1.1. うららかな休日の午後
階段を降りて最後の分厚い扉を開けると、闇の中で無数の光点が瞬いていた。オレはこの量子コンピュータ室が気に入っている。高速で巨大な量子ビットを持つ量子コンピュータは、今でも常温では動作しないので、この部屋は普段マイナス30℃以下の低温に保たれている。今日のメンテナンスに備えて、昨日のうちに量子コンピュータをシャットダウンして空調を換気モードに切り替えていた。それでも、入室前に確認した室温はおよそ0℃。防寒服を着込まないと作業できない。無数の光点は、照明を点けると一瞬で消えてしまった。
二時間ほどの作業の後、研究室へ戻った時には体が芯まで冷え切っていた。研究室は閑散としており、女性が一人、パソコンで何やら作業をしていた。修士二年の高木希さんだ。高木さんはこのところ就職活動や学会発表のため不在がちだったが、今日はゴールデンウィークの中日だから研究室に来れたのかもしれない。他の人たちは、量子コンピュータを停止させているから来ないのだろう。うららかな休日の午後、何となくのどかな雰囲気が漂っている。
防寒服を脱いでロッカーに片付けていると、高木さんが声をかけてきた。
「桜井君、お疲れ様。これからコーヒー淹れるけど飲む?」
「ありがとうございます。」
オレは学部四年生なので、高木さんは二学年上の先輩だ。高木さんは歳上だけど、可愛い女性だと思う。以前は、服装や化粧には無頓着で、いつもメガネをかけていた。オレは基本的にメガネっ娘は好きだが、高木さんには似合わないと断言出来た。しかし、最近は就活の為か、服装や化粧はにわかに洗練されて、メガネはコンタクトになった。コーヒーカップを持ってきてくれた高木さんは、小柄なのに実はダイナマイトボディの持ち主だ。コーヒーカップを受け取りながら、つい胸元に視線が行ってしまった。
温かいコーヒーを口にしながら、以前にもこんな事があった様な気がしたが思い出せない。諦めて、メンテナンス報告書を作成するためPCの電源を入れようとして、ふとPCの隣に飾った写真に目が止まった。大きく広がった桜の樹と大学生のグループが写っていて、その中の一人の女性に釘付けになった。軽くウェーブしたやや長い髪、丸みを帯びた輪郭の中に、少し大きめの目とやや小さい鼻。平山美夢だ。
当時大学二年生だったオレは、新入生のオリエンテーションをサポートするアルバイトに参加したが、そこで新入生の彼女と出会った。五嶺高校の後輩だと自己紹介され、高校生の頃からオレの事を知っていると言っていた。しかし、出会って一年も経たない内に、彼女は永遠に失われてしまった。オレの世界を変えた、あの事件で。もはや、起動したPCのディスプレイを見る気になれず、ぼんやり窓の景色を見ながらあの日々を思い返した。




