4.31. アクアリウム
息を呑む展開に、自分の置かれた状況をすっかり忘れていた。ようやく冷静になると、隣の玉置由宇が必死の形相でオレの袖にしがみついていることに気付いた。
そう言えば、カートが崖から落ちた時、彼女は絶叫していた。その時から、彼女の感情は恐怖で振り切れたままなのだろう。
オレは彼女に恋愛感情を抱いている訳ではないし、彼女だって妹に強引に乗せられているだけだと思う。だけど、この状況。せっかくだから、ちゃんとエスコートして、彼女にも楽しんで欲しい。
極度の緊張や恐怖を感じると、手足の末端への血流が少なくなって冷たくなる。それがさらに身体を緊張させて、血の巡りが悪くなる。悪循環だ。
なので、オレの袖を掴んでいた彼女の手をゆっくり外して、手を握る。すると、少しずつ暖かくなって、表情も緩んできた。そこで
「大丈夫?」
と声をかけると、彼女は少しボーッとした表情で言った。
「おかげさまで、落ち着きました。」
その頃には、カートの外は南国の海に変わっていた。珊瑚礁や色鮮やかな魚たちがゆったりと泳いでいる。やがてカートは珊瑚の隙間に潜り込んで、ピンクの地に白い縞の入った熱帯魚と並んで進む。
ふと、隣を見ると、玉置由宇がうっとりした表情で言った。
「これ、カクレクマノミですよ。可愛いですよね。今日は是非見たいと思って来たんです。」
ようやく、穏やかでフェミニンな彼女に戻った。いや、戻ったのではない。カートに乗る前の、丁寧過ぎて少し冷たい感じの彼女とも違う。これが本当の、彼女の素なのだろうか?
それにしても…気のせいか、カクレクマノミが大きく見えるような気がする。オレに話しかけながら振り向いた玉置由宇の顔と、ほとんど同じくらいの大きさだ。
そう思っていると、突然、目の前に子供の顔がカートのフロントガラス全面に広がった。…これはバーチャルなのだろうか?
やがて、カートは水槽から飛び出して、今度はビーチを歩くペンギンと並走した。ペンギンは、カートよりもずっと小さく見える。今度はリアル…のような気がした。ペンギンのビーチにトンネルがあり、カートがそのトンネルを抜けると、カートが減速して止まった。
カートが止まると、ドアが開いた。そこに、先行していた玉置由佳と里奈が待っていた。がが、彼女たちの表情は芝海遊園の入口で見た時以上に対照的だった。玉置由佳はニンマリ、里奈は爆発直前に見える。
…と思っていたら、
「お兄ちゃん、いつまでいちゃついているの。人前で!」
…やっぱり爆発した。
オレは、里奈が言い過ぎだと思ったので、
「いちゃついてなんか…。」
と言いかけた。が、カートから降りようとして、玉置由宇としっかり手を繋いでいたことに気付いた。
慌てて手を離そうとして玉置由宇に目をやると、顔が真っ赤だった。芝海遊園の入口では、彼女は緊張して顔に赤みが差しているように見えた。でも、今の彼女の顔が赤いのは、先程とは別の理由のような気がする。
そんな彼女を見ながら、オレは
「吊り橋効果、吊り橋効果、吊り橋効果、…。」
と心の中でお経のように唱えた。そうしないと、まだほとんどお互いのことを知らないのに、彼女がオレに恋愛感情があると錯覚してしまいそうだ。
その後は、お目付け役2人を意識してしまって、女の子3人のグループの後方からオレがついて行くパターンになった。…これはまあ、芝海遊園にくる前から想像していた通りの予定調和だけど…。
里奈はペンギンビーチ、玉置由佳はイルカショーに釘付けだった。5分…10分…20分…。時間が経っても、どちらも動く気配がなかったが、40分もすると他のメンバーに引き摺られていった。
一方、オレはカートがどこを通ったのか、ずっと気になっていた。すると、ペンギンビーチにいる間に、何か奇妙な音を聞いた。…モーター音だろうか?
もしかするとカート?…と思って探したが見つからない。だが、半ば諦めて通路からぼんやりペンギンビーチを眺めていたら、岩場のように見えている情景のほんの一部が透けて、カートが通るのが見えた。
どうやら、「岩場」に見えている所はマジックミラーになっていて、その一部のコーティングが剥がれてカートが見えてしまったようだ。…とすると、カートから見えていたペンギンたちは、やはりリアルだったのだろう。
やがて、芝海遊園の目玉、巨大水槽の前に来た。
デジャブだろうか? 何故か、ここに来たことがあるような気がした。
やや暗い照明の中、巨大な水槽は通路を3次元的に取り囲んでいて、マグロやイワシなどの群れ、ウミガメ、タイやヒラメ、それにサメも泳いでいる。理性では落ち着く場所にのように思えるが、ここにいると何故か心がざわめいて来る。
そこでも、カートの仕掛けを、オレは見つけた。イワシよりもさらに小さい物体が、水槽内を時々移動していたのだ。そう、これは水中ドローン。これで撮った映像を、リアルタイムでカートの窓に映していたのだろう。
ふと、女の子たちの会話が聞こえなくなったことに気付いた。あの騒がしい3人娘は何処へ行ったのか? 辺りを見回すと、里奈だけがそこにいた。
「玉置姉妹はどうしたの?」
「揃って、お手洗いに行ったよ。」
「そっか。」
今日はここまで、玉置姉妹に振り回されっぱなしだった。仄暗い中よく見えないが、里奈が笑顔を向けてくれたような気がして、少し落ち着いた。
玉置姉妹が中座して落ち着いたのは里奈も同じだったのか、彼女たちがいつ帰って来るのかわからないのに、玉置由宇の印象を尋ねてきた。
「それで、お兄ちゃんは由宇ちゃんのこと、どう思った?」
「もっとボーイッシュな感じの娘だと思ってたけど、意外に可愛いところもあるかな?って。」
すると、しばらく里奈は無言だった。やがて、
「それで?」
と言った里奈の声が聞こえた。そのトーンは、さっきまでとは違っていた。…何か突き放されたような気がした。
だけど、里奈の表情は、暗くてよくわからない。そして、質問の意図も…。
「それで?って?」
「付き合うの?」
それを聞きたかったのか…。 だけどこの件では、オレは徹頭徹尾、巻き込まれているだけ。オレの意思はほとんど関係が無い。
「ん、えーっ、いや。ほら、オレが良い娘だと思っても、玉置さんの方がね…。」
でも、里奈はその答えに納得しない。
「はあっ? お兄ちゃん、やっぱり鼻の下伸びてるし…。」
「いや、そんなことは無いけど…。それとも、里奈はオレに玉置由宇さんと仲良くして欲しいの?」
「そんなこと言ってないでしょう!」
怒られてしまった。 うーん、良く分からない…。今日のオレと里奈の想いは、どこかすれ違っているような気がした。




