5.27. 時宮研の日常
時宮准教授との話し合いが終わった後も、その日は夜まで研究室で過ごした。
オレが地道にライブラリを作っていると、時々、奈良が作成したプログラムを持って来る。が…残念ながらダメ出しの連続。その都度、プログラムの修正に役立ちそうなワードを教える。彼がPCのAIにそのワードについて問いかけると、プログラムの改良に必要なプロンプトを教えてくれるハズだ。
この時代、ソースコードはほとんど100%AIが作成して、ビルドまで自動化されている。人間はプロンプト…AIに与える指示…を対話的に与えるだけ。もちろん、ソースコードは中間生成ファイルとして、開発環境から出力される。だけど、ソースコードに目を通す人は稀で、今や頭脳工房創界の開発部門でも理解できない人が多数派だ。
オレは、祖父に多くのプログラム言語を叩き込まれたから、直接ソースコードを書ける。でもこの時代、それは趣味でしかない。新しいガジェットを開発してデバイスドライバを作るような場合でも、AIがコードを作成してくれる。奈良に、このマニアックな技術の習得を期待してはいけない…。
その間に、豊島からもプログラミングについて相談を受けた。
豊島はゲート型の量子コンピュータで、量子論理ゲートを用いたAIを構成するためのスキームを研究している。量子論理ゲートでニューロンの働きをシミュレートするプログラム自体は、開発環境に付属するAIが作ってくれる。
ところが、AIが作成したプログラムは、量子論理ゲートのパラメータを細かく調整できなかったらしい。そこで、彼女は部分的にソースコードを編集したが、今度はプログラムが動作しなくなってしまったのだそうだ。
そこでオレがソースコードを眺めてみると、どうやら変数の定義が他の部分と整合していないようだった。豊島も、直接ソースコードを書いたことは無いらしいので、オレが手を加えた。
その結果、もちろん動作するようになったのだが…。豊島には、非常に喜ばれた。いや、…喜ばれすぎて困った。
豊島が興奮して、
「桜井君最高! もう大好き。結婚するしかないよ!」
と言って抱きついて来たからだ。
だけど、それは感謝の言葉であって、本気じゃないのは分かっている…つもりだった。それでも、豊島は普段なら、こんなことは言わない。相当苦心していたんだろう。
上気した豊島の顔を間近に見た。彼女は地味だけど、実はカワイイ女性だ…と思っていた。だから、この予想外の展開に、オレはドキドキして言葉に詰まった。それに、そんなオレと豊島を離れて見ていた奈良と藤田も、固まっている。
しばらくしてオレから離れて、周りを見渡した豊島は、ようやく事態を認識したらしい。急に顔を赤らめると、小さい声で
「えっと…感謝はしているけどね。『好き』とか『結婚』は違ったね。桜井君、ゴメン。」
と言った。
もちろんオレは、
「分かってるから、気にしないで。」
と応えた。だけど心の奥がチリチリした。それを言葉にすれば、理不尽なことに何故か彼女に振られたような、そんな微妙な気分だ。
やがて、奈良が何とか動作するプログラムを1つ作り上げた頃には、陽が落ちて外の景色は薄暗くなっていた。このくらいの時間になると、いつものように、湊医科大学の思宮研究室から木田が帰ってくる。
今日は、頭脳工房創界にシフトを入れていない。そこで、木田、豊島、奈良、そして藤田たちと一緒に、夕食に出かけた。木田は一応、時宮准教授にたかろうと…いや誘おうとしたが、彼は既に帰っていたようだ。
時宮准教授がいないので、オレたちは誰言うと無く、学食へ向かった。皆がそれぞれのトレーを持って席につくと、木田が皆に言った。
「高木さんが、久しぶりに時宮研に遊びに来るってよ。」
すると、豊島がすぐに反応した。
「高木さん? えっ、いつ来るの?」
「2週間後の木曜日になりそうだ。」
奈良がオレに尋ねて来た。
「高木さんって、どんな方なんですか?」
「我々の先輩だよ。時宮研の修士だった人で、今年修了した後、湊医科大学へ進学して思宮研究室にいるんだ。木田が共同研究で通っている所だよ。」
すると、藤田も横から尋ねてくる。
「えっと、高木さんって木田さんの彼女さんですよね?」
木田の方をちらっと見ながら、
「そうだよ。」
と答えながら、彼らの馴れ初めを思い出した。
木田と飲んでいた時に、木田がオレに高木さんへの片想いを告げたのが最初のきっかけだった。だけど、2人を結びつけたのはムーコだ。ムーコは、オレとムーコ、木田と高木さんのダブルデートを画策した。思い返すと、木田と高木さんはムーコのおかげで付き合っているのだ。
今、そのムーコは…あの無機質なコールドスリープセンターにいる。彼女が回復する見込みは無い…。
奈良が残念そうな表情で、皆に言った。
「高木さんにお会いしたかったですね。」
すると、藤田がすかさず反応した。
「なんで? 奈良君はその日に研究室に来ないの?」
「お前だって高木さんと会えないぞ、藤田。」
「えっ、何で?」
「その日は、俺たち学部4年は、五嶺白山ホールで進学・就職説明会があるだろう?」
「あーっ、そうだった。」
2度の「予知夢」ではいずれも、高木さんが時宮研に来る日は学部生は居なかった。…それは現実になるのか? そして「2週間後の木曜日」は、やっぱり「嵐の日」になるのだろうか?
学食から研究室への帰り道、木田に話しかけた。
「最近、高木さんとはうまくいっているの?」
「まあまあ…かな。結局、俺は時宮研に所属しながら、高木さんのいる思宮研にいる時間が長くなっている。俺たちの研究テーマは、相互補完だしな。」
そう語る木田の声は明るい。
高木さんが湊医科大学への進学を決めた時、湊医科大学から自宅までが遠い木田との関係が少しギクシャクしたことがあった。その時、オレは木田と飲み明かして、高木さんが木田との仲を前へ進める決意があるんじゃないかと指摘した。どうやら、それは当たっていたらしい。
そう言えば、木田と飲んだ時に木田は、
「准教授室の扉が薄いから『フォンノイマンのレクイエム』と言う言葉が聞こえた」
と言っていたが、多分それは高木さんから聞いたハズだ。准教授室には、特定の人にしか声が届かない様にするあのガジェットがあるのだから…。
そこで、そのことを小声で問いただすと、
「桜井の言うとおり、高木さんから聞いたんだ。ここだけの話だぞ。」
と応じた。




