(3)『魔弾刀』
一人きりの部屋の中、少年は自らの少女の身体に手を伸ばす。
果たしてそれは現実か、あるいは非現実の幻か。慣れない身体で羞恥に悶え、少年は男同士の友情に感謝を示す。しかして、その先に待つのは安寧か……波乱か。
制体技術。
つまりは身体を制御する技術のことなのだが、一般的には身体を思った通りに動かせるかどうか、単にそんなところだ。
大抵の人間は、日常生活を不自由なく送れているかどうかの問題だからある程度の平均的水準の制体技術は持っていると言える。
しかし精密機械技師だったり、伝統産業の職人だったり、あるいは戦闘職種だったり、ミリで済まないレベルの正確で細かい作業が必要な人たちは、一般人よりもこの制体術に長けている。
これは自分の身体をどれだけよく知っているかであり、どれだけそれぞれの行動を反復練習で身体に染み込ませてきたかであり、どれだけその身体での挙動に慣れているかである。
例えば太っている人は傍目相当バランスが悪そうに見えるが、日常生活の上で何度も何度も転ぶことはない。これは少しずつ少しずつ体型が変わるにつれて脳がその変化を緩やかに認識してきたからで、重心の違いがあろうが重さが変わっていようがそれほど不自由はしない。
しかし同じようにバランスが悪そうに見えても、肩や背中に重いものを担ぎ上げている人は、少し体勢を崩すだけで簡単に転んでしまう。これは短期間の重心・体重の変化に脳がついていけてないからで、元の身体で身体の操作制御の演算をしてしまうためズレが生じているのだ。
今回の俺にも、似たようなことが言える。
まず胸等の体型の変化で重心はズレているし、体重も相当軽くなっている。あまつさえ、身長も30cm弱下がっている。これで元の制体駆動ができるという方が無理だろう。
俺が元の身体と同程度の駆動を取り戻すには、できるだけ早くこの身体に慣れてしまうことだ。あまりいいとは言えない作戦だが、元に戻る見通しが立っていない今は一番合理的な判断だろう。
というわけで今の俺のこの行動は、合理的な判断だ。
(別に大丈夫……だよな)
ベッドに寝転がったまま、おそるおそる自分の胸に手を伸ばす。
[FreiheitOnline]の世界における数少ない行動制限のひとつ。
異性同士の肉体への物理的接触。
理由は言わずとも推して知るべしだが、端的に言えば倫理的な理由だ。
どんなに現実に近かろうが、非現実であるこの世界に国家の法律は適用できない。だからこそのシステムによる行動制約だ。
数秒間触れ続けていると理由はどうあれシャットアウトされ、システム側から警告が出される。一応、相互の同意があれば触れることもできるらしいが、詳しいことはわからないためただの噂だろうと思うことにしていた。
胸から10cmほど離れたところに手を留めたまま、逡巡迷っている俺が今知りたいことは、システム上どっちの扱いを受けているのか、ということだ。
確証はないが、異性間の物理接触の制約は接触側のアカウントと被接触側のアバターの性別の違いを検知して適用されると言う話を聞いたことがある。この話を聞いたのは開発スタッフと交友のある父親からだから、あながち間違いでもないだろう。
今回の場合、接触側と被接触側が同一であるという問題があるのだが、システム上の別個体として扱うとすればこのまま触れて数秒後、警告が出ればシステム上も女、出なければ男ということになるのだろう。
仮定が多すぎて100%とは言えないが、とりあえず現状把握程度の気休めぐらいにはなるだろう。
(なんだろう……。仮とは言え自分の身体のはずなのにドキドキする。最初みたいだ……)
初めて[FreiheitOnline]にログインした時、つまり初めてVRMMOというものを体験した時、あまりにも現実そっくりで女性プレイヤーの付近には妙に心臓が高鳴って近寄れなかった。
