(四)というか、過保護
熊さんは、名前をカイさんという。本名はカイルフェルドほにゃらら……という長い長いものだったけど、ごめんなさい、覚えられませんでした。呼びやすいように呼んでくれ、と言ってくれたので一番短くさせてもらった。昔から早口言葉とか苦手なんだ、申し訳ない。
それにしても姿だけでなくて名前まで私のテディベアと共通項があるとは、いったいなんの偶然だろうか。
今でこそここで普通に暮らしているが、最初は混乱した。急に泣けてきたり妙に前向きになったりと、さすがに情緒不安定だった。
私が揺れるたびに、カイさんはおろおろしながらもそばにいて慰めてくれた。その大きい体にすっぽり埋もれるように抱き着いたまま、泣き疲れて何度寝落ちしただろう。
思い返せば赤面ものの黒歴史。相当迷惑もかけたと思う。でも、彼がいなかったら、落ち着くまでにもっと時間がかかっていただろうし、そもそも落ち着けたかも分からない。全身でもふもふに包まれると、言いようもなく安心して……失礼ながら、動物セラピーってこうなんだろうか。
本当に、見つけてくれたのがカイさんでよかった。
ところで、彼が書くのは当然この世界の文字だが、私には読める。そして、私に自覚はないのだが、カイさんによるとこちらの言葉で喋っているという。
これは、実は魔法による影響だ。
あの日、半分以上雪に埋まった状態で発見された私は、かなり危険な状態だった。意識もはっきりしなくて、呼吸も心拍も落ち込んでいて、まさに凍死寸前。
一刻の猶予もないと判断したカイさんは、私に目いっぱい魔法をかけた。体温を戻し、凍った体を治すような魔法を、それはもう大量に。おかげで私は一命をとりとめたのだけど、ちょっと魔法が強すぎた。その余った魔力が他のところにも作用した結果、言葉がこの世界仕様になったということらしい。
意識レベルの何とかが、とか、言語野の同調がどうとか、いろいろ詳しく説明してくれたけど、完璧文系脳の私にはちんぷんかんぷん。
特に体に負担も後遺症もないということさえ分かれば問題ない。かえってありがたい副作用だ。だって、知らない世界で言葉も通じなかったら、どれだけお先真っ暗か。
ただ、本人の意図しない魔法をかけることは、本来してはいけないことだそう。緊急時の不可抗力とはいえ、勝手に魔法をかける結果になってしまったことに対して、カイさんは随分と気に病んでいた。感謝しているんだけどな。この辺の意識の差というのは、どうにも難しい。
そんなわけで言葉は理解できる。だが、カイさんの話す熊語はさすがに分からない。
この世界で、カイさんと私のように声帯が違う者同士は、声に乗る魔力で会話をするのだという。そうすることで、発声言語が違っても意思の疎通は可能になる。
でも、私の微々たる魔力ではカイさんの言葉は理解できなくて、本当に残念。
朝まで降っていた雪がやんで、外からは明るい陽射しが入っている。ぬくぬくしながら読んでいた本から顔を上げると、家の周りの雪をよけてくれているカイさんと窓越しに目が合った。
カイさんはがっしりした熊の指を器用に曲げて、森の奥を指さす。あ、この仕草はあれだ。椅子からポンと降りると、窓枠に手をかける。キイと音を立てて上がった窓からは、ひやりと冷たい外の空気。
「お散歩に連れていってくれるんですか?」
嬉しい。気分転換したかったんだ。頷いてくれるカイさんに白い息でお礼を言って、私はいそいそと上着を羽織り手提げカゴを用意すると外に出た。
この上着がフードの付いた赤色のケープコートで、ますます童話気分になる。カゴに入れたのはぶどう酒でもパンでもないけれど。
ログハウスの周囲は森。雪の中の針葉樹はスキー場の山部分というか、地理の授業で習ったタイガとかに似ている。木がある分、雪原に比べて風は比較的穏やかだ。
新しく積もった雪はふくらはぎほどまで。そこを何でもないようにさくさくと進むカイさんは裸足だ。いや、熊だから当然服も着ていないから、靴だけ履いていてもおかしいのだけれど。ああ、毛皮という自前のゴージャスな服を着ているか。
「はあ……風は冷たいけれど、やっぱりお日様は気持ちいいですね。あ、大丈夫ですよ、寒くないです」
風が冷たい、のところで庇うように動かされた腕を、ぽふぽふと叩いて戻してもらう。見上げれば、確かめるような視線と目が合った。
「心配性ですねえ。十分あったかいですよ」
だってこんなに暖かくしてもらっている。にっこり笑ってみせると、ようやくほっとしたように目元が緩んだ。
「大丈夫なので、あの切り株のところで降ろしてくださいね」
ぴく、と私を抱える腕が固まるのが全身に伝わる。そう、雪道を歩いているのは私ではない。カイさんだけだ。お姫様よろしく横抱きで運ばれている――魔獣に遭うと危ないから、風邪を引くと大変だから、などと、私が雪の上を歩くのをカイさんは嫌う。それは、用意してくれた靴が室内履きだったせいもあるんだけど。
魔獣は置いておいて、雪国育ちだしそんなにか弱くはないのだが。本当に、心配性。まあ、熊に比べればそれはね、爪も毛皮もないし。
……そもそもの発端は、ここに来てまだ間もない頃。熊さんとの筆談は遅々として進まず、衣食住は確保されているものの、寄る辺ない身の不安に押しつぶされそうだった。
