(47)『一ドット』
「びっくり」
盲目にして無貌の者の触手から自力で逃れたスペルビアは何事もなかったかのようにぱたぱたと戻ってきて、
「シイナ?」
緊張感のない声で半開きの目を俺に向けてくる。そしてその椎乃と同じ緊張感限定の雰囲気壊し屋はくるりとニャルラトホテプに向き直ると、ちゃっかり回収していたらしい大鋏の刃を開いて素手で掴み――ガチャンッ。
刃の部分が大きく開いて、中心のボールが前面に押し出されるような感じで折り畳まれた。そして逆に重なるように回ってきた鋏の持ち手部分の一部がスライドされて固定され、スペルビアはその部分を右手で握って何かを引くように右腕を引いた。
(弓……!?)
「えい」
無造作に引いた弓からバシュッと魔力装填らしき光矢が放たれる。
光矢は未だ呆然とした様子のニャルラトホテプの左胸に突き刺さり、
ガァンッ!
同じく空気を読まない(今回はそれが正しいのだが)アンダーヒルが、コヴロフでその光矢ごとニャルラトホテプの胸を撃ち抜いた。そして砕け散った光矢の破片が周囲に爆散し、蠢く触手をピシピシと抉る。
ニャルラトホテプが中身を全てぶちまけるような大穴に視線(目はないが)を落とした、その瞬間――ズルッ。
下半身がまるで液体のように形を崩し、上半身も飲み込まれるようにそのスライム状の塊の中に沈んでいく。
「愚ヤ」
顔が沈み込む直前、バキバキッと頭の下部に開いた口のような形の裂け目は、口角を釣り上げながらそう呟く。
その声は、たったふたつの音に名状しがたい薄気味悪さを孕んでいて、思わずその場にいた全員が後ずさった。
「人間との遊戯は暗黒王の時以来ダッタカ」
くっくっと再び冷笑音を漏らしたニャルラトホテプは肉塊に沈み込むように姿を変え、残された身体には既に原形もない。
「ッ!? ……離れろ!」
嫌な予感がして、俺は警告と同時に後方に跳躍し、距離を取る。しかし、その警告に反応できたのは、アルトだけだった。
ずぅうううううんっ!
地面が揺れ、爆発的に膨れ上がった巨大な肉塊にシンとスペルビアの身体が瞬時に呑み込まれた。
「シンっ、スペルビアっ!」
ィイイイイイイッ!
女の悲鳴のような鳴き声をあげながら姿を現したのは、無数の触手に支えられた圧倒的な質量差の巨大な怪物。
這い寄る混沌。
エンカウント時の姿だった。
「大丈夫か、アルト!」
巨大なニャルラトホテプの身体で見えなくなったアルトに呼び掛けると、
「頼んでもないあたしの心配ばかりしてんなよ、シイナお兄ちゃんよ」
音もなく飛び降りてきたアルトは、背中の翼を折り畳んで具現化を解く。
「自分より格下だからってあたしが四竜の一翼だって忘れてないだろうな? 自分も守れないヤツが隊長張れるワケねぇだろ」
「頼もしい限りだ」
ビュルンッ!
鞭のようにしなって伸びてきた触手を左右に飛んで躱す俺とアルト。
一撃で地面を割り砕いた強烈な一撃だが、動き自体は避けられないほどの速さではない。大きさと重さのせいだろうが。
「ご主人様」
不意に背後からドカッと蹄の音がして振り返ると、サジテールがカッカッと四本の駆動脚を踏み鳴らしながら立っていた。
「ここは任せたよ」
「へ?」
唐突な宣言に思わず間抜けな声を上げると、サジテールはくすりと笑みを浮かべ、
「私のご主人様に不可能は許さないからね♪」
そう言って俺を飛び越えた。
「ちょっ……と待て、テル!」
俺の制止を無視したサジテールは触手を軽々躱しながらニャルラトホテプに接敵し、腕を振りかぶった。
「零距離射拳撃!」
正拳が肉に食い込むと同時に腕の射出器から金属矢が、ニャルラトホテプに撃ち込まれた。
途端――ギュルッ。
埋没したサジテールの拳が引きずり込まれる。
「ん、っとあんまり急かさないでよ。あんまりがっつくと嫌われるよ? 保険保険の不可能性領域。じゃ、行ってくるよ、マスター」
止める間もなく、止める隙もなく、サジテールまで混沌色の巨肉塊に呑み込まれた。
「おい、あのNPCはナニ考えてんだ!?」
「俺にもわからん……!」
再び横に跳躍し、触手の一撃を躱す。アルトも同じ方向に逃げてきた。
「……浄化せよ、聖寂の投擲槍!」
伸びてきた触手を群影刀で切り刻み(微々たる)ダメージを稼いでいると、ネアちゃんの魔法詠唱の声が聞こえ、直後に投射された光輝く十字架を思わせるフォルムの槍がニャルラトホテプの円錐形の頭部に突き刺さった。
次の瞬間、まるで吸い込まれるように圧縮された半径一メートル周囲の肉がその槍と同時に消滅する。
ャァアアアアアアアアアッ!
