(13)『仮名vsルーク』
「さて、と……これで余計な邪魔は入らないっすよ、猫耳メイドさん」
階上のロビー奥に消えていくシイナの何処か頼りない背中を二人階下から見送ると、機先を制するようにすぐさまルークが口を開いた。
まるで雑談の続きでも始めたかのような気の抜けた声だったが、その台詞には不穏な気配が覗いている。シイナが同席していた時とは明らかに異なるその態度に、仮名は長い睫毛を揺らしてしばし瞬く。
シイナが気付いたように、仮名も当然自分に向けられたルークの視線には気付いていた。しかし、まさかこうも性急に、直接仕掛けてくるとは思っていなかった。何せルークは悪名高いシャノンの側近――――狡猾な毒蛇の女王の右腕がこうも短絡的な行動に出るのは、完全に仮名の想定を超えていたのだ。
そして仮名は、咄嗟に動揺を隠しきることができなかった。
ルークは粗野で浅薄な男に見られがちだが、その実、周りをよく見ている。シャノンが周りのあらゆることをよく聞いているように――――その感覚情報を補完するかのように常時周囲を観察する癖がついたルークも同等の観察眼が備わっている。その目が仮名の揺らぎを見逃すはずがなかった。
「余計な邪魔とは……また思わせぶりな物言いをなさいますのね、ルーク様」
こんな時いつもの服装ならフードで表情を誤魔化せるのに。そう思いつつもメイドの装いは崩さず、控えめながらも優美な微笑みを浮かべて仮名は答える。
「いやー、クラエスの地下で初めて会った時から気になってたんすよ。シャノンさんに散々脅されてた風な子には見えなかったっすしね。そんな子と再会したと思えば、お誂え向きにシャノンさんがいないじゃないすか。ちょっとくらい仲良くなっておかないと、偶然の女神に失礼ってもんっすね」
一歩。ルークが足を踏み出す。
仮名を見つめるその目には鈍く妖しい光が宿り、まるで何かを訴えかけてくるような視線に、仮名も不思議と目を逸らせなくなっていることに気が付いた。
そしてまた一歩。ふらりと重心を遊ばせているような挙動で踏み込んできたルークの左手が、瞬く間に仮名の華奢な右手首を掴んで優しく引き寄せる。不意にバランスを崩された仮名は驚く間もなく前のめりに転ばされ、ルークの胸に飛び込むような形であっさりと身体の主導権を奪われていた。
自分が意図しない形で距離を詰められた仮名が咄嗟に顔を上げると、その至近にルークの悠然とした笑みが映る。戦闘になればあのアプリコットから心の余裕を奪い取る仮名が、虚を突かれたことでまるで異性に萎縮する年相応の少女のように息を呑んだ。
ルークは仮名のあどけない反応にごくりと喉を鳴らすと、誤魔化す様子もなくまじまじと仮名の顔を覗き込み、整ったその顔の造形を堪能するように見つめる。
「たまにはその場限りのお遊びも悪くない、そうは思わないすか?」
「……お戯れを。そんな風に仰られては……私、勘違いしてしまいますわ」
「勘違いなら勘違いでも僕はいいっすよ。まあ、シャノンさんにバレたら怒られるだけじゃ済まないかもっすけど、それはそれで燃えるっすね」
互いの息も当たるような距離で悪戯っぽく笑みを溢すルークに仮名の身体を縛る緊張が一層高まる。それと同時に、仮名は身に覚えのある昂揚をも確かに感じていた。
現状、仮名が取るべき選択肢は一つしかない。それは彼女が今までにルークに見せていたようにただのメイドとして振る舞うことだ。
攻略戦連構成員の一人であり、≪クレイモア≫所属のプレイヤーメイド。努めて礼儀正しく濃やかに尽くすタイプだが、ただ唯々諾々と指示に従うわけでもなく自発的な判断で動くことのできる人材――――仮名とはそういう人物であり、それ以上でもそれ以下でもない。ルークにそう認識させたままお茶を濁し、彼の誘いをやんわりと断っておくことだ。
しかし、ここでルークの誘いを受けることは仮名にとっても悪い話ではなかった。毒蛇の右腕に貸しを作っておけば、今後も何かと邪魔になるだろうシャノンを少なからず制御できる。シャノンとルークの普段のパワーバランスを考えれば期待値の低い話だが、シャノンの相手をするのが純粋に面倒に感じる仮名からすれば首に鈴を付けるだけでも十分だ。
「ふふ……ルーク様はいけないお人ですわ。誰かに見られてしまったら、私もお叱りを受けてしまいますのに……」
瞬きほどの刹那――――そのごくわずかな時間で答えを出した仮名は衝動を抑えきれない獣のように微笑み、艶かしく舌先で唇を舐める。その攻撃的な笑みにルークが気付いた直後、仮名の左の袖口に不意に現れた銀白色の殺意が解き放たれ、閃光のように虚空を裂く。
ギギィンッ!
