5.30. ラストピース
AM世界では、『フォンノイマンのレクイエム』と呼べるようなシステムが存在していた。しかし、現実世界ではどうか? オレは頭脳工房創界でもそれ以外でも、”rina1024”と名付けられたシステムを見たことは無い。
そこで、AM世界のオレに、引き続き現実世界にもあるかもしれない”rina1024”の探索を依頼した。そして、オレ自身も探してみようと思った。
もちろん、”rina1024”が存在する可能性が最も高い場所は、頭脳工房創界だろう。だから、その後アルバイトに行くたびに”rina1024”を探してきたけど、これまでのところ見つかっていない。
その日、オレが頭脳工房創界に出勤すると、珍しい客が来ていた。八神圭伍だ。彼は、レゾナンスと共同開発したリアライズエンジンの次期バージョンの打ち合わせで、レゾナンス側のまとめ役として来ていたのだった。
リアライズエンジンは、一部のユーザから熱狂的に称賛されたが、収支はほぼトントンだったらしい。わずかな黒字を両社にもたらした程度であったと。この事業を継続するためには、次のバージョンで、もっと多くのユーザに利用してもらう必要がある…。外部に依頼していたマーケティング調査で、そんな結果が出たと聞いていた。
今回の打ち合わせは、そのマーケティング調査の詳細報告と、対応策の検討が主な内容だった。バイトのオレは、出勤するまで打ち合わせのことは聞いてなかったのに、何故か参加することになった。
オレ以外の頭脳工房創界側の参加者は、チーフの三笠さんと、名前を知らない人たちが数人。三笠さんの話では、頭脳工房創界の企画部の人たちらしい。そういえば、どこかで顔を見たことがあるような気がする。
結局、会議室に集まったのは、頭脳工房創界とレゾナンス、それにマーケティング会社の人達で、合わせて10人ほど。議論は白熱した。
マーケティング会社の人たちは、軽くて汎用性のあるシステムにすることを主張した。でも、三笠さんは、真っ向反対の方向性を主張した。
「軽くて汎用性のあるシステムなんてつまらない。面白いものを創りたい!」
というのが彼の主張だ。オレもそう思う。それに、支持してくれたユーザだって、もっと凄いものが見たいに違いない。
だけど、頭脳工房創界の企画部の人たちは、少し慌てているように見えた。多分、マーケティング会社の人達と同意見なのだろう。もしかすると、根回しされているのかも…。
一方、八神圭伍は眼を閉じて腕組みをしていた。
それを見た他のレゾナンスの人たちは、マーケティング会社の意見に同調した。頭脳工房創界の企画部の人たちも同意しているし、そちらの報告に決まりそうになった。
その時、八神圭伍が眼と口を開いた。
「私も、つまらないシステムは作りたくないな。」
すると、レゾナンスの人たちは急に口をつぐんだ。
オレはふと気づいてしまった。八神圭伍のレゾナンスでの立場が、急上昇しているに違いない、と。
今やただ1人の社長令嬢である平山現咲と、八神圭伍が恋人同士なのは、レゾナンスでも今や公然の事実なのだろう。そして、現社長の平山龍生はワンマンだ。すると、八神圭伍…彼がレゾナンス次期社長有力候補…なのかもしれない。
しかし、八神圭伍以外のレゾナンスの人たちが沈黙してしまったことで、議論は拮抗してしまった。三笠さんと八神圭伍、それに対するマーケティング会社と頭脳工房創界の企画部の人たち。
オレは以前に里奈から聞いたことを思い出した。彼女は養母から、
「どんなに優れた仕事をしても、ちゃんと利益が出ないと継続できないのよ。」
と言われたことがきっかけで、経済学部に転部したと言っていた。多分、「技術」と「経営」は相剋してはいけない。
