(9)『一難去って何とやら』
優しさは時に先に進む糧になるだろう。
少年が目まぐるしく変わる環境に疲れた時も、彼女はきっと変わらない。
――レンガやタイルで舗装された道を長時間走り続けると大変なことになる――
そんな貴重な教訓を不本意な実地体験によって思い知らされ、諦めたリコとグラン・グリエルマに寄って漸くギルドハウスまで帰ってこれた俺は一階エントランスホールのソファに背中を預けて、全身に薄く広がる疲労を粛々と噛み締めていた。
まだ朝と言っても差し支えないくらいの時間であることを考えると、我が事ながらアホの一言に尽きると思う。
リコの執拗なまでの要求にはうんざりしていたが、冷静になって考えると戦うために戦闘スタイルに合わせたパラメータにするのは当然であり、況してや今日は午後から遠征があるのだ。午前の内に終わらせなければならない、というのもわかるだけに悪いことをした気分になる。
「まだ立ち直らんのか、シイナ」
目の前に差し出されたコップを半ばひったくるように受け取り、それを持ってきてくれたリコに礼を言う間もなく血の味のする口の中に一気に流し込む。今は随分楽になったが、未だわずかに熱を帯びている身体には素直に嬉しく浸透していく。
「立ち直るってそういう使い方じゃないだろ」
「む? そうか?」
ちなみにリコは戦闘以外でのスタミナ消費では疲労デバフを受けない仕様になっているらしい。まったく堪えていない様子のリコを見ていると羨ましい限りだった。
「そうだ、シイナ。私はこれからシャワーを浴びてくるのだが一緒に入るか? 汗を流したいだろう」
「ああ、そうだな……」
「どれ、動けないのなら連れていってやる。手を貸せ」
「ん? あっ……い、いや、俺はいい」
リコに手を差し伸べられて漸く自分が何を言っていたのかに気付き、慌てて手を振ってお断りしておく。すると、リコは瞬間浮かんだ寂しげな表情を即座に隠し、
「それなら仕方ない……が、一人はつまらんからな……」
周りをきょろきょろと見回したリコは、偶然一階奥の通路からエントランスホールに姿を現した理音を見てキュピーンと眼を輝かせた。
「え、あ、あれ? リコ様? 私にはまだ仕事が……リコ様っ? リコ様――ッ!」
慌てて丁重に断ろうとする理音の手を無理に引っ張って奥の通路に消えていくリコと理音を見送ると、一人になったこともあってか深く息を吐いてソファに横になるように沈み込む。
やっと行ったか――――という心情だ。
アンダーヒルとリコ、親しい自覚がまだないだけに一緒にいて気疲れする二人と離れて全身でリラックスしていると、不意に頭上から声が投げ掛けられた。
「ちょっ……何でそんなヘトヘトになってんのよ、シイナ!」
焦りと驚きの色が顕著なその声に顔を上げると、二階のロビーの手摺りから身を乗り出すようにした刹那が俺の方を見下ろしていた。
一難去って何とやら。
そう思うというのは刹那に対してかなり失礼なのだろうが、本人も日頃の行いを省みた上で礼節を欠いているか判断してもらいたい。勿論、こんなことを言ったら口が裂かれそうだから口が裂けても言えないが。
刹那は慌てたように手摺りを飛び越えると、俺がいるソファに駆け寄ってくる。
「ちょっと大丈夫なの!? まさか初期値降格されたとか言うんじゃないでしょうね!」
「落ち着け、刹那。もしそうなら俺は今頃インナー姿だ」
皮肉混じりにそう言うと、刹那は余程慌てていたのか珍しく素直に『あ、そっか』と呟いてホッとした表情を浮かべた。
「それにしても珍しいな。お前が誰も御付きを連れてないなんて」
「アンタ、普段私をどんな目で見てんの……? ってか珍しいって何よ」
「いや、そうじゃなくて。今日は一人で起きれたのかなと」
「お、起きれるわよ、たまには」
刹那は朝に弱い、つまり夜寝ると中々自力で起きてこない。だから夜から日を跨いで朝までこっちに入っていた時は大体メイドの誰かに起こしてもらっているのだ。
その後モーニングティーやら朝食まで任せっきりだから、シン辺りは何処のお嬢様だよなどとたまに茶化すのだが、この時ばかりは刹那も安全運行であるため物理制裁には発展しないことが多かったりする。
何故か俺が何度か罰ゲームだったり止むを得ない場合に起こしに行った時には寝起きから不機嫌な刹那に一発、なんてことはそんな時だけ日常茶飯事だった。
「そうだシイナ、アンタ、アンダーヒル見なかった? 何処にもいないのよ。まぁ、一応アンタのことも探してたんだけどね」
「ああ、リコやアンダーヒルと一緒にちょっと出掛けてたからな。途中で用があるってアンダーヒルだけ別れたけどな。昼には帰るって言ってたけど」
「リコって誰よ」
「ああ、電子仕掛けの永久乙女の名前だよ。新しい名前を付けるようにせがまれて、取り敢えずそういうことになった」
「ふーん。まぁ、アレのことはどうでもいいわ」
いや、刹那さん、アレって……。
