4.13. ムーコの入院
そこで、その後のことはリア子が1人で話した。
八神圭伍に送ってもらった彼女が家の呼び鈴を押そうとすると、家の中から父と母が慌てて出てきた。
「今すぐ出るぞ。お前も来い、リア子。」
「どうしたの、お父さん?」
無言のままガレージへ走り去った父に代わり、母が答えた。
「病院から電話が来たの。ムーコが襲われて、その後意識が戻らないって…。」
母はもう泣きそうだった。
クルマに乗り込んだ父も母も無言だ。カーステレオから流れる音声が虚に聞こえる。そんな中、リア子は何が起きたのかを考えた。やはりムーコは何かの事件に巻き込まれたのか?…あのドローン、高坂和巳が飛ばしていたのだろうか?
リア子は車窓から流れていく景色を、ぼんやり眺めていた。だが、脳裏にかつてリア子を襲った浮浪者の姿が浮かぶと、やがてそれはドローンの下へ走り去ったムーコの姿に変わっていった。
クルマから降りたリア子が目にしたのは、「湊医科大学大学病院」の9文字だった。診察や入院患者の面接時間はとっくに過ぎている。救急患者用の通路から入って、父がナースセンターで名乗ると、看護師に少し待つように言われた。
そこに、中学生か高校生くらいの少女が、息急き切って走り込んできた。そして、その娘は肩で息をしたままナースセンターで叫んだ。
「お兄ちゃんは…桜井祥太はどこですか?」
だが、少女もまた看護師に待つように言われたようだった。
彼女は、あの桜井君の妹なのだろうか?ご両親はどうしたのだろうか?リア子のすぐ前のベンチに腰掛けた彼女に、つい声をかけてしまった。
「桜井君の妹さんですか?平山現咲と申します。妹の美夢がお世話になっております。」
すると、少女はリア子に冷たい声で言い放った。
「私は倉橋里奈、苗字は違うけど桜井祥太の妹です。美夢さんに伝えてください。兄を巻き込まないで、って。あの女と一緒にいたから兄はこんな目に…。」
そう言った彼女の瞳から、何か光るものがこぼれ落ちた。冷静を装ってはいるが、激情を必死にこらえているんだろう、きっと。それに、ムーコは彼女とは仲良くなかったのかもしれない。
それに襲ったのが高坂和巳だとすると、彼は桜井君では無くムーコを狙ったのだろう。とすると、彼女の言う通り、桜井君はムーコに巻き込まれてこの病院にいることになる。
父と母は、彼女に冷たい視線を浴びせているが、彼女や桜井君に非は無い。今後のために、彼女と連絡先を交換した。
やがて2人の看護師が来て、父と倉橋里奈を別々に案内した。リア子は桜井里奈に会釈して別れると、小走りで両親の後を追った。
リア子たちは、ICUの前の診察室に案内された。診察室に入る前にふと後ろを振り返ると、さっき別れたはずの倉橋里奈が、ずっと後方を別の看護師に連れられて歩いていた。
診察室には、女性の医師が待っていた。おかっぱ頭で白衣を着た彼女は、メガネをかけて険しい顔をしている。リア子には、彼女が若いのか歳を重ねているのか、全くわからなかった。
彼女はリア子たちの方を振り返ると、言った。
「どうぞ、おかけください。」
3人が女医の前に並べられた椅子に腰掛けると、女医の指が動いて、リア子たちに向けられた大型ディスプレイに脳の図が表示された。どうやら、彼女の「メガネ」はウェアラブルなディスプレイのようだ。指にもなんらかのデバイスが嵌められているのだろう。
女医は3人に話し始めた。
「ご覧の通り、平山美夢さんの脳の機能は全体的に大幅に低下しています。だから、現在は人口呼吸器を気管挿管でつける等、生命維持装置の力を借りて生存しています。ただし、生命点と呼ばれる延髄には回復の兆しもありますので、今後、生命維持装置を外せるようになる可能性も…。」
母、平山佳乃は、医師の説明を最後まで聞いていられず、質問した。
「何で娘はこんなことになったんですか?」
すると、女医は指でジェスチャー操作して、別な画面を表示して言った。
「私には、平山美夢さんに何らかの毒物が打ち込まれて、脳に酸素が届かなくなったことが原因で意識が戻らないということしか言えません。警察で調査が進められているそうですが、現時点では不明なので、対症療法しか手がありません…。」
父もそこに割って入った。
「それで、娘は今後どうなるんだ?」
女医は父の質問にも冷静に対応した。指で操作して、元の脳の図を表示すると、
「海馬と大脳新皮質の機能が低下しているので、記憶が回復しない可能性が高いです。ここ1か月が勝負です。」
と冷静に答えた。
まだ両親は何かを言いたそうだったが、
「先ずは、美夢さんに会ってあげてください。」
と女医に言われて席を立った。
再び看護師に案内されて、リア子たちはICUに入った。そこには6台のベッドが並べられていて、その一つに呼吸器をつけたムーコが静かに眠っていた。ムーコには何の表情もなく、眉毛ひとつ動かない。
その姿を見た母は、ムーコの手を握りしめて、掛け毛布の上にうつ伏せた。表情は見えないが、肩が震えていた。リア子は…それが現実とは思えず、棒立ちになった。その時のリア子は自分が冷静であると思っていたが、現実逃避していただけだった。
父は…唸るように何かを呟いていた。いや、父だけはある意味冷静だったのかもしれない。父はムーコがこうなる可能性を想定していて、ムーコの転院を考えていたことを、リア子は後で知ることになった。
ムーコのベッドの隣に、桜井君がいた。まだ、里奈ちゃんは医師から説明を受けているのだろうか?状況は分からないが、彼も呼吸器をつけて静かに眠っている。彼もムーコと同じような状況にあるのだろうと、この時思った。
ICUへの入室時間には制限があるため、リア子たちはすぐに退室することになった。その後、3人が帰宅しようとして救急患者用の通路を出ようとした時、2人の男性が彼らの前に現れた。
そして、父の前に立つと、その内の1人が警察手帳を示しながら言った。
「平山龍生さんですね。容疑者について教えていただきたいことがあるので、署までご同行いただけませんか?」
すると、父は驚いたような表情で応えた。
「もう容疑者は分かっているのか?」
警官たちは頷いて、もう1人が言った。
「そうです。だから、一刻も早く逮捕するためにも、ご協力いただきたいのです。」
父は、私にクルマのキーを渡しながら即答した。
「わかった。」
その後、私が父のクルマを運転して帰宅したはずだが、どうやって帰ったのか良く覚えていない。