そこで、オレは中間的な案を示した。
「リアライズエンジンの次期バージョンを開発する前に、開発予定のゲームやコンテンツのヒューマンインターフェースの共通化を検討したら良いんじゃないでしょうか? 共通化する部分に現行バージョンを組み込みながら改良していけば、強力で面白いエンジンが創れるかもしれません。」
と。
デッドロックに乗り上げていたためか、皆がこの案をベースにして議論が収束し始めた。それで、オレが今日のバイト代くらいは貢献できたと思っているうちに、打ち合わせは無事終了した。
打ち合わせ後、八神圭伍が話しかけてきた。
「この間の映像の人物は見つかった?」
「いいえ。」
「我々も探してはいるんだけど、なかなかね…。まあ、お互いまだ仕事中だし、また今度。」
そう言った彼は、レゾナンスの人たちを引き連れて、颯爽と帰っていった。時間があれば、あの嵐の夢についても相談に乗って欲しかったのだが…。少し残念だった。
オレがムーコと付き合っていたから仲間のように接してくれてるけど、彼はレゾナンスのエースで次期社長候補…かもしれない。とすると、実は雲の上の存在か。
そんな風に思ってため息をついていると、いつの間にかデザインチームの吉川さんが隣に立っていた。そして、小声でオレに話しかけてきた。
「桜井君は、レゾナンスの八神さんと仲良くなったの?」
「えっと…。」
どこまで話して良いんだろう? だけど、吉川さんはオレとムーコの関係も知っているし、長い間一緒に働いてきた仲間だ。ある程度は事情を話しても良いだろう。
そう思って、オレは言葉を継いだ。
「平山美夢のことは覚えてますよね?」
「桜井君の彼女…。意識が戻る見込みがなくて、未来の治療を受けるためにコールドスリープ中って聞いたけど…。」
吉川さんは、いつの間にそんなことを知っていたのか。一体誰から聞いたのやら。
オレは驚き焦ったが、それを隠して話し続けた。
「彼女には姉がいるんですが、その彼氏が八神さんなんですよ。」
「そうなの? でもね、ここだけの話、八神さんって何か胡散臭くない?」
そういえば、吉川さんは一時、八神さんがストーカーではないかと疑っていた。…いや、それはオレとムーコも同じだ。特にムーコは八神さんの黒いワンボックス車を忌み嫌っていた。
そんなことを思い出しながら、吉川さんに
「確かに八神さんもコミュ障気味ですけど、それはオレも同じですし…。」
と応えた。
それでも、吉川さんは
「桜井君は良い人だと思うけど、八神さんは違うわ。きっと裏がある。女の勘だけどさ。」
と言う。そして、
「美夢ちゃんだって、彼を嫌っていたのよ。」
と言葉を継いだ。
その言葉を聞いた瞬間、何故か「カチッ」と音がしたような気がして、オレの頭の中で過去の記憶がフラッシュバックした。黒いワンボックス車を恐れてパニックになったムーコ。あの事件の直前に、八神圭伍の車から逃げるように走り去ったムーコ。病院で意識無く眠り続けたムーコ。…そしてコールドスリープセンター。
事件後にムーコの姿を見ることができたのは、ムーコの姉のリア子と八神圭伍のおかげだった。しかし、元気だった頃のムーコは八神圭吾を嫌っていた…と吉川さんは言ったのだ。ムーコが元気だった時、オレは気づかなかった。だけど、今なら判る。きっと…吉川さんが言った通りだと。
吉川さんの言葉は、オレの頭の中にあったパズルの最後のピースとなったような気がした。でも、その時のオレは、出来上がったパズルにどんな絵が描かれているのかを知らなかった。いや、本当は心のどこかでは解っていたのに、それを見ようとしなかっただけなのかもしれない。
第5章の主な登場人物
<桜井・倉橋家の人々>
桜井 祥太
