5.18. より良い未来
何故、川辺がわざわざ時宮研に来てあんなこと言ったのか、後から考えてもオレには解らなかった。あえて想像すると、「フォンノイマンのレクイエム」が時宮研と関係があると、誰かから言われたからではないか?
それに、川辺が結局、何を言いたかったのか? も気になる。
「『フォンノイマンのレクイエム』のせいで、玉置由宇が危険になる。」
とは言っていたが、それならどうして欲しいのかは、オレの夢の中では語らなかった。
それに、父の周囲から「フォンノイマンのレクイエム」の情報が漏れたとすれば、それはずっと昔のことだ。それなのに、何故今さらこんなことになるのだろう。
しばらく眼を閉じていた時宮准教授は、やがて見開いて言った。
「そうだな…。それなら、川辺君に『フォンノイマンのレクイエム』について説明してごらん。」
オレは、時宮准教授の変わり身の早さに驚いた。
「えっー! さっきは、『フォンノイマンのレクイエムは慎重に公開しないと』って言ってたじゃないですか?」
だが、彼は首を振って続けた。
「いやいや、川辺君に『フォンノイマンのレクイエム』について説明するのは現実では無く、君の夢の中でのことだ。起こる可能性の高い現実を予知した夢なら、多分また見ることになるだろう。だから、桜井君が今度その夢をみたら、夢の中で試してみるんだ。」
…えっと、比較的実現しやすい未来を観測する時に影響を受ける量子群に、エンタングルメントされた量子群により見せられる「予知夢」。実現する可能性が高いから、また同じ夢を見る可能性がある…のだろうか? だったら、予知夢の中で情報を収集して、それを利用することで現実をより良い方向へ変えていく、ということか?
だけど、これが予知夢であれば、実現するのは今度の木曜日…高木さんが時宮研究室に来る日…のハズだ。その間に、また予知夢を見るだろうか? まして、対策をするには時間が足りないと思った。
それで、時宮准教授に言った。
「オレの夢では、川辺が研究室に駆け込んでくるのは、高木さんがここに来る日です。木田によると、次に高木さんが来るのは今度の木曜日。そして、オレの夢の中では嵐になっていたけど、天気予報では今度の木曜日に天気が崩れるそうです。今度の木曜日までに予知夢を見て対策するというのは、難しいと思うのですが…。」
オレの話を聞くと、時宮准教授はしばらく下を向いていたが、やがて顔を上げて言った。
「わかった、何とかしよう。」
「何とかって?」
時宮准教授は、オレの問いに答えず、携帯端末を取り出して何やら操作を始めた。やがて、電子音が鳴ると、オレに一通のメールを見せた。
そこには、
「日程を打診されていた共同研究の打ち合わせですが、今度の木曜日の午後に伺いますので、よろしくお願いいたします。」
と書かれていた。差出人はもちろん時宮准教授だが、送信先は思宮教授だ。
そして、困惑したオレに説明した。
「これで、今度の木曜日には高木さんは思宮研にいることになった。ここには来れない。それに、木田君も連れて行こうと思っている。だから、桜井君が見た夢は、当面現実にはならないさ。」
オレはうなずいたけど…まだ十分に状況が飲み込めなかった。
そんなオレを見て、時宮准教授は話を続けた。
「川辺君の彼女が危険な目に遭うかもしれないってことなんだろう? それなら、桜井君の見た夢が予知夢にならない方が良いよね。ただ…AM世界の桜井君からのレポートや君自身の話から、予知夢になる可能性が高そうだが…。だから、そうなる前に情報収集や対策をできるだけしておくことだね。」
AM世界のオレからのレポートかあ…。
ふと、先ほど渡された印刷物「Project of a study on Precognitive Dream」の目次に記された章の1つに、「予知夢を見るための神経細胞の使い方」とあったのを思い出した。もしかすると、「睡眠学習装置(仮)」でAMになると、予知夢を見るための神経細胞の使い方が身につくのだろうか? 時宮准教授はそんな仮説を立てて実験し、それを確認するためにAMのオレにレポートを依頼したのか?
オレはそれを確かめようとして時宮准教授に
「先生?」
と話しかけたが、彼の反応は無かった。一心不乱に携帯端末を操作していた。
そして、彼が顔を上げると、間も無くオレの携帯端末に通知が来た。木田からのメッセージだった。
「高木さんと院生の飲み会は、当日高木さんと俺が時宮研にいないことになったので、中止にしたい。」
とあった。
とりあえず、オレが見た夢がすぐに現実になる可能性は消えた。これで、玉置由宇の危機は先延ばしになった…のかもしれない。そう思ったら、急に気が抜けて眠くなってきた。
この時宮准教授との「面談」では、あまりに多くの情報が一気に頭に詰め込まれて、すぐに消化できそうに無い。時宮准教授も、話し疲れたのかコーヒーを啜りながら、静かになった。
そこで、時宮准教授にお礼を言って、准教授室を退出した。もちろん、オカルトの冊子「Project of a study on Precognitive Dream」は持ち帰らせてもらった。これはAM世界から現実世界に「帰還」したオレにとって、ある意味、自身の取説になるのかもしれない。そして、量子回路上で動作するOSを研究するオレにとって、これまで考えても見なかったヒントを与えてくれるかもしれない…と思った。
研究室内は明るいが、外の景色は既に暗くなっていた。どこからか、ピアノの音が聞こえる。…研究室には豊島が居残っていた。
豊島はゲート型の量子コンピュータで、量子論理ゲートを用いたAIを構成するためのスキームを研究している。オレの研究では量子アニーリング/イジングという現象そのものを、そのままAIの演算に用いているが、彼女は量子レベルでニューロンの働きをシミュレートしようとしているのだ。
しかし…今モニタに映っているのは何かのアニメーション。そこで、オレは何気に尋ねた。
「何してるの?」
すると、少し疲れたような表情の豊島は、それでも説明してくれた。
「朋ちゃんに、量子論理ゲートの基礎を教えようとしてるんだけど、なかなか苦戦しててね…。それで、生成AIに説明用のアニメーションを作ってもらっているんだけど、それも思い通りに行かなくってさ。」
ちなみに、「朋ちゃん」というのは、豊島と一緒に研究を進めることになっている学部生のことだろう。だけど、今の豊島の説明では、まだまだ戦力になってないらしい。
オレも別の学部生と共同で研究を進めることになっているけど、彼とはまだ何も話していない。…えっと、彼の名前は何だったっけ? 自分のことで精一杯だったから、放置してしまっている。そろそろ話し合わないと。
ふと、出会ったばかりの頃の高木さんを思い出した。コミュ障で噛み噛みの…。高木さんのように、我々も成長しなければなるまい。少なくとも、豊島はその第一歩を踏み出しているようだ。オレもなんとかしなければ…。
そう思ったけど、お腹が空いた。それで、豊島を誘って学食へ行った。あの時に流れていた曲が何だったのか、後になって気になった。でも、その時のオレは食欲の奴隷で、食べること以外は何も考えられなかった。




