(1)『ドナドナ』
あれから九ヶ月が経過した。
寓意の王冠は巨塔を進み、世界は停滞より変化を求めて動き出す。
かつての盟友[儚]と彼女が率いる組織≪道化の王冠≫が起こした全感覚没入型VRインフラ掌握事件――通称“凶行封鎖”から九ヶ月が経過した。
事件直後は世紀末系フィールドにでも迷い込んだかと思うほど閑散としていた央都にちらほらとプレイヤーの姿が戻り始めたのも、つい三ヶ月ほど前のことだ。
現状から逃げて無意味に部屋に籠ったところで、絶望的な閉塞感には堪えきれなかったのだろう。あるいはもう少し現実的な判断で、外からの助けを待っていたのかもしれない。何らかの変化を期待したのか、外部からの救助は期待できないと見限ったのか、ある時期を境に彼らは街に出てくるようになった。
しかし、現実を直視できるほど精神的に余裕を取り戻したプレイヤーはやはりそれほど多くはなかったらしい。
情報通からの報告によると、ここ三ヶ月で無策に巨塔に挑んだ数三百余名。内、無事に帰還したのは八割にも満たず、五十名近くが自演の輪廻によって再起不能したらしい。それに、数は少ないが未帰還者も出ているという話も聞いている。
それに人が増えれば厄介事も増える。≪アルカナクラウン≫では意図的に外部との接触を避けるようにしていたが、この三ヶ月、毎日のように周辺で起きた対人トラブルの報告も入ってきていた。
とは言え、謂わば極限状態の環境だ。これまで実質孤立無援の中で前線攻略に邁進していた俺を含めた≪アルカナクラウン≫の面々からすれば納得はできないが、精神的な余裕を取り戻すにはある程度の時間がかかることは理解はしていた。
≪アルカナクラウン≫内でも何もなかった訳じゃない。
凶行封鎖以降は一貫して少数戦力のみで前線攻略を進める立場をとっていたのだが、安全マージンを確保するための下調べや気力回復のためのインターバルがどうしても必要になり、そのペースは決して早いとは言えなかった。
不安や焦りから衝突もあった。常に建設的に、冷静に――――そんなことができるわけがない。他のギルドの連中から化け物だ廃人だと噂されていたりもしたようだが、俺たちだってただの人間だ。情報収集で休みなく働いていたアンダーヒルでさえ、トドロキさんが強制的に休ませようとした際にその胸中を吐露したりしていたらしい。
そんな中でも一貫して気紛れで自分勝手な態度が変わっていないのに、時に戦力として、時に緩衝材として、時にガス抜きとして機能していたアプリコットが異常と言えば異常なのだが、個人的に感謝しているのは今のところ秘密にしている。
しかし、いい変化も当然あった。
凶行封鎖直後からトドロキさんが密に連絡を取って調整を進めていたFO屈指の前線ギルド≪竜乙女達≫が、巨塔攻略への参戦を宣言したのも同じくちょうど三ヶ月程前だ。外からの救助が望めないとわかった辺りから最前線攻略の声も出ていたらしいのだが、≪竜乙女達≫は非常にメンバーが多いギルドだ。内情が落ち着き、ギルドとしての大勢が攻略に前向きになるまでギルドリーダーが参戦派を抑えていたらしい。一部の幹部格からは過激な意見も出ていたようだが、向こうのGLはやはり組織のトップとしては優秀だった。
しかしその協力により、この二ヶ月で塔の階層は第三百四十九層にまで達した。リコの言っていた『NPC戦闘介入システム』の開放まで王手をかけた、といったところだろうか。ここを乗りきれば通常のNPCも戦闘に参加させることができるようになり、一気に戦力増強が見込めるだろう。
そして今現在――――≪アルカナクラウン≫ギルドハウス二階ロビー。
これまでは連絡役のトドロキさんを通して連携を図っていた≪竜乙女達≫のGLであり、ギルド名の由来でもある二つ名を持つ最上位プレイヤー[ドナドナ]が単身でうちに乗り込んできていた。
「ハーレムね!」
「いや、何が?」
純粋なツッコミである。