悲鳴を上げたニャルラトホテプの体力ゲージが削ぎ落とされる。
まるで制御ができなくなったかのように触手が手当たり次第に振り回され、その拍子に絡み合った触手の軌道が突然変わり、アルトと一緒にアンダーヒルとネアちゃんのいる場所まで押し込まれる。
「大丈夫ですか、シイナ、アルト」
「こんぐらい大したことないよ」
一応群影刀は挟んだしな。
その間に、ニャルラトホテプはバキバキと肉で新たな形を作っていく。
まるで機械のような印象すら受ける黒々とした光沢を放つボディ。
細く、だが強靭な印象を拭えない動物的なフォルムの四本足。
背中に生えた天を向く翼。
触手の束が尻尾のように伸び、その頭部にはやはり顔がない。
「アンダーヒル……」
思わず解説を求める。
「顔のない黒いスフィンクス。ニャルラトホテプの千の顕現のひとつです」
新しい弾倉を再装填したアンダーヒルが相変わらずな坦々とした口調でそう呟く。
「穏便になぞなぞで済んだりしないかな」
「スフィンクスと言っても姿を形容するのにちょうどいい対象だったと言うだけです。そしてわかっているとは思いますが、FOにおいて不定形のモンスターが動物的な姿に変化した場合は大抵――」
おもむろに大罪魔銃を向け、引き金を引く。
しかし発砲音が耳に届いた時、スフィンクス・ニャルラトホテプは元の場所から数メートル横で身体を低くして止まった。
「――速いです」
あの巨躯で拳銃の銃弾を躱すほどに。
ヴヴゥ……ザザッ……ザザァッ……!
まるでノイズのような音を不気味に響かせたスフィンクスは前足をググッと押し下げ――ダンッ!
俺たちに向かって跳躍した。
ガァンッ!
コヴロフが火を噴く――――が、
ギィンッ。
「「「「ッ!?」」」」
戦慄が走った。
その瞬間、後ろから脇の下を通った腕に引っ張られ、空中にさらわれた。
十メートルほど上がったところで、スフィンクスが俺たちのいた辺りに着地。地面が割れ、地響きが遠くに伝わっていく。
(……ちょっと待てっ)
コヴロフの銃弾を弾くだけにとどまらず、ライフゲージが微動だにしないヤツにどうやってダメージを与えろと……!?
一瞬、跳弾反射スキル【跳弾装甲】も疑ったが、アンダーヒルにダメージは返っていない。
「重量はギリギリなんだから、あまり動くなよ、シイナ」
どうやら俺を捕まえて一緒に飛びあがったのはアルトらしいな。
「太陽の神の元に集いし光輪よ、月の神の束ねし光槍よ。二神の意思を代弁し、我ここに命ずる。太陽の光輪に導かれ、月の蒼光は我が手の内に集束せよ。天の火と魔の光にて敵を穿て……」
ネアちゃんの詠唱と共に、突き出した手の先に平行に並んだ三つの光輪が浮かび上がり、その中心に蒼い光が生まれ始める。
「極光の殲滅槍!!!」
パァッと瞬いた光槍は、ネアちゃんの手から放たれる極太のレーザーとなってスフィンクス・ニャルラトホテプの真上から撃ち下ろされた。
ズンッ!
背中に強力な光撃魔法を受けたスフィンクスは、磔にされるように押し込まれ、四本の足を広げるように地面にめり込む。
「……やったか……?」
アルトの不安げな声。
煌めく光に視界が半ば閉ざされているせいで、敵のライフゲージがよく見えない。しかたなくメニューウィンドウを開いて確認しようとしたその時――グググッ。
「ッ!?」
光撃に押されながらも、スフィンクスがゆっくりと立ち上がった。
その頭上、わずかに残った体力ゲージは――――一ドットも減っていなかった。




