4.36. Que sera sera
頭脳工房創界のKAONソフト乗っ取りについては、木田はオレとは少し違う印象を持ったようだ。
木田は言った。
「お前はKAONソフトが乗っ取られたって言ったけど、本当に乗っ取りだったのか? って俺は思う。」
「どう言うことだ?」
すると、人差し指をオレに向けて言った。
「お前を見ていると、会ったことの無いお前の祖父や父親がどんな人たちだったのか、目に浮かぶような気がするんだ。コンピュータについては、俺みたい普通の人間から見れば天才だと思う、お前は。お前の祖父や父親もきっとそうなんだろう。だけど、経営はどうだったか?」
えらく持ち上げられた気がして、何かむずむずする。でも、木田自身は、決してオレを持ち上げて言ったのではなさそうだ。KAONソフトや頭脳工房創界で、ソフトウェア開発よりも重要なこと。それが、「経営」だと言いたいのか?
木田は続けた。
「民間の会社だったら少なくとも名目的には、ソフトウェアの開発は手段であって、目的では無いだろう?」
オレには木田の言っていることが分からない。そこで、
「それじゃ、目的って何だ?」
と尋ねると、木田は
「利益を出すことだろう? そうしないと、誰も投資してくれなくなるし、社員は食っていけなくなるぞ。」
と答えた。
貧乏学生のオレにとって、「食っていけなくなる」という言葉は切実で刺さる。少し木田の言いたいことが分かった気がして、言った。
「頭脳工房創界は悪くなくて、むしろKAONソフトを救済したって言いたいのか?」
すると木田は、
「そう言うことだ。まあ、…スペキュレーションだけどさ…。」
と言って頭を掻いた。
理屈はともかく、心情的には祖父と父のKAONソフトを悪く言われると気持ちは良くない。きっと、その感情は顔に出ていただろう。
しばらく2人とも無言になった。
金網の下の炭がはぜて、噴き出した炎がゆらめく。
串焼きと共に喉に流し込んだビールは、とても苦く感じた。
不満そうな木田を見て、多分、オレも似たような表情をしているに違いないと思った。それで、素直に言った。
「少しは客観的に事情が解ったとしても、木田は高木さんとのやり取りに、オレはオレ自身の里奈への態度と頭脳工房創界に、…感情的に納得してないってことかな?」
すると、木田はうなずいて応えた。
「こんな時、お前は良く言ってた言葉があったけど、最近は聞かないなあ。」
「それは何だ?」
「『Que sera sera』とか。確か、『なるようになる』って意味だったか?」
AM世界のアインシュタインの姿が、オレの脳裏をよぎった。彼は、『Que sera sera』は『なるようになる』と言う意味の諦めの言葉だと言ったオレをたしなめて、
「その言葉は本来『人生は自分で切り開く』という意味だ。」
と教えてくれたのだったが…。
人生を自分で切り開いていくことは大切だと思う。だけど、今は流れに身を任せよう…オレと木田には『なるようになる』の方がふさわしい。
お互いの事情に客観的な意見を単刀直入に言い合ったオレたちだった。しかしお互い、理性では理解できても、感情的な部分では納得できなかった。
そこでオレたちは、悩み事から話題を移して、馬鹿話をしながら酒に溺れた。どんな馬鹿話をしたかなんて、家に帰った頃には全く覚えていなかった。
翌日、財布に残っていたお金は僅かだった。割り勘で払ったのに…。オレも「経営」は苦手かも知れない。一人暮らしの家計ですらこの有様だ。里奈と一緒に暮らしていた頃は、年下の里奈に家計の管理を任せていたような気がする。
もしかすると、祖父や父も「経営」はダメな人たちだったのだろうか? ふと、オレとムーコを襲った高坂和巳が頭をよぎった。彼も一面で祖父や父と同類だったのかもしれない。
発狂して逮捕された彼は、いずれ裁かれるだろう。恐らく、リア子襲撃、オレとムーコの襲撃の主犯として。
…いや、何かが違う。AM世界から、ドローンを通してオレとムーコの襲撃事件を見ていた時のことを思い出した。あの大型ドローンから一部始終を見ていて、そのコントロールが奪われた途端に銃弾で撃ち抜いた人物こそ、真の主犯なのではないか?