時間は朝方八時過ぎ。相変わらず寝起きの遅いリュウとシン、そして朝風呂が習慣化しているリコを除いた面々で朝食を摂っていた時だ。突然ギルドの扉を叩いたドナドナ――通称“ドナ姉さん”はNPCメイドの射音に案内されて上がって来るなり、そこにいた≪アルカナクラウン≫一同を見回した最後に近くにいた俺ににーっと笑いかけてそう言ったのだ。
第一声からこれである。
「あなたがギルドのリーダーね? んーと、会うのは確か初めてよね、シイナちゃん」
前の俺を知らないタイプか。いや、本当は彼女とは何度か会ったことあるんだけどな。おそらく記憶から抹消されてるんだろう。男だから。
何があっても口調を矯正しなければならないようだ。この人の前では。
「お姉さんはドナドナ。皆からはドナドナ・ドナ姉さん・お姉様・リーダー・ナナ・御主人様・近寄らないで下さいこの変質者、とか呼ばれてるわ。知ってる子も知らない子も、どうぞどれでも好きなので呼んで♪」
最後の何すか……。
ドナ姉さんは170cm超えの身長の半分ほどもある栗色の髪を振り乱しながら、うちの女性陣(不本意ながら俺含む)をきょろきょろと見回して、もとい品定めして――ぐじゅる。
「ちょっと自重してください」
俺は大腿の帯銃帯から引き抜いた〈*大罪魔銃レヴィアタン〉を手の上で踊らせながらそう言うと、銃身を握ったそれを軽く振り上げ、ハァハァと息も荒く恍惚とした表情を浮かべるドナ姉さんの頭に容赦なく銃把を振り下ろす。
ゴッ、と妙にいい音が低く響いた。
「お゛ぉうッ」
乙女らしからぬ声を上げたドナ姉さんは頭を押さえると、我に返ったような表情で己を殴り付けた拳銃と俺の顔とを交互に見た。そして何故か優美な微笑みを浮かべ、パチッと片目だけ瞬いた。
「シイナちゃんはクーデレ・バイオレンス・メイデンの第二弾ね♪」
どうして殴られたのに嬉しそうなんだろうか、この人は。というかそのなんとかメイデンってのは何だ。
しかし、良くも悪くも大体こんな調子だから、初見の人でもそろそろドナドナという人物がどういった人間なのかわかってくることだろう。さっき自分で口走っていたが、彼女は変質者、もっと言えば変態なのである。
彼女が率いるギルド≪竜乙女達≫は、名前に乙女とある通りそのほとんどが女性プレイヤーの女系ギルドなのだが、彼女はそれを自分のハーレムとまで公言する、所謂レズビアンなのである。本人が頑なに百合と言い張っていることもあって、彼女をよく知らない人からはロールプレイの一環だと思われているらしいが、さっきの表情を見ても割と本気だと思う。
「ねぇ、シイナちゃん。今夜私の部屋に来ない? ふふっ、未知の世界を見せてあげるから……♪」
「ひんっ……!」
突然脇腹をしっとりとした何かにつうっとなぞられ、ぞわりとした感覚と共に意識もしなかった変な声が喉から抜ける。
「可愛い声、ね♪」
「い、いきなり触らないで下さい!」
「つい触っちゃったっ」
「事後報告!」
悪戯っぽい笑みを浮かべたドナ姉さんは、俺の反応がいたく気に入ったのかくすくすと愉しげに笑うと、俺の脇腹をくすぐった指を口元に寄せて軽く唇に触れさせる。まるでキスするかのような艶を帯びたその仕草に急に恥ずかしくなって目を逸らした。
――瞬間。
「えいっ」
「っきッ……!」
その好機を見逃さないとばかりに正面から伸びてきたドナ姉さんの手に無防備だった胸を鷲掴みされ、突然の暴挙と慣れない感覚に喉から空気が抜けるような情けない悲鳴が漏れた。
危うく停止しかける思考から無理やり戦闘意識を引きずり出し、俺は反射的にドナ姉さんの手を払い除けて胸を庇うような防御姿勢で後ずさる。
身体の表面がぴりぴりと痺れるような震えはデバフのような体感効果か、それとも俺自身が感じている寒気か恐れなのか。自分に向けられるなんて思ってもいなかった感覚への戸惑いが尾を引くように意識の大半を支配し、周囲からの視線に気付いた時には既に数秒経っていた。
ていうか何今の悲鳴! 俺の!?