短く鈍い剣戟のような金属音が響く。
唯一空手で残されていた仮名の左腕が跳ね上がった瞬間、ルークは半歩後退りながら、躊躇なく喉を狙うその斬撃を右手首のプロテクターで受け流したのだ。まるで、攻撃の直前までその予備動作すら気取られることのなかったその反撃を、あたかも予想していたかのように――。
しかし、その驚異的な反応を以てしても避けきれなかったのか、ルークの右頬に遅れて紅い筋が走る。
「へぇ……」
仮名と同種の衝動に身を委ね、頬から流れる血を軽く拭いながらルークもニヤリと攻撃的に微笑む。対峙する仮名は初撃を躱されたためか露骨に舌打ちし、その左手――フリルがあしらわれた袖から細い糸で繋がれた合計四枚の抜き身の金属刃を引き抜いた。メイド服の装飾の裏に隠されていたそれらが手の動きに合わせてルークの頬を掠め、その内の一枚が薄皮を切り裂いたのだ。
金属板を薄く加工しただけのそれは厳密には武器ではない。鋭利なオブジェクトと接触した際のダメージ判定を利用しただけのおもちゃのようなものだ。それ故武器としてのステータスも持たずダメージにすらならないが、その場を戦場に変えるには十分だった。
「いきなり仕込み袖とか……聞いてたよりおっかねー女っすね」
「心外ですわ。ルーク様からの折角のお誘い、無下にするのも心苦しく思い、胸を借りることにいたしましたのに――――これは私の勘違いか、毒蛇の右腕」
豹変。仮名の纏う外面が、その場の空気が一変する。
同じ格好、同じ姿勢、同じ笑顔――しかし、その目は欠片も笑ってすらいなかった。ただ言葉遣いを変えただけではない、まるで電流を浴びせられているような錯覚と共に膨大な緊張感がルークの身体を突き抜けるように通り過ぎる。スキルか、魔法か、何らかのFOのシステムを用いた演出効果を疑う程にルークにとっては常軌を逸した感覚だったが、真実その劇的な威圧感は所詮ルークが感じる鳥肌の延長――――仮名はその言動以外、特別なことは何もしていなかった。
「オイオイ……シャノンよりやべーじゃねーか、この女」
瞳に破壊的な危うい光を宿した仮名の鋭い視線に射抜かれ、ルークははぐらかすように肩を竦めながら、口の中で微かな呟きを漏らす。
アプリコットまでもが危機感を覚える仮名の剥き出しの本性に、ルークが曲がりなりにも耐えていられるのは、シャノンという身近なサンプルで女の豹変には慣れきっていることもあるだろう。
しかし、それ以上にルークが精神的な余裕を維持できているのは、ここまでの流れがあくまでも計画通りだという一点に尽きる。元々彼女を戦いに引き入れることがルークの狙いだったのだ。誤解を招くような言い方も、煽るように見せ続けていた余裕も、全ては仮名を挑発し、彼女が入念に被っている猫を剥がすための小細工だった。
そもそも予定通りにうまくいったのだから、ルークが慌てる必要など何処にもない――
――はずだった。
不意に仮名の唇が笑うように歪む。
その敵意を象るように、その唇の隙間から犬歯が覗く。
「ッ……!?」
次の瞬間、ルークは咄嗟に後ろに飛び退った。その眼前を、見えない何かが横薙ぎに通り過ぎる。風のような、不可視の切っ先のような、何れにしても殺意の奔流のようなものがルークの鼻先を掠め、そのことにルークは戦慄した。
不可視の武器。スキル。魔法。発声発動――ルークの脳裏を幾つもの可能性が過る。さっきまで何とか保っていた仮名を掌上に捉えたかのような優位感は露ほども残っていない。瞬く間に正常な思考能力をがりがりと削り取られ、ルークが愛用の小太刀【倭刀・神通】を腰から引き抜いたのは、仮名の攻撃を躱してたっぷり数秒間経過してからだった。