結局、ムーコもオレも誘拐されなかったし、誘拐されそうになっていたことすら警察は知らないだろう。しかし、真の目的が誘拐だったとすると、その動機は? …高坂和巳が発狂した今、明らかになることは無いだろう。
そして、真の主犯とその協力者たちは、今もその辺を歩いているかもしれない。
第4章の主な登場人物
<桜井・倉橋家の人々>
桜井 祥太
主人公。先駆科学大学情報工学部の4年生でオタクハッカー。卒業研究は、量子コンピュータで動作する汎用的なプログラムの作成法の開発だった。本人はコミュ障だと思っている。
現実世界から「睡眠学習装置(仮)」に人口意識体(AM)としてコピーされたが、現実世界ではムーコと共に襲撃され意識が戻らなくなった。それを悲しんだ妹の里奈の働きかけで、時宮准教授、思宮教授、高木さん、木田たちにより「睡眠学習装置(仮)」を改良した「睡眠学習装置(改)」から量子情報を身体にコピーして復活した。
ところが、AMにコピーされた意識には、里奈の存在が欠落していた。そこで、思宮教授や高木さんたちによる「睡眠学習装置(改)」を用いた治療を受けて、里奈の記憶を回復した。
倉橋・桜井 里奈
桜井祥太の元妹。今は、元叔母の倉橋香の養子で、西玉美術大学芸術学部デザイン学科の1年生。
ムーコと共に襲撃され意識が戻らない祥太を心配して、時宮准教授に相談し、祥太の意識が復活するきっかけを作った。
友人の玉置由宇とバイト先を交換して、祥太が働く頭脳工房創界で働き始めた。しかし、祥太との感情のすれ違いのためか、距離を置くようになった。
桜井 俊
祥太の父。綾との再婚により里奈の父となった。
元量子コンピュータのエラー訂正についての最先端の研究者で先駆科学大学情報工学部教授、元KAONソフト社員。
KAONソフト社員だった時に、フォンノイマンの目指した究極的な研究テーマを読み解き、それを「フォンノイマンのレクイエム」と命名した。
10年前に、飛行機事故により妻の綾と共に亡くなった。
桜井 穂花
祥太の産みの母。
祥太を産んで1年以内に発病し、祥太が2歳になる前に亡くなった。
桜井 綾
桜井里奈の産みの母で、俊との再婚により祥太の母となった。
10年前に、飛行機事故により夫の俊と共に亡くなった。
倉橋 量
桜井綾と倉橋香の父で、KAONソフトの社長だった。
桜井俊と綾が飛行機事故により亡くなった後、孫の祥太と里奈を引き取って育てた。
4年前に大腸がんで亡くなった。
倉橋 香
桜井綾の姉で倉橋量の娘。
父の量からは、何故か嫌われていた。
量の死去後、何かと桜井祥太と里奈を援助し、里奈が大学へ進学するタイミングで養子とした。
<平山家の人々・レゾナンスの関係者>
平山 美夢
先駆科学大学情報工学部の1年生で、桜井祥太の高校の陸上部の後輩。祥太を追って先駆科学大学情報工学部に入学した。
家族や友人から、ムーコと呼ばれる。
現実世界では、桜井祥太と共に襲撃され、意識が戻らなくなった。その後、父の龍生が意識を戻そうと奔走したが失敗し、コールドスリープさせられて将来の医学の発展に意識の回復を託されることになった。
平山 現咲
美夢の姉で、現実主義者。家族からリアコと呼ばれる。
平山 龍生
美夢と現咲の父。
元Integral Computing Powers (ICP)の社外取締役で、現在レゾナンスの社長。
ICPの社長だった高坂和巳から、会社を乗っ取った裏切り者として恨まれている。
八神 圭伍
平山現咲を高坂和巳の襲撃から救い、以降、彼氏となっている。