刹那と話している内に楽になってきて身体を起こすと、刹那が隣の空いた席にドスッと腰を下ろした。
「で、朝っぱらからアンタはアンダーヒルとイヴ……じゃなかった、リコを連れて何処行ってたっての?」
くるくると指先を髪に遊ばせながら、わずかに顔を逸らしてそう訊いてくる。聞き方に若干トゲがあるのは気になるが、何があったか比較的機嫌はよさそうだ。
下手を打って、わざわざ機嫌を損ねる理由はない。
「グランのトコだよ。武器のメンテとオーバーホール兼ねて、ちょっと防具を見にな。アンダーヒルは銃弾の補給が目的だったみたいだけど」
「そ、そっか、防具ね……。あれ? でもシイナにはその〈*フェンリルテイル〉あげたじゃない。気に入らなかった?」
「そんなわけないだろ、刹那には感謝してるよ。たまたま〈*群影刀〉と相性のいい防具だったし」
この露出は何とかならんのかと思うが。
名前からして〈*フェンリルファング・ダガー〉も関係があるのではないか、とも思うのだが、あれは刹那が所有する一本しかないのだろうし、そもそも多くの武器カテゴリがある中、短剣は苦手な部類だ。
「そ、そう。ならいいわ。でもそれじゃ何を見に行ったの?」
「リコと魔犬の群勢用の防具だよ。メガロポリスを出る時、リコの倒したキメラとかの素材が少しだけ手に入ったって話はしただろ。それを見てきた」
「ふ~ん……で、どうだったの?」
「選択肢が少ない割にイーグルのが多少マシだったからそれをリコに。あと魔犬の群勢にはレオ装備を宛がっておいた。犬型フィギュア出された時はちょっとビビったけどな」
「……あったの?」
「あったよ」
さすがに刹那も驚いてるようだ。
バスカーヴィル以外に犬型NPCがいるのかもわからないが、少なくとも多くはないだろう。寧ろ犬系モンスターに化けられる魔犬の群勢の特性を考えれば、他にはないと考えてもいい気すらしてくる。
その仮説が正しいとすれば、人型の防具と同じだけのデータ量を用意しないといけないわけで。どうしてそうなったのかはわかるが、まさか本当にやるとは。
「ところでもう朝御飯食べた?」
「え、いや。まだだけど」
「まだ皆起きてないし……ど、どっか食べに行こっか?」
「まだ起きてないのか? ネアちゃんとか早起きじゃなかったっけ」
「リュウとシンに付き合って遅くまで起きてたらしいから無理もないわ」
とりあえずリュウとシンは後で断罪処刑するとしよう。
「スリーカーズはさっき一回起きたらしいけど、頭痛いって部屋に戻ったみたいね」
「……二日酔いデバフか」
あれほど呑み過ぎるなと言っておいたのに、やはり二日酔いするほど呑んだらしい。適量がどれぐらいか知らないが、人によっては一杯で昏倒するブツを何杯も呑めば二日酔いで済んでいい方かもしれない。
「そ、それで、シイナ?」
「ん? ああ飯ね。んじゃ行くか」
疲労も多少和らいできたし、歩くぐらいなら疲労デバフも問題はないだろう。
「えっと……何処行こっか?」
「俺もお前も朝はあんまり食う方じゃないしな……」
近場の店だと肉野菜中心の『リストランテ・バンデルオーラ』、魚介中心の『ムルムルミール』などがあるが、濃い味付けの物が多く朝食にはあまり向いていない。
「じゃあちょっと遠出してブランチにする? エノテのアップルパイとか久しぶりに食べたいんだけど」
「それ朝食なのか?」
「あによ。何か文句あんの?」
エノテは正式名『エノテーカ・トッレ』というトゥルムの西端にある有名な店で、基本的には酒場の色が強い。昼間は軽食堂、夕方から酒場と便宜上分かれているものの昼間も別に酒を禁止しているわけではないため連日特有の賑わいを見せている。今がどうなっているかはわからないが、NPCの店だからやっていないということはないだろう。
「そうするか。で、どうやって行く?」
「前みたいに私がアンタのバイクの後ろに――――そう言えば無かったわね」
「お前それわざとか?」
俺の愛車と言えば『アトモスフィーア・スティンガー』というのは共通見解だ。中堅クラスから使っていたレアアイテムで、同じレア度の二輪の中で群を抜く性能を誇っていた相棒だ。
消えたけどな。またいつか会える日が来るといいのだが。
「仕方ないし私が車出すわ。それと――」
刹那はソファから立ち上がって大扉の前まで行くと、扉を開きながら振り返り、
「アバター……早く戻るといいね」
そう言って、優美に微笑んだ。
Tips:『理音』
ギルド≪アルカナクラウン≫に所属する女性NPCで、外向きに跳ねた茶髪のくせっ毛が特徴の快活な少女。前向きかつ一生懸命な性格で、能力だけでなく性格的にもギルドで二番目に有能なメイドと言える。持ち前の素直さ故に同僚の玖音の嘘に何度となく騙されているが、それを気にせず水に流す懐の深さも持ち合わせている。ギルドハウス管理権限を持つ[刹那]が雇用主であるため所謂ギルドメイドにあたり、≪アルカナクラウン≫旧体制の時期は[シイナ]の専属メイドだった。




