(16)『死力を尽くして』
(まずい……)
一部のパターンを除いて何時如何なる時も異常な冷静さを保つアンダーヒルだが、今現在、彼女にしては珍しく焦っていた。
「はぁ……はぁ……」
息苦しい。
今までにはどれだけ長時間動き続けても、息が荒くなる程度だった。しかし、追われながらの全力走となれば話は別だ。ことさら地面はぬかるんだ泥。転ばないように集中するだけで疲労蓄積は加速する。
実は散り散りにされた直後から、アンダーヒルはあるモンスターたちに追いかけられ、もとい、追い回されていたのだ。
執拗に、ひたすら執拗に追いかけてきているモンスターの名前は――『ティンダロスの猟犬』。
(私の記憶が正しければ、クトゥルー神話に登場する怪物犬……!)
アンダーヒルの記憶する限りの神話・伝承の怪物の中で、ひとたび出会えば最も厄介な存在と断言できる。
クトゥルーの世界観において、“時間”が生まれる超太古には、異常な“角度”を持つ空間が存在していたとされる。
ティンダロスの猟犬は現在もその世界にのみ存在している。そして絶えず飢えているため、獲物の“匂い”を知覚するとその獲物を捕らえるまで時間や次元を超えて永久に追尾する。
その執念深さは非常すら凌駕し異常の範疇に達している。
アンダーヒルは名前こそ知らないが、異形犬の保持するスキルの効果もその特質に由来する。
ティンダロスの猟犬は、九十度以下の鋭角を出入り口にし、その空間からこの世界に出現する。それを可能な範疇で再現した条件付き空間移動のスキル。
それが【病刻みの偏執者】だった。
「はぁ……はぁ……っ」
反撃も考えることができない。
すれば一時凌ぎに時間を稼ぐことはできるだろうが、その“ズレ”は間違いなく後に響いてくる。
何よりも厄介極まりないのは、アンダーヒルだけの持つ準ユニークスキル【付隠透】は音と光に関する物理現象に干渉することができるが、連中は匂いに頼って追尾してくることだった。
(くっ……!)
背後から迫る殺気を過敏に察したアンダーヒルが横に飛び退くと、ちょうどその場所を異形犬の細長い舌が、鋭い牙の生えた顎が通過する。
危なかった、と無意識に嘆息を漏らした時だった――ズルッ……。
(……!?)
ズシャ。
目前に迫ってきた地面に四つん這いになり、アンダーヒルはようやく足を滑らせたことに気づいた。すぐに身体を起こし、半ば尻もちをつくように身体を引きずり、背後の岩山まで後ずさる。
しかしその間に、追いかけてきていた異形犬に追い詰められる形で取り囲まれてしまった。
(……総数二十三……)
対多数は狙撃手が最も相手にしてはいけない状況だ。
周囲を固める異形犬の一頭が前に出て、じりじりと歩み寄ってくるのを、アンダーヒルはわずかに緊張の色を呈した表情で見つめ返す。
そして、ぐぐっとその異形犬が重心を下げた瞬間――バッ!
六枚翼を広げて地面を強く蹴った。
アンダーヒルはすぐに十メートルの岩山の上まで飛び上がる。
その瞬間――ズシッ。
(な……何が……っ!?)
揚力が消えたかのようにガクンと揺れ、次の瞬間から降下が始まった。
瞬く間に岩山を駆け上がって来たらしい数頭の異形犬が、六枚翼の下辺翼に食らいついたのだ。
結果、重量制限を超えた。
(引きずり下ろされる……!)
ズシッ。
さらに異形犬が噛みついたのか再び重量が増え、ついに残っていた揚力がなくなった。
後は、自然落下だった。
意識を集中できなくなった翼が、空中で自然消滅する。そして――ドサッ。
背中から身体の芯を打たれたような衝撃が襲い、鈍痛と共に身体に痺れるような感覚が走った。
「くぅ……っ」
ォオオオオンッ。
謎の音にアンダーヒルが目を開けると、十体前後の黒い影が空を舞い、次々と地面に降りてくるのが視界に入る。
(夜……鬼まで……っ!?)
聞こえてきたのは夜鬼の雄叫びだった。
周囲に群がってきた異形犬からも酷い刺激臭がする。
(ここで負けるわけには……)
アンダーヒルは軋む身体に無理矢理力を入れ、立ち上がった。
ライフは残り半分弱。十メートルを落下して即死判定を受けなかっただけ僥倖だ。
「影魔族能力【影魔の掌握】」
辺りが薄暗いため淡く見えるアンダーヒルの影が、突如漆黒に染まる。
その瞬間、空から奇襲するように飛びかかってきた夜鬼が、一瞬の交錯で無数の肉片に加工された。
まるで花咲くようにアンダーヒルの足元から噴き出した黒い塊が、次から次へと薄く鋭く変化していく。
「命を惜しまない者から前にどうぞ」
言葉が通じるわけもない相手にそう警告の言葉を投げ掛ける。
「私は貴方たちのような無限の存在ではありませんので無限に貴方たちに付き合うことはできませんが――」
ガジャッ。
狙撃銃の遊底を操作し、次弾を薬室に押し出すと、ほぼ同時に弾倉を新しく入れ換える。
その間、アンダーヒルの周囲を守っているのは影そのものの召魔――人喰い影。
影魔系種族3種にのみ使役を許されたそれらは、動くモノを切り裂き、動かないモノを喰らう召喚獣の頂点にある存在だ。
その鋭い鎌のような刃を彷彿とさせる薄い身体で、近づこうとする異形犬前肢を斬り落とし、夜鬼の腕を縦裂きにする。
「――私は有限の存在らしく、死力を尽くして受け入れましょう」
さらに【正式採用弐型・黒朱鷺】をローブの中から引き抜いた瞬間、人喰い影たちがボロボロと消滅し始めた。
残り少ない魔力で召喚したのだから、アンダーヒルもこのタイミングでこうなるのはわかっていた。
もう魔力は使えない。スキルも魔法も封じられ、ここからは身体能力と銃の性能のみの戦いになる。
近接戦。
たった一人で。
ブルッ。
周りの影たちが完全消滅した途端、身体を襲った寒気に思わず身震いする。
(怖い……)
孤立して戦うということは、後がないということだ。自分が弱ければ、その時点で全て終わってしまう。
だからこそ、自分自身を信じなければならないのに、アンダーヒルは自分の身体を信じることができないのだ。
突然足が動かなくなる感覚を、それに対する恐怖を、彼女はまだはっきりと覚えているが故に。
ォオオオオンッ!
そして戦いを告げる号砲のように響き渡った夜鬼の雄叫びは、周囲の他の個体も巻き込み、異形犬を鼓舞する――ガァンッ!
紛れもない号砲、【コヴロフ】の銃声と共に千切れた夜鬼の手首から先が地面に落ちた瞬間、浮き足立っていた異形犬たちは後押しされるように次々と飛びかかってきた。
長くなったので二部に分けました。




