(30)『マニピュレーティング・モーション』
第一次戦闘介入型NPC大戦から逃げ出した俺は、背中にかいてしまった冷や汗を流すため脱衣所に来ていた。
廊下側の扉を閉め、【群影刀】と【剣】をかご代わりの引き出しに仕舞い、フィンガーレスグローブ・左だけの肩当て・爪付きブーツ、さらに胸当て布と腰巻きを外してインナー姿になる。
(かなり慣れたとはいえ、やっぱデカいよな……これ)
などと考えつつ、手を後ろに回して結び目をほどく。この身体になってからだ。背中に手が回るようになったのは。
鏡に背を向けて脱いだインナーも引き出しに突っ込み、カラカラと屏風状のガラス戸を開けてなぜか湯気が立ち込める浴室に足を踏み入れる。
――そして湯船に眠り姫。
(なっ……!)
思わず叫びかけた口を自ら塞ぎ、仰け反り気味の姿勢で硬直する。
いつから入っているのか、スペルビアの上気した頬は淡い朱色に染まり、呼吸のたびに上下する胸には珠露の雫が光っている。
(い、意外と……)
背後からガラス戸が勝手に閉まるカラカラという音が聞こえて、はっと我に返る。
これは不幸中の幸い、スペルビアは寝ている。これはいつかの刹那と同じ状況、しかも障害もいない。湯船に入ってるわけでもない。
そのまま逃げればいいのだから。
例え偶然に不幸が重なったとして、スペルビアが目を覚ましても、彼女は俺が元来男であることは、知らないのだ。
ボケたところのある彼女ならごまかせる自信がある。
思わず手にしていたバスタオルを身体に巻き付けつつ、振り返って引き手に手をかけた。その時だった。
「アンタのせいで無駄に汗かいちゃったじゃないのよ!」
「まあまあ刹那んそう言わず。たまには女同士、裸の付き合いでもしながらガールズトークに花咲かせてりゃいいんですよ。あ、アンダーヒル、よかったら胸流してあげましょうか?」
「言っておきますが、私は先ほどのハラスメント行為を許したわけではありません。次に私の身体に無断で触れたらどうなるかは覚悟しておいてください」
「ていうか、背中じゃないトコにはツッコまないの、アンダーヒル……?」
騒がしくそんなことを話しながら、擦りガラスの向こうに人影が現れた。
少なくとも刹那・アプリコット・アンダーヒルがいるようだがそれ以上はよくわからないな……。
……。
…………。
……わからないな、じゃねえだろ、馬鹿か俺は! 偶然に不幸が重なるどころかそれに拷問と死刑が加わってきたぞ……!?
「待ってください、刹那、アプリコット。誰か入っているようです」
引き出しに気づいたのか、気配を察したのか、アンダーヒルがガラス戸をわずかにスライドさせてきた。
とっさに屏風状の陰にしゃがみこんで難を逃れたものの……。
「中でスペルビアが寝ていますね」
難を逃れてねえ! むしろ悪化しただろ! 今見つかった方がまだマシだっただろ絶対! 何がとっさにだよ! 次に入ってくるのは百パーセント裸になったうちの女子陣で一番危険な三人なんだぞ!? どんな奇跡が起こったら、見つからずに切り抜けられるってんだよ!
「先に入ります」
目まぐるしくセルフツッコミを交わしていた俺の脳が、そう言ったアンダーヒルの声を知覚する。
アンダーヒルが入ってきちまった……!
「アンダーヒルは外すものが少なくていいですねぇ」
再び分断された脱衣所の方から衣擦れの音と共にアプリコットの声が聞こえてくる。
そしてアンダーヒルはそれに何かを言い返そうとしたのだろう。脱衣所の方に振り向こうとして――俺と、目が合った。
一応その手にバスタオルを携えてはいるが、それはまだ畳まれた状態で、巻き付けられているわけではない。
茫然としたまま硬直したアンダーヒルはその口元と眉をわずかずつ歪めていく。
「待て、アンダーヒル、これは……」
無声音で言い訳をしようとした瞬間、感情を失っていたアンダーヒルの目が針のようにキッと俺を睨み付け――しかしすぐに脱衣所の方に目を遣り、
「――声を出さないで下さいッ――」
無声音でそう言って、ばさぁっ。
大急ぎでオブジェクト化した黒い何かを羽織り、俺の肩に腕を回すような形で抱きついてきた……!