「ち、違う、今のはっ……!」
俺の本当の性別を知っている面々に向けて口を開きかけた瞬間、「スキあり♪」とドナ姉さんの弾んだ声が至近で聞こえ、咄嗟に身体を捻って気配の方向に向き直るように飛びすさる。すると、またも肉薄していようと足を踏み出していたドナ姉さんはちょっと驚いたような表情でぴたりと立ち止まった。
「意外。シイナちゃん、中距離近接型の一刀一銃使いなのね」
ぞくりと背筋が震える。
俺のことを思い出した……? いや、そんなはずはない。この人の女好きは筋金入りで、男の名前は同じ≪竜乙女達≫のギルドメンバーですらまともに覚えていなかったはずだ。そんな彼女が一度や二度会っただけの俺の戦闘スタイルまで記憶しているなんてまずありえない。
「どうして……」
確かにたった今彼女の頭に振り下ろしたばかりの大罪魔銃はまだ左手に持ったままだが、もう一方のキーウェポン――〈*群影刀バスカーヴィル〉は、今日は実体化どころかまだ装備もしていない。
つまり、今の戯れのような立ち会いだけで、それを看破されたということになってしまうのだ。
驚愕よりもやや恐怖が勝る感情を圧し殺しながらドナ姉さんの顔を見ると、ちょうど視線が重なったのを察したからか、ドナ姉さんはくすりと柔和な微笑みを浮かべて、纏っていた肉食動物のような空気をふっと和らげた。
「こう見えて可愛い女の子を観察するのは得意なのよ」
急に自然体の雰囲気で後ろに回り込んだドナ姉さんは俺の両肩に手を置くと、そのまま俺の左腕をなぞるように左手だけをすっと横に下ろし、大罪魔銃に触れる。
「シイナちゃん、右利きでしょう。それなのにこの銃は左手で扱ってる。変な持ち癖もないし、帯銃帯も左に着けてるから、戦う時もきっと左」
続けて右手を同じように俺の右手首の辺りまで下げると、ドナ姉さんはそのまま手首を持ち、少し後ろに引いてゆっくり伸ばしてくる。
「さっき私の声に反応した時。無意識かな、身体の右半分を引いて身構えてたわ。それもこんなに右手を下げて。いつも右手に近接武器を持っているから癖になっちゃってるのね。短刃は軽すぎるし、重量武器なら重すぎて、こんな綺麗には癖付かない。だから片手剣か太刀……持ち手がこの向きならきっと太刀系ね」
「交戦距離は?」
「わざわざ拳銃を持ち出してる以上、中距離を想定してるのは間違いない。それに私の声に反応した時のシイナちゃん、どう見ても最上位級の近接戦で慣らしてないと難しい反応速度だったから、実際相当戦れる方でしょう?」
俺の両肩に手を戻したドナ姉さんは、『合ってる?』と問いかけるような表情で肩越しに微笑みかけてくる。
マジでこの人、女が相手だと本当に、恐ろしい程よく見ている。
無意識の部分に関しては正直よく覚えていなかったが、言っていることは全部言われてみれば確かにと十分納得できる推測だ。彼女のぶっ飛んだ観察力が前提にはなるものの、あの一瞬で全て言い当てるのもそう難しくないということだろう。
「流石に“第三竜姫”には敵いませんけど」
「あら、拗ねちゃって可愛いのね」
「違います」
ドナ姉さんは少し困ったように微笑むと、小さな声で「その呼び方、本当はあまり好きじゃないのだけどね」と付け加えるように囁いた。
“第三竜姫”というのはドナ姉さんの二つ名の一つで、例によって件のプレイヤーランキングの順位から来ている呼称――――すなわち第三位を示している。あくまでも過去の記録ではあるが、彼女はこれでも儚・アプリコットに次いでFOで三番目の実力者なのだ。
ちなみに、儚には“第一戦姫”、アプリコットには“第二天使”と対比するような二つ名が付けられているが、他の呼称に比べてあの二人を表すのにインパクトが弱いせいか、あまり普及しなかったらしい。
とは言え、今となっては儚と並べるような二つ名で呼ばれるのも思うところあるだろう。
「もういいのよね?」
「へ?」
ドナ姉さんの言葉――いや、声が耳に入るか入らないかという瞬間、ドナ姉さんの両腕が首筋を掠めるように俺を捕らえ、同時に背中に感じていた彼女の体温が柔らかな圧力と共に密着する。
「ふふっ、つかまえた♪」
「ひっ……!」
悪戯っぽい声と共に俺の身体を抱きすくめたドナ姉さんは、抜け出そうともがく俺の首筋に顔を埋めるようにして悩ましげな吐息を漏らす。その気配は既に元の肉食動物のような空気に戻っていた。
ちくしょう、あのランキングまともなやつがいやしない。
「お姉さんをこんなに夢中にさせるなんて、流石あの悪名高き≪アルカナクラウン≫のリーダーね!」
至近距離で抱きつかれたまま身体の匂いを嗅がれるというかつてない状況に思考が乱され、身体中の感覚がその元凶であるドナ姉さんに支配される。
俺もレベル自体はドナ姉さんと大差ないが、彼女の種族は特に優れた膂力を持つ武人系亜竜種派生種貴竜種系第二進化種の“瑞竜姫”だ。その腕力値は少なく見積もっても俺の1.5倍はあるだろう。