「――これを躱されたのはお前で三百回目くらい」
「結構、多いっすね。あんまし効果ないんじゃないすか」
呼吸を整えながら、ルークは何とか言葉を絞り出す。
仮名は未だ軽口を叩ける程の余裕を見せるルークを不思議そうに見つめると、メイド服の懐をごそごそと漁り始めた。対峙するルークから見ても緊張感に欠けた挙動だ。一見、意趣返しの一撃くらい通せそうなくらい無防備に見える。しかし、ルークが動けなかったのも無理もない。何しろ彼女が何気なく口にした『三百回ほど躱された』という不可視の攻撃の正体すら掴めていないのだから。
そして、ルークの思考領域から『反撃』という判断が下りるよりも先に目当ての物を探り当てた仮名は懐から手を抜き、同時に人差し指と中指の間に器用に挟んでいたものを目線の高さに掲げる。
それは一見して親指の爪ほどの大きさの黒い欠片。実体化する前の装備品や各種アイテムを現物ではなくデータとして扱えるようにした、所謂情報の欠片だ。
「――見いつけた」
そう呟くように言った仮名の指先に弾かれたデータチップが、虚空に浮かぶ彼女の装備管理ウィンドウに吸い込まれるように消えた。そして、仮名が手元に新しく出現したコンソールを薙ぐように叩いた瞬間、彼女の全身が淡い光に包まれる。
その光はわずかな時間の中で脈動するように明滅し、やがて砕け散るように消えていく。その光の奥から出現したのは空間から浮き出て見える程に純白の衣装だった。全体に美しい金色の刺繍が施された、持ち主の髪より均一な白光を帯びるドレスローブ――仮名の愛用する戦闘装束【葬送の姫騎装】の一式装備だ。
データチップに納められた状態の装備品は持ち主のウィンドウに読み込ませることで自動的にストレージに収納される。この時、チップの中の装備品が過不足なく全て装備可能な場合、読み込む際に[一式換装]の選択肢が出現する。これはその時身に付けている装備品を全てストレージに戻し、代わりに読み込んだ装備品一式を装備する仕様なのだが、仮名はそれを擬似的なマイセット登録機能として使っていた。
日常的に役割や立場に応じて外面を変えることの多い仮名は、本来装備品をNPCショップ等でセット購入したような状況以外であまり使われないそれを有効利用するため、常時幾つかの装備セットをチップに出力して携帯しているのだ。
装備を使う度に再度出力し直す手間がかかるという質面倒なデメリットはあるが、素早く戦闘準備やキャラチェンジをすませることのできるこのシステムは仮名にとっては極めて実用的なものだった。
「はー……こらまた器用なことを。猫耳メイド改め猫耳白魔導師ってとこすか。なるほど、チップをね。一発芸に使えそうっすね」
瞬く間に早着替えを披露した仮名に、ルークは煽りにも似た賛辞を送る。
案の定、その軽薄な物言いに眉を顰めた仮名だったが、不意にふっと柔らかな笑みを浮かべると、一式換装時に装備されて待機状態になっている武器をわざわざ手動でストレージに戻し、改めて別の武器を装備し直した。
「――安心しろ、死にはしない。でも……」
冷たく嗤う無名の怪物の両手に、淡く冷たい光を帯びた白刃と細身の歪んだフレームを持つ白金銃が出現する。【幻刀・小夜】と【夜心の相曲銃】――――かつてシイナが愛用し、ある時仮名が奪い取った、清廉な見た目とは裏腹に凶悪なスキルを持つ伝説級武器だった。
「――女の皮を剥いだんだ。腕の一本くらいは覚悟してもらう」
仮名vsルーク
その戦いは閃光と共に始まり――――あっけなく終わる。




