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フォンノイマンのレクイエム  作者: 加茂晶
第4章 帰還した現実世界で
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4.25. 時宮准教授の話

 時宮准教授の部屋に入ると、ソファーに座るように言われて、向かい側に腰掛けた。だけど、時宮准教授は話し始めない。誰かを待っているのか、目線が入り口のドアから動かない。

 なんとなく居心地が悪いので、いい加減オレから話を切り出そうと思った時、ドアをノックする音がした。そして、

「お待たせしました。」

高木さんの声だ。トレーを手にした彼女が部屋に入ってくると、コーヒーの香りがした。

 やがて、高木さんは時宮准教授の隣に腰掛けた。

 こうして時宮准教授の部屋でコーヒーをいただいていると、2年前に初めてこの部屋に来た時のことを思い出す。あの時は確か、生物学の赤点回避を頼み込みに来たオレが、「睡眠学習装置(仮)」の被験者になることになった。

 あの時の高木さんはコミュ障で、オレともまともに話せなかった…いやオレもそうだった。その高木さんは、今や時宮研を仕切っている。オレだって、当時のオレが想像できない程度には、成長したと思う。


 全てはあの日、あの時に始まったのだ。


 時宮准教授はコーヒーを一口啜ると、口を開いた。

「君たちは、モーツァルトのレクイエムを知っているかな?」

オレはもちろん知っている。

 高木さんも頷いて言った。

「確か、『睡眠学習装置(仮)』の刺激反応調査のうち聴覚刺激で、時宮先生が選んだ曲でしたね。」

 すると、時宮准教授は目を閉じて言った。

「その通り。私がこの曲を知ったのは、今は亡き『師匠』から教わったからなんだ。」

 オレと高木さんはそれぞれ反応した。

「師匠? 」

「指導教官じゃなくてですか?」

 時宮准教授はオレたちの反応を楽しむように応えた。

「そう、私が高校生の頃に働いていたKAONソフトの先輩社員だ。師匠は超優秀で、KAONソフトに来るまでは、まさにこの部屋で研究していた。その人を、KAONソフトの社長が三顧の礼で引き抜いたんだ。そして、その時、高校生でアルバイトしていた僕もその場にいたんだよ。」

 それって、もしかすると…

「時宮先生の師匠って、もしかするとオレの父ですか?」

「そうらしい。師匠の名前は桜井俊。私が初めて会った時、師匠はこの学校の準教授だったんだ。」

その風景は、正にオレが見た夢の通りだったのだろうか?

 しかし、先駆科学大学の准教授が規模の小さい民間のソフトウェア会社に完全に移籍することは稀だ。籍を置くとしても兼務という方法もあったはずだろう。

 そこで時宮准教授に尋ねた。

「それでは何故、祖父は父をKAONソフトに引き抜こうとしたんですか?」

 すると彼は答えた。

「君のお祖父さん、倉橋社長には、野望があったんだ。」

「どんな野望ですか?」

「量子コンピュータが誕生して、まだ間もない時代。倉橋社長は、KAONソフトを、量子コンピュータ用のソフトウェア開発の最先端企業にしたかったんだ。」

 確かに「野望」だ。多くの大手企業やベンチャー企業も、いや大学の研究室や国家的な研究機関だって、今も量子コンピュータ用のソフトウェア開発の最先端を目指している。それは大局的には、高木さんやオレの研究テーマだって、目指しているものは同じだ。

 時宮准教授は話を続けた。

「社長自身、電子回路で動作する通常のコンピュータのソフトウェアについては、凄腕の技術者だったんだ。だけど、量子コンピュータ用のソフトウェアでは、量子ビットやエラー訂正を適切に扱う必要がある。社長を含めたKAONソフトの技術陣には、その技術と経験が無かったんだ。」

 そういえば、祖父からは量子コンピュータ用のソフトウェアについて、ほとんど何も聞いたことが無い。時宮准教授が言うように、祖父は量子コンピュータ用のソフトウェアに自信がなかったのだろう。


 時宮准教授はそこでコーヒーを一口啜ると、オレから目線を外して天を仰いだ。

「それで、当時量子コンピュータのエラー訂正で最先端の研究を進めていた桜井先生を引き抜いたみたいなんだけど…運が悪かった。ちょうどその頃から、取引銀行がKAONソフトの経営に口を挟むようになって、量子コンピュータのソフトウェア研究に資金を割けなくなったらしい…。」

 確かに、時宮准教授がKAONソフトから多くの社員が移籍したと言っていた()()()()()()は、今でも量子コンピュータ用のソフトウェア開発があまり得意ではない。それは、加賀さんや三笠さんのような、トップクラスのエンジニアであってもだ。

 そこで、オレは尋ねた。

「それでは、KAONソフトでは、父は何もできなかったんですか?」

 すると、時宮准教授は再びオレに目線を合わせて言った。

「当時、最小限の構成で最も安価だった、低量子ビットの量子アニーリング/イジングタイプの量子コンピュータ。それと高校生アルバイトの助手1人、つまり私。これが、師匠が会社から提供された全てだ。確かに、会社の売上には貢献しなかったかもしれないけど、目指したのは量子コンピュータ用のソフトウェア開発の最先端だ。…そして、ある意味ではそこに到達した。」

 ここまでずっと黙って聞いていた高木さんが、口を開いた。

「それって、もしかすると『睡眠学習装置(仮)』の基礎理論である、『ヒトの思考と量子アニーリングによる計算結果の類似性についての考察』のことですか?部外秘の論文とのことですが…。」

 時宮准教授は頷いた。

「その通り。師匠は与えられた量子コンピュータで単純な問題を解かせた時の訂正前のエラー発生確率と、同じ問題を人間が自身の頭脳で解いた時の誤回答の確率が、ほぼ同じ確率密度関数で表せることを示したんだ。もちろん、通常の電子計算機では、そんなエラーは発生しない。」

 高木さんは、時宮准教授に教授に続けて質問した。

「先生の師匠の桜井さんは、そんな悪い環境の中、どうしてそんな研究ができたんですか?」

 すると、時宮准教授はバツの悪そうな暗い顔で答えた。

「そうだよな。当時の物好きなら趣味で持ってそうなレベルの量子コンピュータに、出来の悪い助手…。」

 そんな彼を見て、高木さんが慌てて手を振った。

「いやいや、そんなつもりでは…。」

 だが、時宮准教授は首を振って言った。

「実際、そうだったんだから否定しないさ。でも、師匠はそんな状況をモノともしないほど優秀だったんだ。そして、その不出来な助手君にも、一つだけアドバンテージがあった。」

 オレはつい、話に吊り込まれて、尋ねてしまった。

「それは何ですか?」

 すると、彼はニヤッと笑って、こう答えた。

「君たちを上回るほどの若さだ。若くてまだ白紙だった私の脳に、師匠はいろんなことを叩き込んだ。研究の楽しさや誇らしさ、当時の最新の知見、先人たちの偉大な業績、プロジェクト、そして生き方。当時バカだった私には理解不能なことも多かったけど、それらを理解して定着する時間なら、十分にあったのさ。」


 とても良い話に聞こえたけど、さらっと言った「プロジェクト」って一体なんだろう? 高木さんが時宮准教授に別なことを質問しているようだったが、オレはそこに引っかかって、話について行けなくなった。


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