そんな彼女にこうもしっかり確保されると、十全な状態じゃない今の俺一人じゃあまりにも手の打ちようがない。悔やまれるのは、群影刀をちゃんと装備していればおそらく何とかなっただろうということだ。ただそれも安易な戦力開示と考える余裕があれば避けるべき事態ではあるのだが。
助けを求めるように他の面々に視線を遣ると、何故か〈*フェンリルファング・ダガー〉を片手に遊ばせながらこっちを睨む刹那、これまた何故か少し頬を染めたままじっとこっちを見つめるネアちゃん、いつのまにか素顔を隠すように装着している〈*黒い包帯〉で最早何処を見ているかすらわからないアンダーヒルと三者三様に静観している姿が目に入る。ほんとに助けて。
「悪名ならジブンも人のこと言えんやろ、“竜乙女”ドナドナ」
その願いが届いたのか、唯一視界に入っていなかったトドロキさんの声が背後から聞こえ、同時にドナ姉さんが後ろに引かれるように離れて背中にくっついていた柔らかな感触が消える。
「あら、リッちゃんもいたのね。お姉さん、気がつかなかったわ」
振り返ると、ドナ姉さんは明らかに作り笑顔のトドロキさんに襟首を掴まれたまま、少し不貞腐れたような表情で名残惜しそうに俺の首筋を見つめていた。
トドロキさんが助けてくれたようだ。見るに見かねてか、ただ単に一向に本題に入らない苛立ちからかはわからないが、とりあえず助けてくれたことには感謝しておこう。ほんとに助かった。
「可愛いシイナはよう見てる癖にウチのことは気付けんかったわけやね。シバくで」
「だってリッちゃんは可愛げないんだもの♪」
「ホンマにシバかれたいんならボコボコにしよか」
トドロキさんはおもむろに実体化した紙鎚武器を片手に握りしめ、白々しい作り笑顔をドナ姉さんに向ける。そのこめかみにわざわざポップな怒りの感情表現効果を浮かべている芸の細かさだが、ちゃんと装備までしている辺り、本当に殴ろうと思っているのは確かなようだ。
「連絡もせんといきなり来て何かと思たら、まさかこんなしょーもないセクハラしに来たワケやないやろ」
「まあ、シイナちゃんは一旦堪能したし、ひとまずはこれで我慢するわ」
とりあえず俺ももう一発くらい殴っておきたい。
未だ余裕のある様子で降参するようにあっさり両手を上げたドナ姉さんは元の場所に戻ると、「こほん」と場を仕切り直すように咳払いして表情を引き締めた。
「次は刹那ちゃん、お姉さんのところにおいで!」
「次は、じゃないわよッ!」
流石に刹那がキレた。ガタンッと椅子が倒れ、フェンリルファング・ダガーの刃が煌めく。
「アンタがそっちのギルドで何してようが構わないけど、こっちに来たからには私たちに従ってもらうわよ、ドナドナ! まずさっきみたいのは禁止! 女だからセクハラしていいとでも思ってるワケ!?」
よく言った、刹那。でもせめて、後一分早く言ってくれ。
「ふふっ、刹那ちゃん、カリギュラ効果って知ってる? ロミオとジュリエット効果でもいいけれど」
「は、急に何? シェイクスピア?」
警告を涼やかに受け流すドナ姉さんの言葉に、刹那は困惑気味に顔をしかめると、一瞬躊躇いつつもすぐ隣に座って紅茶のカップを傾けていたアンダーヒルの頭にぽんと手を置いた。
「……カリギュラ効果とは 別名を心理的リアクタンスと呼ばれ、『自己が自由を抑圧された際に生じる反抗的な心理』を指す俗語です。また、ロミオとジュリエット効果とは件の劇作に由来する『恋愛に際して障害が大きい程その情動が強くなる心理』を指します」
「ありがとう、もういいわ」
「刹那ー。ウチのアンダーヒルは検索エンジンとちゃうでー」
「私は貴女の物でもありません」
「そうよ、リッちゃん。アンダーヒルちゃんはお姉さんのクーデレ・バイオレンス・メイデンの第一弾なんだから勝手に取らないでちょうだい」
「近寄らないで下さいこの変質者」
その呼び方はお前か、アンダーヒル。
Tips:『≪竜乙女達≫』
FOフロンティアでも最上位級の前線ギルドで、FOプレイヤーランキング第3位の[ドナドナ]をギルドリーダーとして戦力・統率力・ギルド運営と様々な点で完成度が高く、その知名度も非常に高い。324名のギルドメンバーを擁する大所帯の殆どを女性プレイヤーが占める女系ギルドで、純粋にギルドリーダーの趣味としてその幹部格は全員女性プレイヤーから任命されている。ギルドメンバーは役割によって戦闘隊、偵察隊、教導調練隊、物資調達隊の四つの部隊に振り分けられており、それぞれの部隊の筆頭幹部4人は“四竜”と呼ばれ、それぞれがドナドナから与えられた『無敵』『無影』『無刀』『無私』の二つ名を冠している。特に戦闘隊筆頭の『無敵の[詩音]』、偵察隊筆頭の『無影の[アルト]』はギルド内でもドナドナに次ぐ戦闘能力を持っている。




