5.7. 汎用的なプログラミング(その2)
その後、高木さんは、こんな説明をしてくれた。
現実世界のほぼ5年後の世界といってもよいAM世界では、先駆科学大学と湊医科大学は合併して人間科学技術機構となった。キャンパスはそのままだが、学部・学科は旧大学を横断して再編成された。
その際に境界領域の研究部門は拡充されて、新たなポストが出来た。その目玉の1つが「医工融合情報学領域」だった。領域長が思宮教授、副領域長が時宮教授。AM世界ならではのご都合主義なんだろうけど、この分野の将来性を考えると、現実世界でも起こるかもしれない。
そして、この新興分野の研究者は未だほとんどいない。って訳で、博士号を取ったばかりの高木さんにお鉢が回って来て、医工融合情報学領域の研究員兼講師ということになったらしい…一先ずは。
「一先ず」というのは、彼女にまだ若くて実績が無いからだとか。来年には、助教になるのがほぼ確定しているそうだ。
それで、オレには一つ確認したいことがあった。話が進まないから「一先ず」スルーしたけど…。
「あの時宮先生が教授になったって言う話、本当に大丈夫なんですか?」
すると、高木さんはため息をついて言った。
「それで、時宮研は移動したんだけど、整理ができてなくてグチャグチャ。今も、仁さんが片付けと学生の指導で大忙しなのよ。彼自身も、本当は博士論文で大変なハズなのに…。」
…やはり。
この世界の木田も気になるし、時宮研にも行ってみたい。そこで、高木さんを誘った。
「オレは、この世界の時宮研が、今どこにあるのか知りません。良かったら、案内してもらえませんか?」
「良いですよ。仁さんのことも気になるし、これから行ってみましょう。」
歩き出した高木さんの後をついていく。すると…情報学科棟を出てしまった。ふと辺りを見回すと、空き地だった所に、見覚えの無い普通の一軒家のような建物が見えた。
その建物の入り口に、これまた小さい看板を見つけた。
「医工融合情報学第一研究所」
これなら、むしろ高木さんの研究室の方が、ここに相応しいような気がする。「時宮教授」のわがままで、古い研究室を高木さんに押し付けたのか?
しかし、高木さんの見解は違った。
「時宮教授は、多分ノイズが少ない場所で実験できるようにしたかったんでしょう。」
「ええっ? 時宮先生の『睡眠学習装置』はノイズの除去を極力しない設計だったのでは?」
オレはまだ「時宮教授」という言葉が、口から出て来ない。
高木さんはオレの疑問に答えて言った。
「ノイズを『推定』で『除去』したくない…のだそうよ。私の研究とは少し方向が違うから、時宮教授の目的は分からないけど。」
そもそも、ここはAM世界だから「ノイズ」の心配なんてする必要は無いと思うのだけど…。
オレがそう言うと、高木さんは「推測だけど…」と前置きして答えてくれた。
「AM世界でも、人格が交錯する人が多いところや構造が複雑な建築物の近くでは、その周りの量子状態が干渉してしまうらしいわ。多分、それを『ノイズ』って言ってるんでしょう。」
うーむ。そんなことを気にする研究って、時宮教授(?)は一体何を企んでいるんだろうか?
高木さんに続いて一軒家もとい「医工融合情報学研究所」に入ると、彼女は実験室らしき扉を開けて言った。
「仁さーん、時宮先生いる? お客さんだよ。あなたにもね。」
「だれ?」
木田の声だ。
扉の内側に入ると、そこには少し大人っぽくなった木田がいた。
「よう。」
と声をかけると、
「おう。」
見かけはともかく、反応はいつもと変わらない。
だが、変わったこともあるらしい。
「一応、言っておくが、時宮研ではオレは高木仁になった。家では『木田仁』のままだけどな。」
「へっ?」
困惑したオレに、「木田」は続けて言った。
「妻…『高木希』はこの分野では既に有名だし、夫婦で研究しているとなれば、注目されるからなあ。」
…オレが思っていたよりも、この世界の「木田」はずっとお調子者らしい。
そこに、少し老けた時宮教授が現れた。無精髭で少しヨレヨレの姿…が見えたと思った瞬間…消えた。いや、足下に転がっていた工具につまづいて転けただけだった。
「大丈夫ですか?」
すると、立ち上がりながら彼は言った。
「さては、現実世界の桜井君か? 君の方こそ大丈夫?」
「大丈夫?って、何の話ですか?」
「君は切羽詰まって、ここに来たんだろう?」
時宮教授はどうして、そのことを知っているのだろう?
「この世界のオレから聞いたんですか?」
「いや。予知夢だよ。ここでの私の研究成果の一つさ。」
「予知夢は誰もが見るもの…そうフォンノイマンは言ってたはず…ですが?」
彼は首を振りながら言った。
「それはまあ良いさ。君の課題を解決しておこう。『どうすれば、量子アニーリング/イジング型の量子回路で汎用的な計算ができるのか?』だったね。」
「まあ、そうです。」
少し肩を落としたオレを見て、時宮教授はニヤッと笑った。
「君は半分、その課題を解決した。量子アニーリング/イジング型の量子回路で機械学習させるっていうことだったと思うけど。」
「そうです。でもそれでは、『汎用的』な問題は解けない。」
時宮教授はますます笑顔になった。
「そうかな? 今、プログラムで読み込むライブラリをどうやって作るのか、桜井君ならよく知っているだろう?」
「昔はマニュアルでコーディングして作ったらしいですが、今はほとんどAIが作ってます。」
「だよね。それなら、そのライブラリを量子アニーリング/イジング型の量子回路で動作するAIに作らせれば?」
ああ、そうだったのか。時宮教授が言うように素直にライブラリができるとも思えないけど、工夫すれば何とかなるかも知れない。オレがここへ来たのは、正解だった。
でも、一つだけ気になった。
「オレは時宮教授から教えてもらって、そのことを知った。とすると、これは時宮教授の成果ですね。」
すると、時宮教授は笑って言った。
「このAM世界は、全て桜井君の考えをコピーしたものだ。だから、AM世界の中ではともかく、現実世界では君の手柄にしてくれて構わないよ。」
AM世界の時宮教授にそう言ってもらっても…。オレは何かズルをしたような、微妙な気分になった。