元々女性あるいは女子に対する耐性がなかったのもあるが、さすがその辺りはゲームというべきか、女性プレイヤーの装備の露出が激しいこともありいちいち緊張してしまっていたのだ。
ちなみにその耐性が付いたのは、刹那と親しくなってからのことだ。
あと5cm。
少しずつ手を近づけていく。躊躇いが無意識の内に動きを遅々としたものにしているのか、手が重く感じて関節が思い通りに動いてくれない。
あと、3cm。
そういえば警告が出るのは何秒後なんだっけ、と至極今さらなことを考えていたからなのか、自分の身体とは言え女性の胸に触ることに後ろめたさがあったためか、
「いよおぉぉっす、シイナ! まだ落ち込んでるか!」
「うわあああぁぁっ!」
突然部屋の入り口から現れたリュウの声に心臓が跳ね、飛び退くように胸から手を離し、俺は勢い余ってベッドから転げ落ちた。
「シイナ、生きてるか――って何やってんのシイナちゃん」
リュウから一泊遅れて、ドアのところに顔を出したシンが、ベッドから逆さまに落ちたままの俺に視線を向けて訊いてくる。
「シイナちゃん言うな」
どうやら胸に触ることに集中していた俺は、二人がインターホンを鳴らしたのに気がつかなかったらしい。
それで二人はシビレを切らして中に入ってきたのだ。
鍵開けっぱなしだったのかよ、俺。
不法侵入で訴えてやろうかとも思ったが、オブジェクトだらけの家に入ったところで盗めるものは何もない上に、呼びつけたのはこっちだったと姿勢を戻し、ベッドに這い上がりながら諦めの嘆息をする。
そもそも法律関係ないしな。
「大丈夫か? 驚かせたみたいで悪かった」
真っ先に謝罪を入れてくるのは、さすが常識人のリュウだ。
「いや、まぁ俺も驚きすぎたし。それより急に呼んで大丈夫だったか?」
二人を部屋に招き入れると、俺はさりげなく胸に手首を当て、少しずつ収まりつつある心臓の鼓動を感じつつも内心で秒読みを始める。
「ああ、刹那から来たメッセージを見てから、どうせお前はログインしてこないだろうと思ってな。シンと二人で塔の攻略でも進めようかと思いつつも一時間ほどカフェでジャンケンしていただけだ」
「つまり暇かと言われれば?」
「無論暇だな」
塔の攻略は思っただけか。
暇してたのならこっちとしては好都合だが、この二人がジャンケンを一時間もやっていたのかと思うと、「お前ら他にやることないのかよ」とか思う以前に「よく飽きないな」とむしろ感心すら覚える。
「リュウや僕を呼びつけたってことは何か進展があったのか?」
「あ、いや、そういうわけじゃないんだ。刹那がいないけど何もしてないのはちょっと落ち着かないなー、と思って……」
「サーバー側に連絡はとったのか?」
「あれからすぐROLに電話したんだけど、やっぱり今回の件で忙しいのかなかなか繋がらなくて……。一応メールは打っといたんだけどな。それとうちは父さんがROLの関係者と知り合いだから、一応伝えてくれるように頼んでおいた」
「まあ、充分すぎる努力かな。今はスタッフも後処理に追われて大変みたいだし。一応そっちから伝えた方がいいかと思ったんだけど、そこまでしたんなら、一応僕からも母さんに伝えておくよ」
「サンキュー」
シンの母親は開発スタッフの一人というのは前にも聞いたことがある。曰く『ただの下っ端』らしいが、少数精鋭で作ったと公言しているROLのスタッフに下っ端も何もないだろう。
その息子なら、凄まじい倍率のベータテストに参加できたと言うのもそれなりに頷ける話だろう。一家揃ってゲーマーだと聞いたこともある。
と、そんなことを思っている間に十秒以上が経過していた。
どうやらシステム上も女扱いはされているらしい。
「しかし、シイナ。それはそうとして……。お前、いつまでその格好でいる気なんだ?」
シンが咳払いをしつつ、眼鏡を直すような仕草をしてそう言った。
もしかしたら現実での彼は眼鏡をかけているのかもしれない、と思わせるそれは癖みたいなものだ。
エア眼鏡とは初めてだが。
「その格好って……」
視線を下げる。
