5.11. 報告と願い
玉置由佳に巻き込まれたせいで、3人分の昼食を奢らされて出費は痛かったが、里奈と和解できてオレは満足だった。今後は、頭脳工房創界に「玉置由宇」として出勤する里奈とも、普通に接することができそうだ。
だけど、気がつくともう午後3時。デザートを食べ終えてからでも、結構時間が経っている。それに、玉置由佳にいじられたせいで、精神的に疲れた。
だから、今日はそろそろお開きにしよう、と思った。それで、そう里奈に告げたのだが、里奈の頬が少し膨れたように見えた。
あれっ、何か不満なのかな? そう思っていると、里奈はオレを振り返って言った。
「お兄ちゃん?…いや祥太さん、3つ話があるの。2つは連絡、1つはお願いだけど、聞いてもらえる?」
オレは少し驚いたが、頷いて答えた。
「もちろん。」
里奈は少しためらいながら話し出した。
「1つは、学部を転部したことの報告よ。」
オレは驚いた。里奈は、西玉美術大学に通学するために、叔母の家へ引っ越して養子になったのでは無かったか?
それで、つい問い詰めるような口調になってしまった。
「えーっ! だって、里奈は第一志望の西玉美術大学芸術学部のデザイン学科に行ってたよね? やりたいことをやってるって思っていたんだけど。」
すると、里奈はオレの反応を予想していたように、抑制的に答えた。
「そうなんだけど、ちょっと…色々あってさ。」
「色々って? 誰かにいじめられたとか、人間関係とか?」
「そんなことじゃないわ。さっきまでいた由宇ちゃんもそうだけど、みんな仲良いし。」
「もしかして、異性問題…とか?」
オレのこの質問に、里奈は絶句した。やがて、少し間をおいて、里奈は強く反応した。
「怒るよ、祥太さん! 私は絶対…。いや、とにかく、そんなこと無いから。」
どうやら、仲直りして早々に、逆鱗に触れてしまったようだ。
だけど、里奈が何故怒っているのか、良くわからない。…こんな時は、一応、謝っておいた方が良さそうだ。
「ごめん。」
そして、本題に戻す。
「それじゃあ、どの学部学科に転部したの?」
すると、まだもやもやした感じに見える里奈は、
「経済学部の経営学科よ。」
と答えた。
今度はオレが絶句した。「芸術学部」から「経済学部」に転部する理由が分からない。そもそも、西玉美術大学に「経済学部」があるなんて、初めて聞いた。
固まったオレを見て、里奈は何かに気がついたようだ。
「あっ、そうか。説明不足だったみたいね…。」
と里奈が言うので、うなずいた。
里奈は、こんな説明をしてくれた。
養母は、どこかの会社で経営に関する仕事をしているらしい。詳細や勤務先については尋ねても教えてくれないが…。颯爽と働く義母を見ているうちに、憧れるようになっていた。
そんな義母は、桜井祥太を評して、いつもこう言っていた。
「カエルの子はカエルねえ。彼の父親、桜井俊さんが見込んだ通り、きっと素晴らしいエンジニアか研究者になるわ。だけど…。」
「だけど」の後は、いつも言葉を濁してしまう。里奈は、ずっとそのことが気になっていた。
それが昨年の初夏の頃、送別会か何かで酔って帰って来た彼女は、里奈に吐露した。
「どんなに優れた仕事をしても、ちゃんと利益が出ないと継続できないのよ。技術系の人はそこら辺が判って無い!」
それで里奈がさりげなく
「お兄ちゃんも『技術系の人』かな?」
と尋ねた。
すると、義母はボソッと言った。
「もちろんそうよ。あの子にも、経営を知っている人が傍にいてくれると良いのだけど、そうでなければお父さんみたいになってしまうわ…。」
「お父さん」が、里奈の祖父のことなのか父のことなのかは分からないが、そう言った義母の顔はどこか寂しげだった。
それから間も無く、里奈はニュースで、西玉美術大学が欅森大学と合併することになることを知った。合併した大学は、芸術や教育を含む文科系の総合大学「玉森学芸大学」となるらしい。
玉林学芸大学には、経済学部が含まれる。
その後、大学から受けた説明は、里奈の心をざわつかせた。
