ。
となると次は…と思っていると、窓辺に閃光が走った。間も無く、外から「ドカーン」という轟音が響く。雷が近くに落ちたか? と思う間もなく、研究室が真っ暗になった。停電だ。
これも夢で見た通り…。
機器は全て落ちた。いや、わずかに無停電電源が付いているPCのディスプレイは、光を発していた。それも、1分くらいすると、次々にシャットダウンして消えて行く。
停電で多くの機器が止まってしまったのに、「テンペスト」は止むことなく、穏やかな第二楽章に進んでいた。不思議に思って音のする方向を振り向くと、豊島のノートPCから聞こえて来ているようだった。
そのノートPCのディスプレイの光を頼りに、今度はホットコーヒーを淹れて、窓から嵐の景色を眺める。時折閃光が煌めくが、音は聞こえてこない。そう言えば、雨音も少し落ち着いてきた…ような気がした。
このまま嵐が去っていけば、夢が現実になることはないかもしれない。
そう思い始めたのも、束の間。再び落雷の音が轟くと、雨は窓を打ちつけ始めた。強い風が唸り声をあげて、木々から引きちぎられた緑葉が空高く舞っている。
そこにトドメを刺したのは、豊島の一言。
「雰囲気出るね。まさに嵐だよ。」
気がつくと、テンペストは第三楽章に入っていた。
そして、研究室内を見渡すと、木田、高木さん、それに豊島。これは夢で見た通りだ。やはり、玉置由宇に凶事が起こることは避けられないのか?
時宮准教授、木田、里奈、そしてAM世界のオレ…。夢に見たことを話して、状況を改善しようと色々な相手と相談して来たけど、解決の糸口は見つからなかった。
いや、里奈は
「任せて。」
と言ってくれたけど、彼女は何かをしたのだろうか? 少なくともこの時点までは、夢で見た通りに展開している。
だったら、そろそろ来る頃だ。
そう思っていると、ついにそれは来た。研究室のドアが吹き飛ぶように開くと、雷光を背にしてスーツ姿の川辺と、高校の制服を着た玉置由佳が立っていたのだ。
次の瞬間、2人は同時に叫び始めた。
「○○○!」
「×××!」
2人とも早口で同時に叫ぶから、どちらの言うことも聞き取れない。
えっと、夢の中では思考速度を上げたんだったか。それは、あの夢を見て目覚めた朝に試してみたけど…そんなことができるようになるハズが無い。それでもあれが正夢ならば…、と微かに期待した。
そこでオレは夢で見たように、心の中で
「set braintime 5」
と唱えてみた。
すると、とてつもなく遅い口調の2人の声が、確かに分離して聞こえた。
「お姉ちゃんが昨日から帰って来ないの。多分、川辺っていう奴に拉致されたんだわ。助けて、お兄ちゃん。」
「フォンノイマンのレクイエムって何なんだ? そのせいで、由宇が危ないかも知れないんだ。」
今度は遅すぎて意味を理解するのに苦労した。しかし…夢で見た通りだ。
ハードウェアならぬウェットウエアたる脳細胞は、オペレーティングシステムとも言えるその使い方によっては、未来すら予知できると時宮准教授は言った。きっと、オレがAMだった時に、思考速度を上げる方法をマスターした…のだろうか?
とにかく、2人が言っていることを理解できた。内容は夢で見た通りだったけど。それなら、早く2人を引き離して、それぞれから詳しい話を聞かなければ。
そこで、
「set braintime 1」
と唱えると、2人を落ち着かせるために水の入ったコップを差し出した。
少し離れたところから、木田の大きな独り言が聞こえてきた。
「本当に来たぞ! 川辺と女子高生が。」
その独り言に応えるように
「それなら、みんなでお茶しようよ?」
と言ったのは高木さんだ。
川辺と玉置由佳がそれぞれ水を飲み始めると、豊島が応接テーブルの近くにイスを持って来て、2人に勧めた。少し落ち着いた2人は、また同時に話し出そうとした。それを手で軽く静止すると、オレも自分のイスをテーブルの近くまで引いて来た。
豊島も自分のイスをオレの隣まで引いて来ると、
「この娘は、川辺君の知り合い?」
と川辺に尋ねた。
川辺は、
「いや、俺は知らん。」
と言った。夢で見た通りの反応だ。
すると、玉置由佳は聞くと、
「あなたが『川辺』なの?お姉ちゃんを返してよ!」
とイスから立ち上がって叫んだ。
やばい。このままでは、またカオスになってしまう。そこで、オレも立ち上がって、玉木由佳の手を引いて言った。
「このままでは事態は解決しないみたいだね。とりあえず、オレが君の話を聞くからこっちに来て。」
「お兄ちゃん?」
そう言った玉置由佳は泣きそうだ。
その様子を見て立ち上がりそうになった川辺を豊島が留めて、オレに軽くウィンクした。オレはうなずきつつ、玉木由佳を研究室の外へ連れ出した。
研究棟の廊下を歩きながら、夢で見たことを思い出していた。
玉木由佳は、これからオレに告げるハズだ。姉の玉置由宇が昨夜帰宅せず、失踪届を出したことを。
そして恐らく、玉置由宇は川辺以外の何者かに拉致された。その情報を持っているのは川辺で、犯人は「フォンノイマンのレクイエム」へのアクセス方法を彼に要求して来ているのだろう。だから、ここは早く玉置由佳を落ち着かせて、川辺の話を聞く必要がある。
研究棟のロビーの自販機で缶コーヒーを買って玉置由佳に手渡すと、彼女に向き直って尋ねた。
「話を聞こうか。何があったの?」
眼を赤くした玉木由佳は、口を開いた。
「お姉ちゃんが昨日から帰ってこないの。学校からレゾナンスへ直行したみたいなんだけど、そこから先の足取りが追えないの。最近、レゾナンスで『川辺』っていう奴に言い寄られているって聞いていたし、きっとそいつが関係しているんじゃないかって思うんだけど…。」
川辺が関係しているというのは、玉置由佳の見当違いだろう。そこで、
「何か証拠はあるの?」
と尋ねると、玉置由佳は怒って言った。
「そんなものは無いよ。だけどこれまでにお姉ちゃんから聞いた話から、『川辺』が犯人なのは明らかだわ!」
今の玉置由佳に川辺は関係無いと言っても、聞く耳は持たないだろう。だから、ここは
「わかった。それなら川辺に直接話を聞こうじゃないか? 他にお姉さんの手がかりはないんだろう?」
と切り出した。
すると、玉置由佳はうなずく。
そこで、オレは言った。
「オレも力になるから落ち着いて。」
ところが、オレの言葉が、張り詰めていた玉置由佳の心を決壊させた。…彼女はついに泣き出してしまったのだ。
時折、人が通る研究棟のロビー。そこで制服を着て泣いている女子高生の玉置由佳…そしてオレ。夢の中ですら居心地が悪かったのだ。それが現実だと、もっと都合が悪い。
人目を気にしつつ頭を撫でてやると、しばらくして玉置由佳は落ち着いた。




