(おまけ)雪原に降るものは
一年の半分を雪と氷に覆われる極北の国、トゥアズ。その最大の魔力溜まりである平原で、カイルフェルドは数日前から見回りをしていた。
魔力の動きに変化がある――そのこと自体は確かなのだが、奇妙なのはその動きがどうも通常の魔物発生の時とは異なることだった。
集まり凝るような魔力の流れではなく、渦巻き揺れるようなそれは、監視員の彼にすら軽い酩酊感をもたらすほどのものだった。
「……お前たち、何か知っているのかい?」
通常であれば、魔力の集まる地点で魔物が生ずるその時を待ち構えていればいいのだが、どうも勝手が違う。小さな雪精もやたらと興奮して風に乗って飛び回っている。
ダイヤモンドダストのように輝く精霊達に問うても、楽し気な笑い声が返るだけ。何度か尋ねて無駄だと分かっているが、つい聞きたくなるのは手掛かりが何もつかめないからだ。
こんな時、師匠ならどうするだろう……三年前に不意に姿を消した唯一の師は、大陸一の魔術師だった。彼ならばこの原因も、この先にあるものも見通せるのではないか、とカイルフェルドは惑う。
彼不在の今、その後を継ぐ者はほかにはいないのに、しっかりとした自信が持てない自分が歯痒い。いくつ功績を残しても、各国からの招請を受けても、いまだに弟子の心持が抜けないままだった。
何か分かるかと探しに来たが、歩き回ったところでこれ以上の成果は見込めそうにない。止まない風も下がり続ける気温も、獣の姿のカイルフェルドには障害にならない。しかし、陽が落ちる前から一層強くなった魔力の揺れは少々キツい。
周囲の魔力に抗うように、足を止めて呼吸を整える。
一旦戻って対策を立て直すか――そう思った時だった。
キン、と鈴のような高音があちこちで鳴り響いた。雪精たちの歌だ。
雪精が歌うことはままある。だが、こんなにも多く一度にその歌が聞こえることはまず無い。雪原を吹き渡る風は雪精の歌を運び、更に魔力の波は高くうねる。
もうずっと、それこそ子どもの頃から、師匠に連れられて監視員として各地の魔力溜まりを見回ってきた。そんな彼であっても、こんなことは初めてだった。
風の音に紛れて聞こえる歌、その声に言葉はないが、確かに歓喜を伝えている。
強まる風の中、声のより多いほうに目と魔力を凝らすと、はるか向こうに雪精がひときわ集まっているところがあった。
「……あそこか」
獣としてのその屈強な体躯を存分に活かし、彼は歩を進めた。
雪精たちはただ、喜びを歌い続ける。
夜空の下で集まる雪精は光のドームのように、雪の上に形作っていた。その光景はまるで星が雪の上に降りたように見えて、カイルフェルドは一瞬息を呑む。
その光の繭の中に何かの影が見えた。
「ひ、と? 人間っ?」
まさか。この魔力溜まりに入れる者は多くない。自分が把握していない誰がここに来られるというのか。雪原の端ならともかく、ほぼ中央のこの場所などたどり着くことも困難で――そう忙しく思考を回しながら走り寄ると雪精たちは彼に場所を譲り、舞い上がった上空から月のように辺りを照らす。
そばに膝をつき薄く積もった雪をそっと払い除けると、見えたのは師匠と同じ黒色の髪。急ぎ雪の中から半分埋まった身体に腕を差し込み起こした、それは初めて見る女性だった。
心臓はかろうじて動いているが、呼吸は浅く、体温も低い。見慣れぬ意匠の服装はどう見ても屋内用で、外を歩くようなものではない。何があったのかは理解不能だが、目の前に魔力も尽きかけている要救護人がいるのは事実だ。
カイルフェルドはその場で、緊急時に許されている治癒の魔法をかけた。鋭い爪が当たらないようにして触れた手を通して魔力を流し込む――少しだけ体温が戻ったが、すぐにまた風に奪われていってしまう。
ここでは駄目だ。
監視員用の住まいに連れていこうと氷のような体を抱きかかえた時、腕の中の女性が意識を戻し、小さく身じろぎをした。
「今、助けるから。もう少しだけ頑張れ」
カイルフェルドの声に彼女は薄く目を開ける。なかなか視点の合わないその瞳が彼の姿を捉えると、驚いたように潤む。
片方の手がぎこちなく上がり、唇が震えた。
「……」
聞こえない声に耳を近づけると、凍って色の変わり始めた細い指が頬に触れ、嬉しそうに微笑む顔が雪精の光に浮かぶ。
あまりに無防備なその表情に、カイルフェルドの中で何かが響いた。
「カ、イ……」
「――!!」
名を呼ばれたのだと気付くのに数舜かかった。柔らかく、甘い声。寒さでこわばる舌で発音は曖昧だったが、確かに自分の名前が呼ばれたことに、胸がうるさい程に高鳴った。