大学2年生までは、単位と評定の条件を満たせば合併後の大学の学部間を転部できるという。しかも、転部しても、元の学部の講義を受講できるそうだ。
里奈が経済学部の経営学科への転部を義母に相談すると、喜んで承諾してくれた。ただし、承諾する代わりに条件を付けられた。
それが、2つ目の報告に関係する。
2つ目の報告について、里奈はこう言った。
「2つ目はね、転部の条件として、母からアルバイトを辞めるように言われたの。母は私が頭脳工房創界ではなく、レゾナンスでバイトしていると思っているみたいだけどね。」
要は、「転部するならちゃんと勉強しろ」ということだろう。
今後は、頭脳工房創界で里奈の姿を見ることは無くなるのか…。少し寂しい気がする。
だけど、しばらくすれ違ってろくに話もできなかったのが和解できたんだ。今後は、普通に連絡すれば良い。
そんな考えは心の内に留めて、里奈が頭脳工房創界に来なくなるなら…。オレに、ある考えが浮かんだ。
そこで、それを里奈に言った
「そうしたら、玉置さんも里奈のために名目働いていることになっていた頭脳工房創界を辞めて、正直にレゾナンスで働くことにすれば良いんじゃないかな?」
すると里奈が答えた。
「由宇ちゃんのことは、そのうち平山現咲さんにお願いするつもりよ。きっと、何とかしてくれると思うわ。」
…そうすれば、川辺亘と玉置由宇のトラブルも解決するだろう。
しかし、根本的な問題がある。それは、「経営の勉強は本当に里奈のやりたいことなのか?」ということだ。里奈はオレのためと思って、やりたくないことをやろうとしてないか?
心配になったので尋ねた。
「里奈はそれで良いの? それは本当に里奈のやりたいこと?」
すると、里奈は笑顔で頷いた。
杞憂だったか…。
だが、安心したオレの前で、里奈の笑顔が薄れていった。そして、少し話しづらそうに言った。
「それで、1つお願いがあるんだけど…。」
「何だ?」
「祥太さんが私とずっと一緒にいてくれると言ってくれたんだから、私の『席』は用意してくれるんだよね?」
里奈の言うことが飲み込めなかったので、咄嗟に逆質問した。
「『席』って?」
「『居場所』っていうことよ。」
何故か里奈は顔を逸らして答えた。でも、声は少し不安そうだ。
そこで笑顔で答えた。
「もちろん、里奈に『席』を用意するよ。里奈の言いたいことが、イマイチ分からないけど…。」
すると、里奈は説明を付け足した。
「平山美夢さんが現れてから、祥太さんの近くに私の居場所が無くなってしまって、私はずっと寂しかったんだよ…。」
そう言って振り返った里奈の頬は、外から差し込んで来る陽の光のためか、少し赤く染まっていた。
そうだったのか…。
確かに、平山美夢ことムーコがオレの目の前に現れてから、里奈との距離が遠くなっていった。そして、ムーコによって記憶を変えられたAMのオレが作り出した世界では、「オリジナルの里奈」は消えてしまった。現実世界でも、ムーコとオレが襲われたあの事件が起こらなければ、オレの周りに里奈の「居場所」は無くなってしまったのかも知れない。
それはムーコのせいか? いや、それは違う。オレ自身がしっかりしていれば、里奈との絆を壊すことは無かった。
オレは、今度は心から詫びた。
「オレが悪かったよ。本当にごめん。許してもらえるなら、もう里奈の居場所が無くなるようなことは二度としない。約束する。」
すると、里奈は笑顔に戻って言った。
「わかったわ。約束だよ。」
オレたちは、お互いのことを大切に思っているくせに、時々相手を傷つけてしまう。そして許しを乞うて、許されてきた。
「絆」というものは、こうして育まれるものなのかも知れない。
オレが里奈を待たせてで4人分の支払いをしていると、ピアノの音が聞こえてきた。BGMだろう。
耳をそばだてると、ベートーベンのピアノソナタ17番、テンペストの第二楽章。穏やかで伸びやかな音が連なる。嵐とは思えないような晴れ晴れとした曲だ。
だが、テンペストで一番激しい第三楽章は、第二楽章の次に来るのだ…。




