(18)『微かに震える』
刹那の部屋に着くまでを含めて、その前で行ったり来たりうろうろしながらどう切り出そうか――むしろ何を切り出すのかと迷っていた時間はほぼ十分。
半ば自棄気味に思考放棄した俺は、それも含めて刹那に訊ねることに脳議決定。まずはノックと、ドアに向かって徐に手を伸ばした。
その時。
「ん?」
いつのまにか周囲に漂っていた仄かに甘い、華やかな花のような匂いに気付き、それに一瞬気を取られる。
「どうしたのですか、シイナ」
まるで狙い澄ましたかのようなその瞬間、突然に背後至近距離一メートル圏内から声がして、心臓が跳ねた。
咄嗟に飛び退くように間合いを取り、いつのまにか死角にいたそいつを見遣る。
「よ、よう、アンダーヒル」
全身を黒いローブ【物陰の人影】で包み隠す≪アルカナクラウン≫影のエースがそこにいた。
ギルド内だからか、包帯で顔を隠していない状態のアンダーヒルさんである。
「……何故逃げるのですか?」
少し不機嫌そうな声音でそう言うアンダーヒルから思わず目を逸らしつつ、「お前がいきなり後ろに出現するからだろ」と言ってやると、アンダーヒルは面食らったような疑問顔になった。
「何を言っているのですか……? 私はモンスターではありませんが」
「当たり前だ、と言うかお前みたいなモンスターがいてたまるか」
自在に姿と気配を消し、遠距離から百発百中。厄介さで言ったら第499層とかそんなレベルの強さの敵だ。勝てる気がしない。
何処か不服そうに憂いの混じった表情ながらも首を傾げるアンダーヒル。
(ん……?)
ふと違和感を覚えた。
目の前に立つもとい佇むアンダーヒルが、いつもと何処か違う気がしたのだ。
珍しくフードを浅く被っているせいかアンダーヒルの顔がいつもよりは見えるようになっていたが、多分それだけじゃないだろう。何気なくその顔を覗き込むと、アンダーヒルは狼狽えたように半歩分身を引いて後ずさった。
「っと、悪い」
「い、いえ。貴方なら構いませんが……どうしたのですか?」
「いや、なんかいつもと何か違うな、って思っただけだけど……」
そこでまた、さっき気付いたあの匂いがふわりと漂い、嗅覚を程よく刺激した。
「ん? もしかして風呂上がりか?」
「事実と相違ありません」
ナニその妙な肯定の仕方。
よく見ると、普段は袖から見えている【黒い包帯】も着けていないように見えた。
風呂上がりでは多少暑いのだろう。フィールドではほぼ外さない包帯も、ギルドハウス内はやはり別なのだ。
さすがに身体の方には包帯を巻き付けてあるのだろうが。
何せアンダーヒルの防具【物陰の人影】は、強力すぎるスキルを持つ代わりにインナー表示を全て消失させる、気違いレベルの謎仕様装備。
恐らく、大会で防具製造の権利を得たアンダーヒルが注文した姿と匂いを完全に隠蔽するスキル【付隠透】のバランス崩壊っぷりに対して、ROLの連中が用意した代償なのだろうが、それにしたって色々危ない装備だ。
閑話休題――――まだ違和感がある気がする。
長々とこの世界にいるわけだが、フィールド攻略において違和感というのは結構重要な判断基準になったりする。
アンダーヒル辺りからすれば、そういう直感的な――感覚的な根拠のない要素は混乱を招くとか思われていそうだが。
「ま、別に攻略するわけじゃないし――」
「何がですか?」
「あ、いや。何でもない」
しまった、口に出てたか。
怪訝そうなアンダーヒルの視線をどう逸らそうか、と考えを巡らせ始めると、
『[アプリコット]さんからメッセージが届きました』
ちょうどそのタイミングでそんなメッセージウィンドウが開いた。
「誰からですか?」
「アプリコットだ。て言うか、お前なんでメッセージが来たことわかるんだよ」
「貴方の各動作時の癖は概ね把握していますので」
どんどん人間からかけ離れた何かに変わりつつあるようです、この子。
無感情正視線でメッセージの開封を促してくるアンダーヒルの意向に従って、メッセージウィンドウを開くと、
『[アプリコット]アンダーヒル攻略するなら、一級フラグ建築士名誉指導顧問兼無意味な演出家のボクが全面協力しますよ♪』
リアルタイムで俺の会話ログ見てるらしいな、あの馬鹿。
「何が書かれていたのですか?」
俺の表情でしょうもない内容だと察したのだろう。アンダーヒルの声にも、やや呆れ気味の嘆息が含まれていた。
「お前に勝ちたいなら力を貸してやる、って感じの内容だな」
俺は可視化したメッセージウィンドウをドラッグしてアンダーヒルに放ってやる。
「そういやお前とアプリコットで決闘とかやったことないな」
「一対一であれば、私程度がアプリコットに勝てるとは思えませ――」
メッセージに目を通し始めたアンダーヒルの声が不意に途切れた。
「アンダーヒル、どうした?」
「いえ……何でもありませ――」
また途切れた。
アンダーヒルは驚いたように半歩後退り、虚空を見詰めて再び嘆息する。
「アプリコットからお前にも来たのか?」
「よくわかりましたね」
「あの馬鹿のやることはある程度慣れさせられてるからな。それにこれでも……というかこっちだってお前のことはそれなりに見てるつもりだしな」
「そう、ですか……」
「何が書いてあったんだ?」
アンダーヒルが空中で数回、指を動かし――――ピシリと硬直した。
そして次の瞬間、かぁぁぁっとアンダーヒルの頬が朱色に染まる異常現象を確認、続けてあわあわと唇を震わせ、へなへなと脱力したように崩折れてしまう超常現象まで目の当たりにした俺は処理落ちでフリーズ状態に陥る。
(……え゛)
――何が書いてあったんだよ!? て言うか何が書いてあったらあの無表情娘がこんな状態になるの!?
