『神流川七海ともうひとりの自分』
神流川七海はかれこれ三十分以上の長い時間、目の前に浮かび上がるシステムウィンドウと手元に表示された四種のキーボードウィンドウに向かって悩み続けていた。
「やっぱり可愛い名前かカッコいい名前がいいわよね……」
初めてログインするVRMMO、[FreiheitOnline]のプレイヤーネームのことで迷っていたのだ。
ゲームの中までこの名字に縛られたくない。
本名からとるなら『七海』の方だ。
「NANA……は被りそうだし、SEVEN SEASは長いしセンスないし……。七海のままも芸がないわよね……」
適当な単語をポチポチ入力してみてもしっくりくる名前が思いつかず、何度も消して考え直す。
(子供に名前付ける時ってこんな感じなのかな……)
あまりにも遠い世界の話のような気がしていたから、まったく何も思いつかない。
「あーもう、イライラする!」
いっそ花の名前とかにしてやろうかと思って気づいてみると、花の名前なんてほとんど知らないのだった。
ついに面倒になり、頭を抱えてひっくり返り、苛立ち紛れに足をバタバタと暴れさせる。誰も見ていないからいいものの、この歳になるとさすがに恥ずかしい。この時の私はそんなことにすら気づかないほど頭に血が昇っていたのだ。
まさかそれを見ていた人物がいるとは思わずに――。
「随分と悩んでるみたいだな」
「へ?」
四肢と背中を地に投げ出した体勢で頭上から聞こえてきた声に顔を上げると、いつのまにかそこに人影が立っていた。
「なぁっ!? だ、誰よ変態!」
「やれやれ、『失礼』の次は『変態』か……。バリエーション豊かで大したもんだ」
「アンタ、何言ってんの……?」
「これは失敬。こっちの話だから気にしないでくれ」
気取ったような言い方が少し癇に障る。
半身起こして後ずさると、ようやくその人物の全容が見えてきた。
黒の軽装鎧に身を包んだ長身のアバター。頭に耳がついているところを見ると、獣人種なのかもしれない。
(つまんないほどオーソドックスな種族選んだわね、コイツ……)
斯く言う私も、迷った末に結局怖くて人間を選んでしまったのだが、自分のことを棚にあげている。
「そんなになるまでPNで悩んだヤツは今のところ初めてだよ」
涼しげな笑みを浮かべたソイツがそう言った瞬間、つい今さっきの光景が脳裏にフラッシュバックして、途端に頬が燃えるように熱くなる。
(見られてた……!? 今のアレを見られてた……!?)
思わず顔を背けかけたその一瞬、その男と目が合い、恥ずかしさが増してくる。
「大体アンタ誰なのよ!」
「俺はベータテスターだよ。慣れない新規プレイヤーを手助けしたりするようにROL側から頼まれてるんだ。バイトみたいなものか」
「じゃ、なんでこんなトコにいんのよ!」
「今だけ限定の特権みたいなものかな。外から見れるようなシステムが一時的に追加されて困ってそうならとにかく助けてやれって。君の買ったIDがたまたま俺の担当だったってことだよ」
「方法じゃねえよ、理由だよっ!」
思わず言語崩壊してしまう。
これには正体不明の彼も驚いたようで、面食らったような顔で一歩後ずさった。
「いや、悩んでるみたいだったから少しは手助けできるかな、って。名前が思いつかないんだろ。本名弄ってみるとかさ」
「なんでアンタなんかに本名教えなきゃなんないのよ」
「いちいちトゲのあるヤツだな……。それに教えてくれなんて言ってないぞ。考えるのはあくまで君だからな」
「……それはもう考えたけど、しっくり来ないのばっかりなのよ」
「あんまり考えすぎない方がいいと思うぞ。[あああああ]って名前にしてるヤツもいるしな。呼びにくいから普段はゴアって呼んでるけど。ああ、[Load]ってやつは傑作だぜ。支配者って名前にしたかったらしいんだけどな。綴ミスって積み荷になってるんだ」
ただの馬鹿じゃない……。
「嫌よ、そんな適当なの」
「まあそれが普通の感性だよな。ただのMMOまでなら気にせずふざけるやつもいるけど、VRMMOでは感覚的に自分がそう呼ばれるわけだし」
そうだ、これからは自分がそう呼ばれる名前なんだ。適当に考えればいつか後悔するかもしれない。
自分が呼ばれたい名前。
この、別の世界に住むもうひとりの自分、その呼び名を。
「どうかしたか?」
ハッと気がつき再び顔を上げると、男は私の顔を覗き込むように近づいてきていた。
「何でもないわよ。それよりそっちにはなんかいい案はないの、ベータテスター」
「ベータテスターは名前じゃねえよ」
「さっき名乗ったじゃないの」
「違う。ベータテスターっていうのは二百人いる――」
「なんだ、アンタNPCなの」
「プレイヤーだよ! 試験運用に協力して、他の人よりも慣れてるからこういうバイトがやれるのッ!」
口調を荒らげる男にイラッとして何かを言い返そうと下から睨み付けた途端、今度は私が面食らってしまった。
ハッとしたような顔をした男が気まずそうに口元を押さえていたのだ。
「……そうだな、俺がまだ名乗ってなかったからか。今までほとんど聞かれなかったから忘れてた。ゴメン、今回は俺が悪い」
律儀に頭を下げてくる男を前に思わず後ずさる。
頭を上げた男は少し恥ずかしそうに目を逸らし、自らの頭の上を指差した。
「本当はこの辺に名前が表示されるからさ。初対面でもあんまり名乗る習慣がないんだ。ここは本来君だけしかいられない空間だから名前が出ないんだけどね」
「言い訳しない」
「ごめんなさい」
コホンと咳払いした男は私に向き直り、
「俺のことは[シイナ]って呼んでくれ」
一瞬、心臓が止まるかと思った。
(コイツがこっちのシイナなの!? 全ッ然リアルと違うじゃないっ!)
現実で会った(会った、と認識しているのは私だけだろうけれど)時の彼の外見は男らしさとは無縁だったから、やはり男子であの容姿はコンプレックスの種になるのかもしれない。
「何かいいアイデアでも浮かんだ?」
どうやら難しい顔をしていたらしい私に、勘違いしたシイナが訊いてくる。
「あ、いや。そういうわけじゃなくて……、他にまともな名前でセンス出てる人いないかなって思って」
とりあえず思考を誤魔化しつつ、改めて入力ウィンドウに向き直る。
少し考え込むような顔をしたシイナは、
「[儚]って人がいるぞ」
「ハカナ?」
「儚いって書いて送り仮名取ってハカナだよ」
儚い、なんて名前を自分につけるなんて……どんな趣味よ。
でも、いい感じにはなってるわね……。
「切な――」
「え?」
シイナが何かを呟いた気がして、聞き返すと、
「切ない、の最後をとった感じで。ちょうど『刹那』って言葉もあるしさ」
「刹那……」
人の名前に『切ない』なんて言葉をすすめるなんて……どんな感性よ。
でも……。
「め、面倒だし、せっかく考えてくれたから……それにしといてあげるわ」
ほんのりと熱を持つ頬を隠すように顔を逸らしながら頷いたのだった。