「な、何やって……」
「【付隠透】」
視界が一瞬揺らいだ。まるで透明色のベールに包まれたみたいに。
その時再びガラス戸が開き、身体にバスタオルを巻いたアプリコットと刹那が入ってくる。
さっきまで立ち込めてた湯気は何処行ったんだよ!
「あれ? アンダーヒル?」
刹那がキョロキョロと辺りを見回し、不思議そうに首を傾げる。
「姿を隠してはいますが、浴室内にはいますよ、刹那」
アンダーヒルが顔を真っ赤にしながらも平然を装って受け答えしている。
「なんで隠れてんのよ」
「アプリコットのハラスメント行為に対する防止策です」
刹那やアプリコットから、俺を隠そうとしてくれているのだ。相変わらず冷静な思考に戻るのが恐ろしく早い。顔を真っ赤にして、彼女も恥ずかしいはずなのに、まるで頭と身体がそれぞれ別々に稼働しているかのように淡々と。
「まあボクは別に何もするつもりはなかったんですけどね」
「ではなぜ刹那の背後で指を球を掴むように屈伸しているのですか?」
「は? って、ちょっ……馬鹿じゃないの、アプリコット! ふっ……くっ、や、やめなさいってのッ!」
ドガァッとアプリコットの顔面が床のタイルに叩きつけられる。その瞬間、刹那の胸が躍動するが、同じく叩きつけられている方のアプリコットに比べれば目立たない。意外だが、アンダーヒルを除けば、この中で一番胸が小さいのは刹那らしいな。スペルビアは予想外だった。
一番は俺なのが泣ける話だが。
しかし再びゾンビのように起き上がったアプリコットは、
「邪神よりも這い寄るこのボクに不可能はねぇんですよ、刹那ん」
意味不明の台詞を吐きながら、一瞬で刹那の背後に回り――ゴキッ。
「事情があるのは大体想像できますが、せめて下を向いていようとは思わないのですか、シイナ」
怒りに満ちたアンダーヒルの声はともかくとして、怒りに満ちたアンダーヒルの左手が乱暴な手つきで俺の頭を押し下げてくる。
く、首の骨が……!
「わ、わかった、悪かっ……」
ミシミシッ。
だからアンダーヒルさんッ、首が大変なことになるからそれ以上は……!
「あなたは声を出さないで下さい」
仕方なくアンダーヒルの仔鹿みたいに細い足を指で叩いて、了解及びギブアップの意志を伝える。
太ももに触れた瞬間、アンダーヒルの身体がわずかに震えたが、すぐに首への加圧を止めてくれた。
「おおかたスペルビアが寝ているのに気づかず入ったものの、急いで出ようとした時に私たちが来てしまったために混乱し、出られなくなったとかその程度の理由でしょう」
さすが全てを見通す者。よくご存じで。
「あなたは軽率ですが軽薄ではありません。それはよく知っていますから。折をみてあなたを外に出します。それまでは我慢していてください」
最後にそう言ったアンダーヒルは黙ったままスペルビアをじっと見つめ始めた。
アンダーヒルが何を待っているのか、いつ出られるようになるかわからないんだが……、まさかそれまでずっと女の子と密着状態で待ってろと……!?
そして、シイナが収まらない心臓の鼓動がアンダーヒルに聞こえやしないかとテンパっている頃――
(シ、シイナ……あまり動かないで下さ……。それ以上近づいては……)
表面上は平静だが、アンダーヒルも同じ理由でテンパっていた。




