5.2. D.I.Yで創ったユートピア
2人に案内されて、リビングのソファーに腰掛けると、ムーコがコーヒーを淹れてくれた。それを一口啜って驚いた。AM世界…いや現実世界でも、こんなに美味しいコーヒーを飲んだことはない。
それを口に出して言うと、AM世界のオレはニヤッと笑い、ムーコは
「ありがとうございます。」
と言ってお辞儀をした。…やはりムーコらしくない。
ムーコがAM世界のオレの隣に座ると、彼は語り始めた。
最初に彼が言ったのは、このAM世界が現実世界の10倍の速さで時間が進んでいる、ということだった。
「だって、オレたちが1つの意識体だった時には、時間の進み方をなるべく現実世界と同じ速さにしようって考えていたはずじゃ…?」
「そうだったな。だけど、現実世界であんな事件が起きて、君と分離してこっちに残ったオレは思ったんだ。…このAM世界だって、現実世界の状況次第でいつどうなるか分からん…ってね。それなら、この世界が存在している間に、少しでも『人生』を満喫しておこうって思った。」
まあ確かに、AM世界のオレはいつも伝えて来ていた。「自分自身の量子コンピュータが欲しい」と。時宮研の量子コンピュータにしても、一時的に引っ越していた頭脳工房創界の量子コンピュータにしても、「オレ」の意思だけで自由には使用できない。AM世界のオレからすれば、いつ消去されてしまってもおかしくない、不安定な状況だと感じていたのだろう。
だから、AM世界のオレは、現実世界のオレに仲介をさせてしっかり稼いできた。オンラインゲームやシステムの管理、プログラミング、それにコンサルティング。彼のAM世界を維持する能力の量子コンピュータなら、あと1年もしないうちに購入できるだろう。
オレがそう話すと、2人の表情は明るくなった。2人とも、あるいは少なくともAM世界のオレには、そんなことはとっくに分かっていたのだろうが。
そのAM世界のオレは、AM世界の時間を速めた別な理由を教えてくれた。
「現実世界にいると気がつかないだろうけど、AM世界では時間を速めれば短い時間に多くの仕事ができる。それに、現実世界でどれほど反応の早いゲーマーでも、この世界から見れば蝿が止まりそうなくらい遅い。それだけ、ゲームを管理しやすくなるんだよ。」
現実世界のオレは感情的に、頭脳工房創界のシフトのペースを落として、少しぐーたらになっていた。それに対して、AM世界のオレはなんと勤勉なのだろう。
さすがに、そんなことは口には出来なかった。だけど、AM世界のオレには分かったらしい。右手の2本指を突き出して左右に振ると、こう言った。
「もちろん、遊ぶ時間も増える。何しろ、AM世界だ。情報さえ揃えば、古今東西、どこにでも行ける。ずいぶん、いろんな所を巡ってきた。ムーコと2人でさ。それでも、オレ自身が願わなければ、少なくとも『老人』になることは無い…永遠に。」
隣のムーコもニコニコしている。
AM世界。そこはかつてオレも居たところだ。だけど、その時はAM世界がそんな所だなんて、考えたこともなかった。ようやくAM世界に慣れて、ムーコの意識が戻らなくなった事件が解決したら、すぐに現実世界に戻って来たのだし…オレは。
AM世界。そこは、見方を変えれば、
「それって、昔の権力者の誰もが願ったという不老不死のユートピアでは?」
ということかもしれない。
そうオレが言うと、AM世界のオレは少し考え込んだ。そんな彼を、リビングの入り口から、幼いツインテールの少女がじっと見ている。幼稚園児くらいだろうか?
しかし、AM世界のオレには彼女の姿が目に入っていなかったらしい。考えがまとまると、話し始めた。
「まあ楽しいし、ある意味ユートピアかもね。でも、現実世界で考えられてきたユートピアとは違う。神様がいてそんな世界を与えてくれる、なんてものじゃない。…そうだな、『D.I.Yで創るユートピア』ってところかな。何しろ、通行人の顔から街を走るクルマ、電車に至るまで、全部オレが情報を揃えて『創った』ものだ。いや、正確にはそうなるようにプログラムを組んだんだけど。今じゃ、この部屋にある本棚の本も、ちゃんと読めるようになったんだぜ。」
彼の説明を聞きながら、オレは少女とムーコ、そして現実世界のオレを見比べていた。…3人とも似てない。けれども、オレは幼い少女のことを良く知っているような気がした。
少女はオレに気を遣ってか、リビングには入ってこない。彼女が気になったオレは、変顔をして見せた。すると、きゃっきゃと笑った。
そこで、ようやく気づいたAM世界のオレが、彼女に声を掛けた。
「こっちにおいで、里奈。」
「里奈」だって? どういうことだ? オレは思わずAM世界のオレをじっと見た。
オレの困惑した表情を見たAM世界のオレは、すがるようにムーコに尋ねた。
「現実世界のオレに、どう説明すればすんなり分かってもらえると思う?」
すると、ムーコはすくっと立ち上がると、
「少し待ってて。」
と言って、リビングから出ていった。
しかし、「里奈」はその直後に爆弾を投下した。
「パパが2人いる。でも、こっちのパパは少し若いの。」
と言って、オレを指差した。
「オレがパパ?」
「里奈」は当然のようにうなずく。ますます困惑したオレは、AM世界のオレの顔を見ると、やはり彼もうなずいた。
オレはAM世界へ何をしに来たのか…、その時完全に忘れ去った。多分、オレにとってそれほど重要なことでは無かったのだろう。
ふと、外から鳥のさえずりが聞こえて、窓へ視線を移した。リビングには柔らかい陽射しと気持ちの良い風が、カーテンを押し除けて入って来ていたことに、今さらながら気がついた。
このAM世界の一つ一つは、AM世界のオレの意識やプログラムにより形作られている。多分、この世界そのものがAM世界のオレにとっての宝物、あるいは最高傑作になりつつあるのだろう。




