5.6. 高木研
里奈が膝の上から去ったAM世界のオレは、「がっかり」どころではなく、完全にやる気を失ってしょげた。
「里奈…。」
そんな彼に、ムーコが宥めるように言った。
「まあまあ、旦那様。」
そう言う割には、ムーコは笑顔だ。その膝の上には、彼から去った愛娘の里奈が乗っている。
その里奈は、彼に怒ったような顔を向けている…と思ったら、プイッとそっぽを向いた。それを見た彼は、ますます落ち込んだ。
ダメだこりゃ。
AM世界は、その中心である彼に都合よく出来ている。だけど、AM世界の人たちにはそれぞれ人格があって、彼の思い通りには動かない…。
暖かい陽が射し心地よい風が入って来る、AM世界のオレの家のリビング。そこでこんな家族の情景を見せつけられても、独り者のオレには身の置き所が無い。
しょげた彼は、簡単に復活しそうにない。仕方がないから、そろそろ帰ろうか?とも思ったけど、帰る方法が分からない。きっと、オレやAM世界のオレの意思では無く、現実世界で高木さんたちが「相互干渉モード」での「睡眠学習装置(改)」の動作を終了させれば帰ることになるのだろう。
だけど、このAM世界は現実世界の10倍、時間の進み方が早いらしい。現実世界では1時間くらい「相互干渉モード」を維持する予定だったから、AM世界に10時間くらいいることになる。すると、大体あと8時間くらいは、ここにいることになるのか?
そこでオレは、落ち込んだAM世界のオレの家から、しばしおいとますることにした。
「まだ時間があるから、少し学校へ行ってくる。」
「分かった…。多分、時宮准教授に聞けば、必要なことを教えてくれると思うよ。あとのことは、メールでも良いし、またこちらへきてくれても良い。」
里奈を抱いたムーコが、玄関の外まで見送ってくれた。その途中で、妙なことを言っていた。
「そう言えば数日前に夫が、センチネルが新しい情報を掴んだから現実世界のオレにも伝えなければ、って言ってたんです。内容は私も知りませんが、本人もすっかり忘れてしまっているようですね。後で尋ねてみてください。」
オレがムーコの言葉を思い出したのは、ずっと後のことだ。AM世界のオレかムーコか、はたまた現実世界のこのオレか。誰かが思い出していれば良かったのだが、そうはならなかった。
ムーコがオレに告げていた正にその時、オレは萌えてしまっていた。ストレージで見たのと同じ姿の「幼い里奈」が、ムーコの肩越しにオレの頭を撫でようとしている姿に…。
だから、せっかくのムーコの「忠告」が記憶に留まらなかったのも、仕方が無いことかもしれない。
それで、家を出たオレは大学へ向かった。AM世界のオレが言いかけてやめてしまった話の内容を、この世界の時宮准教授に尋ねてみたいと思ったからだ。AM世界のオレが言おうとしたこと以上の、何かプラスアルファの話が聞けるのではと期待したのだ。
来た道を戻り、いつものように勝手知った研究室の扉を開けて実験室の中に入ると…何か雰囲気が違う。何だろう?
見慣れない学生たちがいるからだろうか? 一応、彼ら彼女らに挨拶した。見た目、学生たちはオレと同い年くらいに見える。いや、オレよりは少し若いかもしれない。
そうだ。それよりも、「時宮研究室」にしてはキチンと整理整頓され過ぎているからかもしれない。懐かしいAM世界の「睡眠学習装置(仮)」も、きれいに整えられているし…。
…いや、これは「改」の方だ。「改」が「時宮研究室」の実験室に設置されているのは、現実世界でもAM世界でも見たことが無い。それも、この違和感の原因かもしれない。
色々と不審に思いつつ、いつもの時宮准教授室のドアをノックした。すると、
「はーい。どうぞ。」
と、高木さんの声がした。
ドアを開けると、いつものようにコーヒーの香りがする。誰にも断らずにソファーに座り込むと、奥の方で椅子が動いた音がして、高木さんが出てきた。
「あれっ、桜井君?…だよね。 妙に若く見えるけど…。あっ、もしかすると現実世界の桜井君でしょ? 前に桜井君が、『近いうちに現実世界のオレが来るかも。』って言ってたけど。」
そう言う高木さんは、大人の色気がムンムンだ。そうだ、こちらの世界では木田の奥さんになっているんだった。だけど、その彼女はオレがよく知っている高木さんと同じように、コーヒーカップ2つとお菓子を持ってきてテーブルに並べてくれた。
時宮准教授がいる気配は無い。オレは予想外の展開に、高木さんに何を言ったら良いのか分からなくなった。そこで咄嗟に、間を持たせなければと思って、
「こちらのオレから、結婚したって聞きましたよ。木田は元気ですか?」
なんて言ってしまった。だけど、オレのAMの世界のことだ。オレの親友の木田が、事故や病気になるハズが無い。
高木さん…いや「木田さん」と呼んだ方が良いか…は、オレの質問に素直に応えて言った。
「仁さんなら元気だけど、ここにはいないわ。今頃は時宮研にいるハズだけど?」
ん、どう言うことだ? 彼女は、妙なことを言う。それでも一応、話を合わせた。
「えっ、それじゃあその辺りに?」
ところが、彼女はかえって怪訝そうな表情を浮かべた。
「ここは、時宮研じゃ無いわ?」
「それじゃあ、ここは?」
困惑したオレの問いで、彼女は何かに気がついたようで、表情が変わった。そして、オレの質問に答えてくれた。
「『高木研究室』へようこそ。」
コーヒーを吹き出しそうになったのを堪えて、何とか言葉を発した。
「えーっ? 高木研究室ってことは…。」
「そう。私、『高木希』の研究室よ。結婚してから『木田希』を名乗る機会が増えたけど、ここでは『高木希』を名乗ることにしたの。」
家では「木田希」で、学校では「高木希」かあ。彼女も、木田と結婚したのが嬉しかったんだろうなあ。だけど、論文は結婚前から書いてきたんだし、「高木」も捨てられない…ってとこか。
今では、どちらも彼女の名前ってことだろう。いや、木田だって、都合に合わせて「高木仁」を名乗っているかもしれない。オレが生きている世界では、登録さえすれば5つまで公式の名前を持てるのが常識だ。
オレが高校生の頃に習った歴史の授業では、昔は結婚した夫婦がどちらの姓を名乗るかが政治問題になったことがあると習った。確かに「名前」は個人が社会で認識されるためのものだから、重要ではある。
でも、それなら、その時々の都合に合わせて使えば良い。コンピュータ上のファイルのエイリアスのように。昔それができなかったのは、個人の情報が全て「名前」に紐づけられていたからだそうだ。
資産にしても公的な証明書にしても、全て名前に紐づけられていたらしいが、面倒だし情報処理の観点から見ると合理的な仕組みとは思えない。現在では、各個人の情報は全て個人番号に紐づけられている。パスポートにも交付される証明書にも、記載内容で最も重要なのは個人番号だ。
何十年も前からコンピュータで個人情報を管理していたそうだから、もっと早くこうすれば良かったのに…。こうなったのは、オレが生まれるわずか10年前くらいだとか。