レゾナンスから、頭脳工房創界との共同プロジェクト(ゲームのヒューマンインタフェース開発)のために送り込まれてきた。根暗だが、若いのに関連知識が豊富。20代後半。過去に高坂和巳の会社ICPに在籍していた。
高坂 和巳
元ICPの社長。
現実世界で、かつて平山現咲を襲ったが八神圭吾に偶然妨害され、その後桜井祥太と平山美夢を襲撃した。
住所不定で無職、金融機関のブラックリストに載っている。
桜井祥太と平山美夢を襲撃した容疑で逮捕されたが、発狂していた。
<時宮研究室/思宮研究室>
時宮 良路
先駆科学大学の準教授で、ヒトの記憶を量子コンピュータに読み込む方法を発明して、「睡眠学習装置(仮)」を開発した。
「AM世界」では現実世界の劣化版として存在し、学生たちに研究室を自由に使わせている。
現実世界では、桜井里奈に頼まれて「睡眠学習装置(仮)」を改造し、意識の戻らない桜井祥太の身体に量子情報をコピーした。
かつてKAONソフトでアルバイトしていた時に、桜井俊に師事し、今でも師匠と呼んでいる。その後、桜井俊から「フォンノイマンのレクイエム」を託され、今もそれを発展させるべく学生たちを指導している。
高木 希
時宮研究室の大学院博士前記課程2年生で、「睡眠学習装置(仮)」「睡眠学習装置(改)」のオペレーション担当。木田仁と交際中。
現実世界では、時宮准教授による「睡眠学習装置(仮)」の製作やオペレーション、「睡眠学習装置(改)」への改造に協力した。
思宮教授と共に、「睡眠学習装置(改)」を用いた桜井祥太の記憶障害の治療を担当した。
木田 仁
時宮研究室の学部4年生。
桜井祥太の親友で高木希と交際中。
現実世界では、時宮准教授を中心とした「睡眠学習装置(改)」の改造や、思宮教授を中心とした桜井祥太の記憶障害の治療に協力した。
新庄 由紀
時宮研究室の学部4年生。
ゲーム裏情報が大好きで、存在自体がゲームのデータベース。
川辺 亘
時宮研究室の学部4年生。
小鳥 遊由宇
時宮研究室の学部4年生。
豊島結衣
時宮研究室の学部4年生。
クラシックのピアノ曲が好きで、いろいろと説明してくれる。
高木さんを崇めている。
思宮 宏
湊医科大学認知機能科の教授。
「睡眠学習装置(改)」を用いたヒトの意識や記憶障害について、時宮准教授と共同研究をしている。
その研究的な医療活動の一環で、桜井祥太の記憶障害を治療した。
<頭脳工房創界の人々他>
玉置 由宇
倉橋里奈のクラスメートで、西玉美術大学芸術学部デザイン学科の1年生。
頭脳工房創界で働いていることになっているが、倉橋里奈とアルバイト先を交換して、実際にはレゾナンスで働いている。
桜井祥太に興味を持ち、デートした。
玉置由佳
玉置由宇の妹で、高校2年生。
姉の由宇と桜井祥太のデートを画策して、デートの時にも着いて来た。
加賀 直
頭脳工房創界で桜井祥太が所属するプロジェクトのリーダーで古参社員。
元KAONソフトの社員でもある。
三笠 俊徳
頭脳工房創界で加賀のプロジェクトのプログラミングチーフ。冷静沈着でキレ者。30代後半。
吉川 渚
美術系の大学を卒業して3年目の頭脳工房創界社員で、デザインチームに所属する。
<ハードウェア・ソフトウェア>
睡眠学習装置(改)(すいみんがくしゅうそうち)
時宮准教授が開発した。被験者の記憶や意識をコピーして量子コンピュータ内に人工意識体を創るための実験装置である「睡眠学習装置(仮)」を改良して、量子コンピュータ上の人工意識体の情報を人体に書き込む機能等を組み込んだ。
量子コンピュータに保存された量子情報を、意識が戻らない桜井祥太の身体に書き込むと共に、彼の意識障害の治療に用いられた。




