4.35. グロット・ド・ラスコー
グロット・ド・ラスコーの入り口で、店員に「木田」と待ち合わせていることを告げる。すると、彼は既に奥のスペースで待っていると告げられ、案内された。
店内は、薄暗い洞窟のようだ。そう思って壁面を見ると、うっすら何やら画が描かれているようだ。だけど、薄暗い中を店員からはぐれないようについて行くのがやっとで、壁面を良く見る余裕は無かった。
洞窟はあちこちで分岐していて、分岐した先から明かりが漏れてくる。店員はその中の一つに入った。あとをついて行くと、そこに木田がいた。
「よう。」
と言う木田の声に、右手を上げて応える。
木田は既にビールを片手に、串焼きを金網の上で炙っていた。
「桜井、お前もビールで良いよな? それと、とりあえず串焼きの盛り合わせで良いか?」
と聞いて来たのでうなずくと、早速、端末から注文してくれたようだ。
この「部屋」も洞窟のようにデザインされていて、壁面に何かが描かれている。部屋の中は通路よりも明るく、目が慣れて来たので、今度はそれが何か判った。木田の後ろ描かれたそれは、牛の姿だった。
最初は冬の星座「牡牛座」だと思ったが、良くみると矢が刺さって血が噴き出ている。…違う。そうだ…昔、教科書で見たことがあった、アレだ…ラスコー洞窟の壁画。グロット・ド・ラスコーって、ラスコー洞窟のことだったのか?
木田は時間に間に合うように来たわけでは無かったようだ…つまり、既に出来上がっていた。そのせいか、何の前振りも無く、いきなり本題に入ってきた。
だが、それはオレの予想とは違っていた。
「お前は知ってるんだろう?」
「何を?」
「俺たち…時宮研究室がどこへ向かっているのか? だ。」
時宮研究室がどこへ向かっているかだって? それは…。
オレが自分自身の考えを辿るのと同じタイミングで、木田は見透かしたようにその言葉を吐いた。
「『フォンノイマンのレクイエム』。っていうキーワードだけなら聞こえた…。」
何故それを木田が知っている? 高木さんから聞いたのか? 内心の驚きを見せないように木田から視線を外して、串焼きを金網の上に並べながら言った。
「『聞こえた』って?」
すると木田は、バツが悪そうに言った。
「准教授室の扉、薄いからなあ。時宮先生が『秘密』って言うのも聞こえたぞ。だが、『秘密』こそ、教えてもらえないのは気持ちが悪いもんだ。」
ビールを片手に、串焼きをほうばりながら、オレは疑問をぶつけた。
「それじゃあ、お前は『フォンノイマンのレクイエム』について、高木さんに尋ねたのか?」
それを聞くと、赤ら顔の木田はしょげた。
「聞けなかった。希…高木さんに湊医科大学への進学を勧められて、それを断ってから、どうもギクシャクしてしまって…。」
少しアルコールが入ってきたオレは、そんな木田を見て、すっかり『秘密』を話してしまった。
フォンノイマンが生涯の仕事として、人間の思考に近い人工知能の開発を目指していたのではないかと、時宮准教授の「師匠」が語ったと言うこと。その師匠がその内容を「フォンノイマンのレクイエム」と命名し、機密事項だから外部で口外しないように告げたこと。そして、時宮研究室では「フォンノイマンのレクイエム」の内容を研究しているが、その名称は使わず「プロジェクト」と呼ぶことにしたこと。
酔ってはいたが、オレは木田の口が堅いことを忘れていなかった。だから、オレが木田に言ったことを、他の人に話すとは思えなかったのだ。
そして、オレは続けた。
「でも、今の木田にはそんなことよりも、もっと重要な問題があるんじゃないか? その…高木さんとギクシャクした経緯、高木さんの誘いに乗らなかった理由を、もう少し詳しく話してみないか?」
木田は少しうつむいて、乾いた声で笑った。
「はは。お前はだいたい見当がついているんだろう?」
「まあね。でもさ、それを自分から話せば、お前の気も晴れるだろう?」
「そうだな。」
それで木田が始めた話は、やはりオレが想像した通りだった。つまり、木田が家から通うには、湊医科大学は遠すぎたのだ。
だが、木田の話を聞いている内に思った。高木さんも、木田についてオレが知っていること位は知っているハズだ。すると、高木さんは木田がどうやって通学すると考えたのだろう? もしかすると、いずれ木田と同棲することも想定して、提案したのではないだろうか?
それを木田に告げると、
「そうか。…そうかもしれない。」
と言ったきり、黙り込んでしまった…。
そんな木田を直視していると気まずいので、串焼きに目をやると、薄暗い「洞窟」の中で串焼きを炙る炭火が揺らめいた。すると、光の揺らめきに乗せられて壁画の動物たちや人々が動きだした。
そのうちに、彼らの叫び声やざわめきも聞こえてきたような気がした。多分それは、ここで飲んでいる連中の声やざわめきなのだろう。…オレも酔ってきたのか?
木田は、そんなオレを現実に引き戻した。
「お前も何かあったんじゃないか?」
「まあね。」
木田が何故そう思ったかなんて、野暮なことは尋ねない。コイツなら、気付いてくれると思っていたさ。それで、オレも話しだした。昔、里奈に刺されたことがあるらしいのに記憶に無いこと。それに、祖父と父の会社だったKAONソフトが、頭脳工房創界に乗っ取られたらしいことについて…。
オレの話を黙って聞いていた木田は、やがて口を開いた。
「お前って、意識が『睡眠学習装置(仮)』に取り込まれた時に、妹さんについての記憶を失ったんだったよな?」
「そうらしいが?」
「あの事件の前に、お前の家に泊めてもらったことがある。そのことは覚えているか?」
木田の意図がよく解らないが、うなずいて応えた。
「もちろん。」
「あの時のお前は、『睡眠学習装置(改)』から意識を戻す前だった。」
「そうだ。」
よく分からないが、木田は満足気にうなづくと、一言一言噛み締めるように自説を展開した。
「あの時のお前は、妹さんに刺されたことを覚えていたはずだ。それなのに、お前たちはとても仲が良かった。…そうだな、平山ちゃんが恋人なら、妹さんは奥さんみたいな…。まあ、妹さんに刺された事情を知っていたお前は、そのことを心から許していたんだろう?」
木田の話を聞いて、夢で見た光景が蘇った。小学生の里奈が、自らカッターで手首を切って血を流している。その里奈からカッターを取り上げようとして、腹を刺されたオレ。…あれが事実だったのか?
…そう、里奈は
「お兄ちゃんを刺した。」
と言ってたけど、あれは事故だったのか? それなら、オレは里奈の心を傷つけてしまったのかもしれない…。
しかし、木田はこうも言った。
「妹さんは、今のお前が記憶の一部を失っていることを知っているんだろう? それなら、お前が誤解していると、多分気付いていただろうさ。」
「そうかな?」
少しは気が楽になった。しかし、まだもう一つ…。