主人公。先駆科学大学情報工学部の修士1年生。卒業研究は、量子コンピュータで動作する汎用的なプログラムの作成法の開発だった。本人はコミュ障だと思っているが、普通にコミュニケーションできるようになっている。
現実世界から「睡眠学習装置(仮)」に人口意識体(AM)としてコピーされたが、現実世界では平山美夢と共に襲撃され意識が戻らなくなった。それを悲しんだ妹の里奈の働きかけで、時宮准教授、思宮教授、高木さん、木田たちにより「睡眠学習装置(仮)」を改良した「睡眠学習装置(改)」から量子情報を身体にコピーして復活した。
ところが、AMにコピーされた意識には、里奈の存在が欠落していた。そこで、思宮教授や高木さんたちによる「睡眠学習装置(改)」を用いた治療を受けて、里奈の記憶を回復した。その後、AM世界では平山美夢と結婚して生まれた娘に里奈と名付けた。
倉橋 里奈・桜井 里奈(くらはし りな・さくらい りな)
桜井祥太の元妹。今は、元叔母の倉橋香の養子で、玉林学芸大学経済学部経営学科の2年生。
ムーコと共に襲撃され意識が戻らない祥太を心配して、時宮准教授に相談し、祥太の意識が復活するきっかけを作った。
友人の玉置由宇とバイトでの名前を交換して、祥太が働く頭脳工房創界で働き始めた。その後、名前の交換を解消しようとするが玉置由宇が納得せず、正常化に難航している。
AM世界では桜井祥太と平山美夢の娘として存在している。
桜井 俊
祥太の父。綾との再婚により里奈の父となった。
元量子コンピュータのエラー訂正についての最先端の研究者で先駆科学大学情報工学部教授、元KAONソフト社員。
KAONソフト社員だった時に、フォンノイマンの目指した究極的な研究テーマを読み解き、それを「フォンノイマンのレクイエム」と命名した。
10年前に、飛行機事故により妻の綾と共に亡くなった。
桜井 穂花
祥太の産みの母。
祥太を産んで1年以内に発病し、祥太が2歳になる前に亡くなった。
桜井 綾
桜井里奈の産みの母で、俊との再婚により祥太の母となった。
10年前に、飛行機事故により夫の俊と共に亡くなった。
倉橋 量
桜井綾と倉橋香の父で、KAONソフトの社長だった。
桜井俊と綾が飛行機事故により亡くなった後、孫の祥太と里奈を引き取って育てた。
4年前に大腸がんで亡くなった。
倉橋 香
桜井綾の姉で倉橋量の娘。
父の量からは、何故か嫌われていた。
量の死去後、何かと桜井祥太と里奈を援助し、里奈が大学へ進学するタイミングで養子とした。
<平山家の人々・レゾナンスの関係者>
平山 美夢
桜井祥太の高校の陸上部の後輩。祥太を追って先駆科学大学情報工学部に入学した。
家族や友人から、ムーコと呼ばれる。
現実世界では、桜井祥太と共に襲撃され、意識が戻らなくなった。その後、父の龍生が意識を戻そうと奔走したが失敗し、コールドスリープさせられて将来の医学の発展に意識の回復を託されることになった。
AM世界では、桜井祥太と結婚した。
平山 現咲
美夢の姉で、現実主義者。家族からリアコと呼ばれる。
八神圭吾と付き合っている。
平山 龍生
美夢と現咲の父。
元Integral Computing Powers (ICP)の社外取締役で、現在レゾナンスの社長。
ICPの社長だった高坂和巳から、会社を乗っ取った裏切り者として恨まれている。
八神 圭伍
平山現咲を高坂和巳の襲撃から救い、以降、彼氏となっている。
レゾナンスから、頭脳工房創界との共同プロジェクト(ゲームのヒューマンインタフェース開発)のために送り込まれてきた。根暗だが、若いのに関連知識が豊富。20代後半。過去に高坂和巳の会社ICPに在籍していた。
高坂 和巳