さっきまで特別気にしていなかったが、絹のような光沢のある黄色い布で作られたインナーは上下二つに分かれていて、特に胸元は中東の踊り子のようにクロスさせた布で隠されているだけのものだ。
ファッションとしての正式名称はわからないが、傍目からは胸を強調しているように見えるそれはかなりキワどく、肌の露出が多い。
改めてそれを他の人から指摘されると、恥ずかしさを実感させられる。二人の前じゃなければ多分しゃがみこんだまま動けなくなるくらいには恥ずかしい。そんな感覚は初めてなわけだが。
「で、でもだからって……何着ろってんだよ。装備も全部消えたんだから持ってるわけないだろ」
「新しく適当に買ってくればいいじゃないか」
「お前、馬鹿だろ」
シンに思わず辛辣なツッコミを入れる。
「この格好で出れると思ってんのか?」
「おいおい、何を言ってる。最初は皆インナーだけだろう」
「お前も馬鹿かよ」
リュウにまでツッコミを入れさせられる。
「こんな最古参と上位者ばっかの街で、インナーで出歩く奴なんか露出狂ぐらいしかいないだろ! それに『魔弾刀のシイナ』がインナーとか――――恥ずかしすぎて死ぬッ!」
ちなみに『魔弾刀のシイナ』というのは、プレイヤー内での通り名みたいなものだ。
古参のベータテスターで高レベルプレイヤーともなればそれなりに評価は得られるし、尊敬も羨望も少なからず集めている。が、代わりにこんな状況になってみると知名度が高いのも逆に困りものだった。
ちなみに『魔弾刀』というのは俺の戦闘スタイルを見た奴がつけたもので、魔剣などと同様、それぞれ魔力を消費して力を高める武器カテゴリ魔弾銃と魔刀、その二つの武器カテゴリを使うことから来ている。
今はもう全部無くなったけどな。
「じゃあ俺たちで適当に買ってきてやるから、代金は一個貸しだからな」
「恩に着るよ」
馬鹿だけど大好きだぜ、お前ら。
『一個貸し』と言うのは、基本的にプレイヤー間でのお金の譲渡ができないからだ。
品物を買うという形ならできなくはないが、それでもシステムが介入してしまうため、確実に定価になってしまう。
現状俺に適当な素材がない限り、お金をそれと引き換えに渡すことはできないと二人も当然わかっている。
そこを気遣っての『一個貸し』なのだ。
「とりあえず低レベルの奴でも別にいいよな」
「ああ、今は贅沢は言わない。後で刹那に頼めば、もしかしたら高レベルの奴と交換してくれるかもしれないしな」
かなり頭を下げないといけないかもしれないけど、女性アバターに男性アバター用の装備は着れないため仕方がない。
じゃあ何故買うまではできるんだと最初は思ったものだが、このゲームの中でも擬似的に恋愛を楽しもうとする人口はいる。戦闘狂の集団と誤解されがちなベータテスターを始めとする古参たちの多いこの街ではそうそう見ないのも事実だが、要するにプレゼントのためだ。
「色々回ってくるから遠出するかも。夕方には帰ってくるからお前はオチてていいぞ。むしろそっちの方がこっちもゆっくり見てこれるからありがたいかもな。じゃあまた後で会おう」
そう言ってリュウと共に出て行くシンを玄関で見送った後――――一拍ほど遅れてシンの言い回しに疑問を覚えた。
「適当な低レベルでいいって言ってるのに、なんで色々回る必要があるんだ…………?」
この時リュウとシンの思惑に気づけなかった俺は、夕方後悔することになるとも知らず、思考を放棄してログアウトしたのだった。
Tips:『二つ名』
エイリアスネーム、あるいはその頭文字を取ってAネームなどとも呼ばれる、特定のプレイヤーを指す通称のこと。本人が名付ける場合もあるが、周囲の他者が用い始めて浸透する例が多い。二つ名を聞いて誰かわかるくらい浸透しなければ厳密には二つ名とは言えないが、多くの著名プレイヤーの二つ名をまとめて管理し、定期的にプレイヤー全体に拡散して浸透度を上げる活動する物好きなプレイヤーもいる。