はたりと落ちた手に我に返ると、カイルフェルドは気を失った彼女を抱え、揺らさぬようにしながら猛然と移動を始めたのだった。
小屋に着くと急いで暖炉に火を入れる。先ほどの応急処置で一命は繋いだが、危険な状態に変わりはない。
まずは体温の回復と、凍った身体を戻す必要がある。魔力による治癒は万能ではない。欠けたものは治せるが、失くしたものは無理だ。迷っている時間はなかった。
迅速かつ効率的に魔力を流すためには、直接入れるのが最善だが――ほんの少しの罪悪感を押しのけて火の傍に陣取ると、彼女を抱いたままカイルフェルドは人型に戻る。
毛皮のなくなった裸の皮膚に、冷えきった彼女の体は氷を抱いているようだが、そんなことを気にしてはいられない。温度のない黒髪に手を入れて頭を軽く持ち上げながら、自分の体内で治癒魔術を練り上げる。
色を失った唇がもう一度自分の名を呼んでくれるよう祈りながら、カイルフェルドはそれに自分の唇を重ね、口移しに魔力を流し込んだ。
身体の奥に温度が戻り、呼吸が安定するまでどのくらいかかっただろう。何度魔力を注いだかなど、数えてもいなかった。確かに処置のための行為なのに、次第に温かさと柔らかさを取り戻していく肌に気を持っていかれそうになる自分が信じられない。
膨大ともいえる自分の魔力をかなり消費したところでようやく、カイルフェルドは唇を離した。
治癒の魔術はかけた側もそうだが、術を受けた患者の負担も大きい。負傷した肉体が強制的に回復のために作り替えられていくため、心身に無理がかかるのだ。
追加の薪を取りに外に出ていたカイルフェルドが室内に戻ったその目の前で彼女は再び倒れ、次に目を覚ましたのは五日後だった。
彼女――リッカは、この世界の者ではなかった。
本来であれば、意識や体力と共に戻って然るべき魔力量は少ないままで、しかもそれは人のものとは言い切れない種類だった。異世界の者の特徴なのかもしれないが、カイルフェルドにはそれを確かめるすべはない。
しかし、このリッカの魔力では周囲に紛れてしまい、あの雪原で発見することは困難であったろう。雪精が集まっていなかったら気付かなかったに違いない。
たった一人、突然知らない世界で危険な目に遭ったのに、傷つきながらも気丈に前を向くその姿に惹かれた。
そんなリッカが自分を頼ってくれるのは嬉しかった。最初の動揺が落ち着いたらすぐにでも人の姿に戻れることを告げようと思っていたのに、泣き疲れては自分の腕の中でだけようやく眠るようになったリッカに、その機会を失った。
師匠について各国を渡り歩くように過ごした幼少期から、カイルフェルドの周りにいるのは対応に注意が必要な「仕事相手」ばかりで、親しく話せる存在は希少だ。
魔力で何かすることを望むでもなく、自分の魔力量におびえることもせず。純粋に会話を楽しみ、時間を共に過ごす。そんな存在は兄弟と一人の友人を除けばリッカが初めてだった。
魔術抜きで自分自身を見てくれていることは、例えようもない喜びだった――それがたとえ、片側の姿で、今だけだったとしても。
助けようと注いだカイルフェルドの魔力は驚くほどリッカと親和性が高く、彼女に馴染みすぎるほどに馴染んだ。言語中枢にまで影響を与えてしまったことに気付いて驚いたし、律を犯したことに居たたまれなくなった。
だが、そんなカイルフェルドにリッカは笑顔で礼を言う。助かった、ありがとうと。最初から惹かれていた気持ちが急速に膨れ上がっていくのを、止めることなどできるはずもなかった。
獣の姿で居続けることに限界を感じてはいた。しかし、この姿にこそ馴染んだリッカに拒絶されることへの恐れもあって、きっかけを掴めずにいた。
姿を変えて突然戻った師匠はなにか事情を知っているようだったが、頑としてそのことには答えず、しかしカイルフェルドの秘密はあっさりとリッカにばらして、また消えた。
怒って罵って当然なのに、リッカは驚いただけだった。それより話を聞かせてくれ、と許してくれる彼女をどうして放すことができるだろう。
故郷への帰り道か、この世界での進む道か――リッカが探し、選ぶだろうその道を、カイルフェルドは見たいと思う。そしてできれば一緒に歩みたいとも。
彼女には不思議なところが多い。植物に近い魔力の質もそうだし、普通であればこの魔力溜まりで耐えられる魔力量でもない。
異世界の人間だから――それだけで果たして説明付けていいものか。
だが今は。ようやく交わせるようになった言葉で、腕の中に納まるひとに自分の心を告げよう。自分にとって、彼女が大事なひとであることは疑いがないのだから。