元ICPの社長。
現実世界で、かつて平山現咲を襲ったが八神圭吾に偶然妨害され、その後桜井祥太と平山美夢を襲撃した。
住所不定で無職、金融機関のブラックリストに載っている。
桜井祥太と平山美夢を襲撃した容疑で逮捕されたが、発狂していた。
<時宮研究室/思宮研究室>
時宮 良路
先駆科学大学の準教授で、ヒトの記憶を量子コンピュータに読み込む方法を発明して、「睡眠学習装置(仮)」を開発した。
「AM世界」では現実世界の本人の劣化版として存在し、学生たちに研究室を自由に使わせている。
現実世界では、倉橋里奈に頼まれて「睡眠学習装置(仮)」を改造し、意識の戻らない桜井祥太の身体に量子情報をコピーした。
かつてKAONソフトでアルバイトしていた時に、桜井俊に師事し、今でも師匠と呼んでいる。その後、桜井俊から「フォンノイマンのレクイエム」を託され、今もそれを発展させるべく学生たちを指導している。
高木 希
湊医科大学認知機能科の思宮研究室に所属する博士課程1年生で、「睡眠学習装置(仮)」「睡眠学習装置(改)」のオペレーション担当。木田仁と交際中。
現実世界では、時宮准教授による「睡眠学習装置(仮)」の製作やオペレーション、「睡眠学習装置(改)」への改造に協力した。
思宮教授と共に、「睡眠学習装置(改)」を用いた桜井祥太の記憶障害の治療を担当した。
木田 仁
時宮研究室の修士1年生。
桜井祥太の親友で高木希と交際中。
現実世界では、時宮准教授を中心とした「睡眠学習装置(改)」の改造や、思宮教授を中心とした桜井祥太の記憶障害の治療に協力した。
豊島結衣
時宮研究室の修士1年生。
クラシックの曲が好きで、いろいろと説明してくれる。
高木さんを崇めている。
新庄 由紀
時宮研究室出身のプロゲーマー兼フリーのプログラマー。
元々、ゲーム裏情報が大好きで、存在自体がゲームのデータベース。
川辺 亘
時宮研究室出身で、現在はレゾナンスに勤めている。
存在が軽い遊び人だったが、玉置由宇と交際を始めた。
小鳥 遊由宇
時宮研究室出身で、現在は武蔵のインテリジェンスで働いている。
思宮 宏
湊医科大学認知機能科の教授。
「睡眠学習装置(改)」を用いたヒトの意識や記憶障害について、時宮准教授と共同研究をしている。
その研究的な医療活動の一環で、桜井祥太の記憶障害を治療した。
<頭脳工房創界の人々他>
玉置 由宇
倉橋里奈の元クラスメートで、玉林学芸大学芸術学部デザイン学科の2年生。
「玉置由宇」としては頭脳工房創界で働いていることになっているが、倉橋里奈と名前を交換して、実際にはレゾナンスで働いている。「倉橋里奈」として川辺亘から言い寄られたため、名前の交換の解消に消極的。
桜井祥太と面識がある。
玉置由佳
玉置由宇の妹で、高校3年生。
桜井祥太と面識がある。
加賀 直
頭脳工房創界で桜井祥太が所属するプロジェクトのリーダーで古参社員。
元KAONソフトの社員でもある。
三笠 俊徳
頭脳工房創界で加賀のプロジェクトのプログラミングチーフ。冷静沈着でキレ者。30代後半。
吉川 渚
美術系の大学を卒業して4年目の頭脳工房創界社員で、デザインチームに所属する。
<ハードウェア・ソフトウェア>
睡眠学習装置(改)(すいみんがくしゅうそうち)
時宮准教授が開発した。被験者の記憶や意識をコピーして量子コンピュータ内に人工意識体を創るための実験装置である「睡眠学習装置(仮)」を改良して、量子コンピュータ上の人工意識体の情報を人体に書き込む機能等を組み込んだ。
量子コンピュータに保存された量子情報を、意識が戻らない桜井祥太の身体に書き込むと共に、彼の意識障害の治療に用いられた。