廊下にぺたんと座り込み、口元を右手で、左胸を左手で押さえて何度も深呼吸しているアンダーヒルに干渉するべきか否か逡巡迷った俺は、
「おい、アンダーヒル、大丈夫……か?」
その場に片膝立ててしゃがみ、何とかそれだけ声をかける。
「大丈夫ですので、お気になさらず。それと今は私に手を触れないでください……」
「お、おう……」
アンダーヒルは少し雑な手付きでメッセージウィンドウを投げ捨てるような動作をすると、壁に手をついてゆっくりと立ち上がる。まるで身体の制御駆動を確かめるような、少し危なげな動作だった。
余裕がないことを顕著に示すように、アンダーヒルが浅めに被っていたフードが背中側にストンと落ちてしまう。
(あー……さっきの違和感はこれか)
こっそり納得しつつ、アンダーヒルにわずかに遅れて俺も立ち上がる。
「何て書いてあったかってのは聞かない方が良さそうだな……」
「はい、見せられません……。私の、その……内面に直接触れるものですので」
普段はほとんど疲れた様子を見せないアンダーヒルだが、今は精神的にどっと疲れたような表情が表に出ていた。
アプリコット怖ェ……。
俯いたまま、さらに三十秒ほどを深呼吸に費やしたアンダーヒルは、何処か気まずそうにゆっくりと顔を上げた。
「伸ばしたんだな、髪」
いつも世話になっている分、気を利かせてやろうかと何事もなかったように別方向――さっき気づいた違和感の正体に話を逸らしてやると、アンダーヒルはそこでフードが落ちていることに気付いたのか後頭部に手を遣った。
この間までショートだった黒髪は、肩下辺りまで伸びたセミロングになっていた。
「はい。少し気分を変えようかと」
「前のも良かったけど、それも中々似合ってるよ」
俺がそう言うと、アンダーヒルは物思い顔で俯き、首の後ろで伸ばした部分を整えるように手で触れる。
そして、フードを今度はいつも通り少し深めに被ると、再び俺に向き直った。
「ありがとうございます。ところで……私は質問に答えて貰えるのでしょうか」
質問? と首を傾げると同時に、最初に聞かれたことを思い出す。
アンダーヒルは、刹那の部屋の前に立っていた俺に「どうかしたのですか?」と訊いてきたのだった。
「んー……、まぁ、刹那とちょっとな。喧嘩みたいなもんだよ。何で怒ったのかはいつも以上にさっぱりだけどな……」
「“Dear my princess”……ですか?」
「どうして知ってるんだよ……」
「私にも同じ文面のメッセージが送られてきていますので」
そう言えばアンダーヒルにも送ってたな。テルのヤツ、コピペしやがったのか。
「……そうだっ、アレは俺が書いたんじゃなくて……だなっ」
「わかっていますよ。先ほどバスルームでサジテールに直接聞きましたので」
「あ、そ、そうか……」
良かった。
「それで一応刹那に謝りに来たんだよ」
「そっとしておいた方がいいと思います」
アンダーヒルに一言で切り捨てられた。
「マジか……」
アンダーヒルが言うのなら、少なくとも間違いではないのだろう。
「まぁ、しばらく一人にしとくか」
「付いてきてください、シイナ」
刹那の部屋の前から歩き出そうとした時、アンダーヒルに手招きされた。
「何処に?」
「私の部屋です。ちょうどいいので、GL会談の打ち合わせをしましょう」
「ん、了解」
最後に一度だけ沈黙する刹那の部屋のドアを振り返り、溜め息を吐きつつ俺はアンダーヒルについて廊下を歩き始めた。
「バカ、シイナ……」
誰もいなくなった廊下に、微かに震える呟きが薄れて消えた。