魔物を回収しに来たはずが私を拾ってしまった熊さんも同じくらい戸惑っていただろうに、そのことにも考えがいかないくらい自分のことだけでいっぱいで。
明るいうちはまだいいのだが、夜になり、使わせてもらっている小さい方の寝室に入ると、もう駄目だった。壁も扉も厚いから聞こえない、と思っていた私のぐすぐすいう泣き声は筒抜けだったらしい。
ノックの音がして、返事も待たずに戸が開くと、被っていた毛布ごと熊さんに抱き上げられた。そしてそのまま外へ……慌てて毛布の合間から顔を出すと、背後になった小屋の窓明りに照らされて、熊さんはなんだか申し訳なさそうな、怒られるのを待つ子供みたいな顔をしていた。
あの、ごめんなさい。うるさかったですか。
話しかけても悲しそうに首を振るばかり。どうしよう、なんだろう、やっぱり迷惑だったかな。凍るような風に煽られて逡巡する思考はまとまらず、吐く息は白く、夜の闇はどこまでも暗い。
もう一度毛布を頭から被せられて、ぎゅ、と抱き込まれる。熊さんの胸にぴったりくっついた耳に、喉の奥で低くうなる声が響いた。
それ以上声をかけられなくて、がっしりした腕と厚い毛布に包まれたまま、その暖かさに甘えて目を閉じ黙り込んだ。
どのくらい歩いただろうか。熊さんがようやく立ち止まったので恐る恐る毛布から顔を出すと、そこは木々が開けた場所だった。
肌を刺す冷気と暗闇の中、私の目に映ったのは――
「……オーロラ」
星空にたなびく色彩のカーテン。緑から白へ、そして裾に交じるピンクの光の粒子。それはまるで降り注ぐように、ゆらゆらと形を、色を変えていく。
「すごい、」
ただ、綺麗だと思った。
そのスケールの大きさと美しさに圧倒された。
この光景が、地球のものと同じかどうかなんて分からないし、どうでもよかった。私はそれ以上の言葉もなく、ひたすらにオーロラをこの目に焼き付けた。
出ていたのはそんなに長い時間ではなかったと思う。ただ声もなく見つめて、気付いたら朝だった。
金茶色の腕に抱かれたまま、帰り道の途中でこてんと寝てしまったのだった。
その時以来、カイさんは天候の良い時には私を外に連れ出してくれるようになった。あの晩と同じに抱いて運ぶのも譲れないポイントらしい。すっかり慣れてしまった私も大概だと思う。
屋内に長くはいられないカイさんとたくさん話せるこの時間が、けっこう好きだったりする。まあ、話しているのは私ばっかりなのだけど。
なかなか降ろしてくれないカイさんに、手さげのカゴに掛かった布を半分よけて、中身が見えるように軽く持ち上げた。
「ね? オヤツ持ってきたので、座って一緒に食べましょう」
そう言うとようやく腕は緩んで、雪を払った切り株の上にそっと足が降ろされる。
持ってきたのは干しブドウと木の実をいれたパウンドケーキ。お菓子なんて滅多に作らなかったから、このくらいしかできないけれど、カイさんはやたらと喜んでくれる。
それと、教わった名前は忘れたけれど、りんごによく似た果物。ツヤツヤと赤い果実は『白雪姫』を思い出させた。
「……こういう果物が出てくるお話もありまして」
言うが早いかカイさんはいそいそと腰掛けて、その膝の上に座らされる。打って変わった行動の早さに苦笑いだ。そんな私に、さあどうぞ! とでも言うようにダークブラウンの瞳をきらきらさせるカイさんは本当、「お話」が好きだなぁ。
話し始める前に、パウンドケーキを一つ鋭い牙の間に運んであげると、ぱくっと閉じた口元が満足そうに上がった……可愛いじゃないか。熊のくせに。帰り道は今日もやっぱり『森のくまさん』を歌ってあげよう。
「昔々、あるところに……」
絵本を読み聞かせてくれたおばあちゃんの声を思い出しながら、私はカイさんに童話を語る。お妃さまに憤り、逃がしてくれた家来に微妙な顔をし、七人の小人たちにわくわくして……王子様のキスにすごく真っ赤になった。
気まずそうに目を泳がせるカイさんは、やっぱり照れ屋さんだ。
「『キスで魔法がとける』はよくあるお話の形なんですよ。蛙に変えられた王子様が元の姿に戻ったりとか。ふふ、カイさんもキスしたら姿が変わったりし――っひゃ!?」
わたわたと慌てたカイさんの体がぐらりと傾いたと思ったら、どさりと雪の上に二人一緒に倒れ込む。あー、ごめんなさい。ちょっとしたイタズラ心というか、そんなに動揺するとは思わなかった。
からかいが過ぎたことをひとしきり反省すると、抱え込まれた距離の近さに改めてドキリとする。とっさのことだったのに、私はしっかりと庇われて少しも痛くなかった。
今までだって抱きかかえられて運ばれて十分に近かったけれど、なんていうか、本当に近い。
それこそ、まるでキスするような――、
「……あ、」
頭を庇うように置かれていた大きな手が首の後ろまで下がり、雪を反射してきらめくダークブラウンの瞳がゆらりと揺れた。言葉もなくゆっくりとかぶさる影、飲み込まれそうな熱を感じる呼吸が唇に迫る。
え、あれ、これって、
――その時、ドサリ、と近くの枝から雪が落ちた。
「え、わっ、カイさん! しっかりーっ!?」
カイさんはその雪の音に我に返ったように瞬きを何度もすると、ぷしゅう、と音がしそうに目を回してしまったのだった。




