(一)目的地はここじゃない
柊木六花、というのが私の名前。クリスマスイメージの「ヒイラギ」に、雪を表す「六花」という、どうにも寒々しい印象だが正真正銘の夏生まれだ。
雪国出身の母が南国住まいの父に嫁いで、赴任先のシンガポールで臨月を迎えたものだから、暑さに飽きていたに違いない。
私が物心つく前に海外でそのまま帰らぬ人になった両親から直接聞いたわけではないから、本当のところは分からないが、祖父母はよくそう言っていた。
そんな私は冬が苦手だ。母の郷里で育ったから雪に慣れてはいるし、そこには愛着もあるけれど、それとこれとは話が別。だって、雪かきは大変だし寒いし風も水も冷たいし。どんより曇り空な日が多いし、晴れると雪の照り返しで目が痛いし。
服だって靴だってデザインよりも優先すべきは「暖かさ」なんて、つまらない。
だから、就職は全国区で転勤のある会社を選んだ。研修と試験で関東に半年ほど住んで、雪の降らないところへの本配属が決まった時は正直嬉しかった。
そう、私は九州に向かったのだ。街路樹が少しずつ色付き始めた秋の関東から、年間平均気温が十七度越え、降雪は数年に一度という宮崎に。すっごいわくわくしてたんだ、雪のない冬なんて生まれて初めてなんだから。
なのに。
どうして飛行場を出たら、雪原が広がっているのかな。ねえ、誰か納得のいく説明をしてちょうだい。
「寒っ!! え、なにこれ……どういうこと?」
おかしい。どう考えてもおかしい。だって、私が搭乗したのはお昼の羽田発。到着までの所要時間は約二時間。飛行機から降りて空港内から見た外はさんさんと太陽が照っていて、私のテンションは上がりっぱなしだった。
空港出入り口のドアを通るときに、突風が吹いて思わず目を閉じた。その風に肌を刺すような冷気を感じて、違和感を覚えながら目を開けたら……一面の雪野原だったのだ。
足元は雪に埋まっていて、少し丈の短いガウチョパンツから出たふくらはぎに感じる冷たさが、これが夢ではないことを教えている。
きょろきょろと慌てて周囲を見回すと、後ろにあるはずの空港施設は跡形もなく、私はだだっ広い雪原にポツンと立っていた。かろうじて、はるか前方に森のようなものが見えるが、建物は小屋でさえ一軒も見当たらない。自分の吐く白い息だけが、唯一の「人工物」だ。
ドクリと心臓が強く打つのが聞こえた。
重たそうな雪雲に覆われた空はどんよりとして、いつ降り出してもおかしくない。この暗さからいって、もうすぐ日も暮れるころだろう。身を切るような冷たい風に慌てて上着の前を合わせるけれど、こんな薄手のトレンチコートじゃたいして役に立たない。
そのうえ持っていたはずの鞄も消えていて、文字通り、着の身着のままだ。
もう一度周囲を見回して、足元に視線を落とす。雪の上は、前にも後ろにも誰の足跡もない――私の足跡も。
そのことに気付いて、ひゅ、と喉の奥が変な音を立てた。
ここはどこ。どうしてこんなことに。いったい何が。鞄は、そんな、あれには
「――っ……!」
頭に浮かぶたくさんの疑問もかき消すほどに激しく打つ鼓動が耳の奥でうるさい。目の前が急に暗くなって、息を止めていたことに気付いた。
ふらつく体を立て直して、首元に手を当てて自分に呼吸を言い聞かせる。肺に入る氷のような空気に体は凍えても、火照る頭は一向に落ち着かない。
せめて時間を確認しようと思ったが腕時計なんてしていないし、スマホは消えた鞄の中に入れたままだ。歯の根が合わずカチカチいうのは、寒さのせいだけでは決してない。
吹き付ける風は積もった雪を舞い上げさらに冷たさを増す。頭に浮かぶのは「凍死」の二文字――駄目だ。これが夢だろうが現実だろうがとにかく、風と雪をしのげる場所に行かないと。
そうはいっても建物も何も見当たらない。さらさらと固まらないこの粉雪では雪洞も作れない。どんどん薄暗くなってくる周囲に焦りを感じながら、何もないここで唯一遠くに見える木々に視線が止まった。
……何もない吹きっさらしのここよりは、マシだろうか。
積もった雪の深さは足首より少し上で、下は凍っている。履き慣れたショートブーツは郷里で買ったものだし、歩くのに支障はない。問題は、時間だ。
あとどのくらい、私は生きていられる?
この、これから夜を迎える、風と雪の他は何もない雪原で。こんな格好で。
体が大きく震える。熱くなる目の奥をなだめるように深く息を吐いて、頬を叩くと、随分冷たくなった足をなんとか動かした。
――どのくらいが経っただろう。歩いても歩いても、見えた木の影に近付いた気がしない。陽は沈んだはずなのになんとなく明るいまま周囲が見えていた。
風は容赦なく体温を奪っていく。どんなに歩いたって、こんな薄着では体が温まるより先に冷えていった。手も足も顔も、冷たいと痛いを過ぎてもうなんの感覚もない。
自分で思うより、進めていないことも分かっていた。
もつれて縮こまる足をなんとか引きずるように動かしていたが――その時吹いたひときわ強い風に、とうとう膝が折れた。
どさり、と倒れこんだ私が舞い上げた雪が風に乗って飛んでいく。
「……きれい」
半身を雪に埋めた瞳に映ったのは、満天の星。
ずっと足元ばかりを見ていて、空が晴れているのにも気付かなかった。薄雲を散らす風にまで、色が付いているみたい。
たくさんの瞬く星々に、知っている並びは見つけられない。南半球の夜空は、もしかしてこんなふうなのだろうか。
自分の吐く息が白いかどうかももう分からない。体を撫でる凍った風も、髪について結晶のまま溶ける気配もない雪も、頭の奥が痺れたようにただ遠く感じる。
頭上を吹き抜ける風に歌声が混じって聞こえ、踊る雪片が光って見えた。
……ここまでかぁ。
まあ、身内はみんな向こう側だからきっと寂しくはないけれど。私、何か悪いことしたかな。どうしてこんなことになったんだろう。
赤道の下で生まれた私が雪の中で凍っていくなんて、人生ってうまくバランスが取れている。ああ、だけど、鞄のあの子はどこにいったろう。せめて最後に抱きしめたかった。
まぶたにも落ちる雪で狭まる視界の中、きらめく星が涙で滲む。
それを最後に何も見えなくなって、私は、暗闇に溶けた。
「キスで結ぶ冬の恋」企画に参加しています。
短い連載ですが、お楽しみいただけたらと思います。




