(18)『誉められたものじゃない』
ォオオオオンォオオオオン。
夜鬼から発せられるくぐもったような不気味な旋律が、絶え間なく周囲へ響き渡る。
今更ながらにそれが他のモンスターを呼び寄せるためだったのだと気づいたアンダーヒルだが、『魔力がある内に妨害スキルを使っておけば』と後悔する余裕は今の現状皆無だった。
「あふっ、くっ、ぅくふぅうっ、やっ、やぇっ、やえへぇ……」
地面に四肢を投げ出したような体勢のアンダーヒルは十二体の夜鬼の洗礼に為す術なく身悶えしていた。
元より“くすぐったい”という感覚は外部刺激の中では快楽寄りに分類されるためか、アンダーヒルの頬は上気して紅く染まり、底抜けに黒い瞳は艶っぽく潤む。
普段、疲れや痛みすら他者の前ではほとんど表に出さない彼女も、この時ばかりは疲れきった表情で霞んだ視界に映る混沌とした奇妙な色の空を見上げ、既に四肢の拘束が解けていることに気づいてもいない。
常に冷然とし、感情すら疑わしいぐらい澄ました普段の彼女を知っている者が見ていたなら目を見開いて驚くだろう(それ以前に助けに入るだろうが)極端に輪をかけて希少なアンダーヒルの乱れた姿である。
もっとも、どんなにクールな人間であろうが堪えられない“くすぐる”という外部刺激に対する生理的な反応の結果であり、そこに彼女の感情が入る余地はないのだが。
それでも時折唇に歯を食い込ませてまでも声を抑えようとするのは人としての矜持なのだろうか。
「……ふ、くぅ、ん、んっ……」
首筋や耳、脇、腹、脇腹、足の付け根、内腿、足の裏、足の指の間……つまり身体中至るところを、骨張った指の感触がまさぐるように這い回り、アンダーヒルの身体が敏感な反応を示したところばかりを夜鬼は執拗にくすぐり続ける。
さらに悪いことには、夜鬼に個体毎で疎通を図るほどの頭は持っていないらしく、何度も何度も同じところをくすぐられる。普段なら平気な部位でも、何度も何度も擦られたり撫でられたりしては平時よりその感度が高まるのも当然である。
「ひゃっ!?」
急に冷たく湿った何かが内腿に触れ、驚いたアンダーヒルはビクンッと一瞬わずかに身体を跳ねさせる。
その要因、彼女に触れたものは夜鬼の黒い尻尾だった。引きずって歩いていたわけでもないだろうに、泥にまみれている。
「ふっ、くっ……んんっ」
名状できない感覚がアンダーヒルの身体を恒常的に襲ってくる。
男に対してはからかい目的、女に対しては悪戯目的のスキンシップが大好きなアプリコットと過ごすことも多くなった昨今、アンダーヒルとてその標的から逃れられるわけではない。むしろ『クールっ娘のギャップほどそそるものはねぇんですよ』と標的にされることがもっぱらで、他と比べても同じぐらいアプリコットのスキンシップに辟易しているのはシイナぐらいのものだろう。
大抵は【付隠透】を使ってまで逃れているのだが、それでもアンダーヒル並みに忍び足に長けたアプリコットのこと、狙い澄ましたような不意打ちには対処しづらい。
その不意打ちでアプリコットの好む悪戯のひとつが“くすぐり”だったわけだが、アバターの感覚に自動的にシステムが干渉する攻撃による感覚と、ユーザーの日常行動による感覚とではそもそも効力が違う。
「ひっ、ひはっ……たしゅけ……」
一度くすぐられるだけでも、ゾクッと悪寒にも似た電流が肌のすぐ下の辺りや背骨の回りを駆け抜ける。
それが入れ替わり立ち替わり十二匹二本の腕と尻尾計三十六本分もその責め苦に加わっているのだ。休まる間などなく、アンダーヒルの理性は蝕まれていく一方だった。
何の表情もわからないのっぺらぼうを微動だにさせず、腕や尻尾を忙しなく蠢かせる夜鬼たちは、アンダーヒルの顔を覗き込みその反応を注視する。
その時、ピタリと手が止まった。
アンダーヒルはようやく息苦しさとピリピリとした快感から開放され、無意識の内に何度も深く呼吸する。
「も……もうやめへくらひゃ……」
呂律がまだ回っていない。
ォオオ……。
突然、周囲で雄叫びを繰り返していた夜鬼が雄叫びをやめ、同時にアンダーヒルに群がって絶え間も容赦もなく無心にくすぐっていた十二体もアンダーヒルから退いた。
そして次々とコウモリのような翼を広げて、飛び上がっていく。
「はぁ……はぁ……」
真っ白になっていた頭の中が少しずつ回復し始めるものの、大容量の未体験感覚にアンダーヒルの頭脳は思考停止し、状況が把握できない。
身体同様、引き攣ったように痙攣する腕に力を込めて起き上がろうとするが、肌が過敏になっているせいかローブの布地に触れるだけでピリピリと痺れ、まともに動かせそうもないと諦め脱力する。
ズズ……。
(何の音……?)
必死に断片を集め、思考回路を開こうとするが集中できず、すぐに散ってしまうばかりで考えがまとまらない。
(何故ナイトゴーントは退いて……ティンダロスが消えたのも気になる、のに……)
少しずつ自分を取り戻しつつある、と考えたアンダーヒルは、手足を少しずつ動かして、一度うつ伏せに引っくり返り、四つん這いになって身を起こす。
その瞬間、持ち前の急冷性能が、スイッチを切り替えるがごとく脳を回転させ、
――さらにまずい……!――
警告を発した。
ズズ……ズンッ!
何かを引きずるような、もとい何かが這いずるような音が地響きと共に止み、周囲が広く陰った。
(夜鬼がやっていたのはあくまで時間稼ぎであり、その間も雄叫びによって位置を発信し続けていた……。そして夜鬼が立ち去り、異形犬が逃げたということは圧倒的に上位の存在が現れたという……)
戦慄する。
そして顔を上げたアンダーヒルは、尻餅をつくようにその場にへたり込んだ。
クトゥルーの知識にもある程度通じているアンダーヒルは、そこにいた異形の敵の姿を見て、昔に得た知識を即座に解凍した。
「シアエガ……!?」
大きな赤い目玉と、黒い触手の巨大な塊という姿を持つ旧支配者だ。
エンカウントアラートが出ていないということはボスではないようだが、夜鬼や異形犬と同様の強さとは思えない。
アンダーヒルは、震えの止まらない自分の手を見下ろし、じり、と後ずさる。
しゅるっ。
ほどけるように伸びてきた触手がいたぶるようにゆっくりと、アンダーヒルに近づいてくる。
(……か、身体が……ッ)
アンダーヒルのすぐ手元には残弾のある【黒朱鷺】があるのに、手を握るための力すら出ないのだった。
シアエガの触手が、アンダーヒルの細い腕や脚に掛かる。
「んっ……」
ヒヤリとしたその感覚にアンダーヒルの喉から声が漏れる。
シアエガはまるで戦利品のようにアンダーヒルの身体を浮かせ、高く掲げて、触手を回収していく。
ギョロギョロと蠢く目玉が近づいてくるにつれ、アンダーヒルの表情が悔しさに歪む。
そして、アンダーヒルが目を瞑った瞬間だった。
「女性に対する扱いとしては誉められたものじゃないよ」
涼しげに聞こえてきたその声に、思わず目を開けると――ヒュンッ!!!
白刃が煌めいた。
アンダーヒルの視界に映るのは、千切れて乱れ飛ぶ触手の破片とミストルティンの優しげな微笑み。
支えがなくなったアンダーヒルの身体は、そのまま地面に落ち――ドサッ。
「っ痛……!」
腰を強く打ち付ける。
「【剛力武装】……俺の仲間に手を出したんだ。どうなるかはわかっていたんだろう?」
風切り音に肉を裂く音が重なり、無数の触手が次々と切断され、塊状の触手もボロボロと切り分けられていく。
「最後は任せたぞ、スペルビア」
太い声に続き、「うぃ」と了承の声がアンダーヒルの耳に入ってきた。
「【機構変動】パワー・ペタ。いっくよー」
平坦に響くその声に続いて振り下ろされた肥大巨鎚が、シアエガの残りライフと身体を同時に磨り潰した。




