6.1. 遠くそして悲痛に
ついに、その日が来た。
午後になって、高木さんが時宮研にやって来た。高木さんを崇拝している豊島は満面の笑みで、一時も離れず、ずっと高木さんと話し続けていた。
ただし高木さんは、木田が言っていたように「遊びに来た」…わけではない。本当は。今は湊医科大学に所属している博士課程1年の高木さんは、共同研究者である時宮准教授との打ち合わせに来たのだ。
それに、高木さんにとって時宮准教授は、修士論文の指導教官とか共同研究者というだけでない。いつか来る博士論文審査の時に、副査となる可能性もあるだろう。これまで通り、しっかり議論を積み重ねていくことは、大切なのだろう。
その共同研究には、木田も名前を連ねている。高木さんにとって勝手知ったる時宮研ではあるが、打ち合わせの時間が来ると、木田と一緒に准教授室に入って行った。
2人の姿を見送って、何気に窓から空を見上げると、日差しの強い良い天気だった。夢では、共同研究の打ち合わせが終わって時宮准教授が外出した後、川辺たちが来るまでの間に嵐となるのだった。
しかしそれは、この天気からはとても想像がつかなかった。窓の外は、のどかな景色だ。そのうち、どこかからピアノの音が聞こえてきた。これは…エリックサティのジムノペディ第一番。きっと、豊島が小さい音で流しているのだろう。
だけど、こののんびりした雰囲気に呑まれると、オレの研究は進まない。しかも、あの恐ろしい夢が現実になってしまうと、ますます停滞することになってしまう。なので、少しだけ頑張ってスクリプトを一つまとめると、開発環境のAIにソースコードを作らせ始めた。
だけど、そこまで頑張ると、オレの集中力は限界に達した。のどかさに負けて、氷を入れたグラスに麦茶を注ぐと、外の景色をボーっと眺める。
青空に綿菓子のような雲があちこち浮かんでいた。そして、雲とその影はゆっくり移動していく。そのずっと奥の方に、背の高い入道雲が一つ、ポツンと浮かんでいた。
蝉の声こそ聞こえてこないが、確実に夏が近づいている。室内は冷房が効いているけど、外はきっと暑いんだろうなあ…。
もうすぐ夏か…。ふと、幼い頃の「あの夏の日」を思い出した。
…オレは両親と祖父それに里奈の5人で、空港のレストランで遅めのランチをとっていた。屋外で轟いていたジェットエンジンが作り出す爆音は、空港ビルの内部ではほとんど聞こえない。もちろん、このレストランもとても静かだ。
その静かなレストランの大きな窓から見える、次々と離陸して空へと旅立っていく巨大な飛行機。小学生だったその時のオレは、初めて見るその姿に興奮していた。
やがて搭乗時刻が近づくと、搭乗口で去って行く両親を、祖父と里奈と一緒に見送った。結局、それがオレが見た2人の最後の姿になってしまった…。
両親と別れると、祖父に連れられて空港の屋上へ行った。祖父に両親の乗った飛行機を教えてもらうと、それが滑走路を走りやがて離陸するまで、里奈と一緒に懸命に手を振った。
その飛行機が飛んで行った方向に、背の高い入道雲があったのを良く覚えている。ちょうど、今見えているあの入道雲のような雲だった。
屋上から空港のビル内に入ると、ふとピアノの音が聞こえた。明るく、それなのにどこか物憂げな旋律。曲名も知らなかったのに忘れられず、何故かずっと耳に残っていた。
それが、エリックサティのジムノペディ第一番だと知ったのは、つい最近のことだ。豊島から教わった。そしてそのテンポが、「Lent et douloureux(遠くそして悲痛に)」であることも…。
その時一緒にいた里奈も、あの空とこの物憂げな旋律を覚えているのだろうか? 「遠くそして悲痛」な思い出と共に…。
そういえば、先日のビデオ通話で、里奈は
「私に任せて。私が何とかするから」
と言っていた。結局、彼女は何かをしたんだろうか? それによって、オレが見た「嵐の夢」とは違った展開になるのだろうか?
オレが、こんなことを考えてボーっとしている内に、打ち合わせは終わってしまったようだ。准教授室から3人が出てきた。
そして、時宮准教授は皆に、
「私は用事があるので、今日は研究室に戻ってきません。後はよろしく。」
と言って、去っていった。
その声を聞いて辺りを見回すと、研究室内が少し暗くなっていたことに気がついた。窓の外を眺めると、背の高い入道雲が前方の空を埋め尽くしていた。そして、その下は真っ暗に見えた。
どうやら、嵐が近づきつつあるらしかった。
「その時」が近づいている…のだろうか?




