(2)『九条椎乃』
非現実の日常には障りあれど、現実の日常に障りなし。
仲良きことは美しきかな、兄妹の現実は今日も変わらず、いつも変わらず。
待ちに待った約束の翌朝、時間は午前9時5分前である。
暇で退屈という単純かつ人間である以上よほどの精神力でもない限り無視できない理由から、ログインしてFOフロンティアで待っていようかと思っていたその時、机の上のPODが再びメールを受信した。
サーバー側から状況回復の周知報告かと一瞬期待してしまった俺は、慌ててベッドから起き上がり、戦々恐々としながらそれを手に取る。
しかし、そのメールは期待を裏切るだけでなく、ただでさえ鬱々と沈んでいた気分をさらに最下層へと向かわせるものだった。
『[刹那]ゴメン。用事があったことすっかり忘れてて、今朝になって思い出したの。夕方には時間空くから、それからでいい?』
ゲンコツくれたろか。
『[シイナ]用事って何なんだよ?』
そのメッセージを送信すると、一分も立たない内にピピッと音が鳴り、返信を告げるメッセージが目の前に展開された。
「やけに早いな」
いつもは主に無視されるという理由からもっと遅くなるのだ。
少し意外に思いつつ新着メールを開いてみると、
『[刹那]遺書書け』
怖ッ!
たった四文字に込められた殺意と害意に手が震え、落としかけたPODを緊急回避でベッドの上に放り投げた。
その時――――ガチャ。
「兄ちゃー……、ななっ、何やってんのっ?」
足をガクガクと震わせつつ、上半身をねじって手を突き出している兄の格好を見れば、ベクトルだけは確実に正しい反応と言えよう。
実の兄に対して、後退りで背後の壁に背中を打ち付けるという過剰なドン引きっぷりを見せてくれたのは二つ年が離れた中学二年生の妹、椎乃だ。
「ちょっとアレなだけで何でもねえよ。で、何?」
「ちょっとアレなだけで十分朝からショッキングだったけど、まぁいいや~。兄ちゃん兄ちゃん、お金貸ーしてっ♪」
「またかよ! 俺もう今だけで今月ギリギリなんだぞ!?」
うちの妹は決して金遣いが荒いわけでもない、むしろどちらかといえば倹約家に近い部類に入るのだが、それでも今時の女子中学生らしくファッションや人付き合いにある程度の金額は投じている。
それで回らなくなった時、俺によく借りに来るのだ。
「兄ちゃん、男じゃん」
「あ、当たり前だろ」
話が話だけに、時事的な理由で声がどもってしまう。
しかし妹よ。
兄はお前の何の脈絡も無い主張にどう反応を返せばいいのか。
「私は女の子」
だからそれがどうした。
「女の方が基本的にお金がかかるの。服とかアクセとか結構高いし」
「だからお前の方が小遣い多いだろうが! それでも俺にたかるってどんな育ち方してきたんだよ! いや、十四年間しっかりと見てきたけども!」
数ヶ月前、椎乃が親を猛説得してなんと俺より高い金額にお小遣いを引き上げさせたのだ。
ちなみに便乗しようと頭を下げたら『お兄たんはバイトしなさいよ』とさすがにイラつく言い方で母上サマに拒否された。
これが不平等以外の何だという。
「だから兄ちゃんはバイトしてんじゃん」
「お前が金借りに来るから、小遣いじゃ回りきらないんだけどな!?」
「じゃあ貸してくれないの?」
貸すけど。
「いつか返せよ」
我ながら妹に対して甘すぎると思うのだが、如何せんコイツが目元潤ませるとどうしても堪えきれない。
その実、本人は確信犯もいいとこなのだが。
「ありがと兄ちゃん! やっぱ大好き!」
バタン。
「……いや、やっぱって何だよ」
一人呟いてみるがどうにもならない。
扉の向こう、リビングの方から『お母さん、私ちょっと出かけてくるねッ』と椎乃のやたら元気な声が聞こえる。
部屋の窓から外を見ると、椎乃が外の門戸を開けるところだった。
椎乃はこっちの視線に気づいたのか、バッと振り返って軍隊式敬礼をするとスキップしながら出ていった。小学生か。
いや、今どき小学生でもやらないんじゃないのか、スキップって。
「二人は来てるのかな……」
刹那にはログインを止められたが、家からは出なかったと言っておけば、たぶんおそらく絶対とは言えない程度の確率で運がよければ、問題はないだろう。ないと信じたい。
机の上のコードを手に取ると、ベッドの上に寝転ぶ。
当たり前のことだが、やはりこの体勢がログアウトした後一番楽なのだ。調子に乗ってあまり長時間やりすぎた後の倦怠感は半端じゃないが。
いつものように、PODと神経制御輪を接続し、数回深呼吸をして心の準備を整える。
ログインがこんなに不安で怖かったのなんか、最初のアクセス以来だ。
「感覚接続」
『声紋認証。[FreiheitOnline]を起動。アカウント[シイナ]でログインを開始します』
身体が浮かび上がる感覚と同時に素早く立ち上がり、全身鏡の前へ――――行こうとして途中でへなへなと脱力し、再び床に膝をつく。
急に動いてしまったせいで気づいてしまったのだ。
その――――胸が揺れた感覚というものに。
初体験だが、一度意識すると思った以上に気になってしまう。女子どもはいつもコレなのか……。大きさにも寄るのだろうが。
そりゃ肩がこるだろうな……。
(やっぱり変わらない、か……)
一回ログアウトして元に戻るなら、どんなによかっただろうと切に思う。
さっきまでは、変わらないだろと思っていた現実的な自分と直ってないかなと淡い期待を抱く自分が共存していたのに。
所謂シュレーディンガーの猫だ。
箱を開けてしまった今となっては、変わっていないという現実が俺の肩に重くのしかかっている。仮想現実のクセに。
かと言って、何もせずに落ち込んでるわけにもいかない。
続いてアイテムボックスを開いてみるが、その中身も昨日と変わっていなかった。八つ当たり気味にアイテムボックスのウィンドウをドラッグして部屋の隅に放り投げ、再びメニューウィンドウを開く。
そして、左下にある[メッセージ]のボタンに触れた。
「えっと……リュウとシンっと」
送信先を指定し、次々とテキストウィンドウの五十音のボタンに触れ、メッセージを綴っていく。
『大事な話があるから、今すぐ家まで来てくれないかな』
文面はまあこれでいいか。
俺が送信ボタンに触れると、
『[竜☆虎]さんにメッセージを送信しています』
『[†新丸†]さんにメッセージを送信しています』
送信確認を報せるメッセージが表示された。
刹那からのメールは二人にも届いているだろうが、さすがの刹那も現実での用事があれば文句は言っても強制はしないことは知っているから、何か用事があれば昨日の時点で言っているはずだ。約束していたのはこの時間だから、二人とも暇ではあるのだろう。
俺はシステムメッセージとメニューのウィンドウを全て閉じ、腕を頭の後ろで組んで部屋に置いてあるベッドに寝転がった。
が、すぐに違和感を感じて上体を起こしてしまう。
さっきからずっと感じていた違和感・異物感。
ただ単に気になるというだけなのだが、事情が事情なだけにどうしても気になってしまう。要するにことあるごとに揺れる胸のことだ。
非現実でありながら現実並の感覚の再現を体現している[FreiheitOnline]において、身体を動かすことに違和感を覚えるのは初めてだった。
女性の胸に対して、一定以上の興味があるのは思春期の男として当然のことだが、それが自分の身体による感覚となると興味対象を通り越してむしろ気味悪さすら感じてしまう。
この手の現象を扱った作品はTransSexual――TSモノとして一部で確立しているらしいが、実際になってみると脳が今まで認識してきた身体との相違が、一挙手一投足で顕著に現れる。
身体を上手く動かせない、というほどではないのだが、こと戦闘に関しては相当シビアな制体が要求される。
個人的にはそこが心配事だった。
Tips:『パーソナル・オンライン・デバイス』
通称“POD”。2032年に発売され、最も普及した携帯用の統合情報処理端末の一つとされる。大きさは旧来の携帯端末と大差ないものの、同時期に注目され始めたVR技術インフラに対応するため高度な情報処理能力を備えている。VRゲームへの接続時は通信データを神経パルス信号に変換する際の演算処理のほとんどをPOD一台で賄うことが可能である。最新機種はPOD-F800番台。搭載OSはNACHBAR9.0。




