第94局 私が名人になったら結婚しよ?師匠
「A級順位戦も、現在、桃花が現在単独首位か」
「ええ。私、順位戦で負けたこと無いですから」
自宅のリビングのソファに身を寄せ合う2人。
いつもの風景だが、今日はどこか空気に険しさが漂っていた。
「でも、今年は特にヤバいな。タイトル防衛はもちろん、一般棋戦まで総なめする勢いだ」
「最後を華々しく飾るためです。タイトルの保持と一般棋戦も全て総なめにした上で、名人位を師匠から奪い、完全制覇した後に私は棋界から消えます」
「うん。凄いよ桃花は。今、桃花に勝てる棋士はいないだろう」
まさしく鬼神のごとき強さ。
歳はまだ10代で、まだ天井が見えない。
正直、今の桃花が負ける姿が想像がつかない。
「もうすぐです。もうすぐ、師匠と結婚できます」
「そんな鼻息荒くなるなよ」
「それで、大事な話があるとは何ですか? 師匠」
桃花の声音には、いつもと違って若干の固さがあった。
これから、俺が何を話すのか大方の予想がついているといった所だろう。
俺は、静かに話し始める。
「桃花の棋士引退についての話だ」
「それについては、私は絶対に理由を言わないといつも言っているはずです」
あらかじめ覚悟を新たに決めてきたという感じで、桃花が拒絶の言葉を口にする。
「もう聞かないよ。実は、桃花が棋士を引退するって言いだした理由については、結構前から見当がついてた」
「え?」
普段、将棋の時には動じない絶対王者の桃花の顔に、はっきりと狼狽の表情が表出する。
「し、心理戦ですか? そんな事言っても、私は白状なんてしないですよ」
「俺ってさ。保育士やってるから解ってると思うけど、子供の事が好きなんだ」
「はい……解ってます……」
桃花は、沈んだ表情を見せる。
急に持ち出した話題へのこの桃花の反応で、俺は自分の予想が当たっていることを悟った。
「桃花は俺のために棋士を辞めようとしてたんだな」
「…………! なんで……なんで私の心の中の秘め事が解るんですか!」
「桃花の師匠だから」
感情的に顔をしかめた桃花に、俺は事も無げに答える。
俺が動揺を見せず、フラットな表情であるのを見て、桃花も覚悟を決めたようだ。
「全部師匠にはバレてるみたいですね……私がこのまま棋士を続けたら、おそらく常にタイトルを持ち続けます」
「だろうな」
先達の例と今の圧倒的な棋力を見るに、恐らくこれから20年間以上は。
「その間、私は棋界の第一人者であり続けるでしょう。だから……」
ここで、桃花が一瞬言葉を詰まらせ、だが思い切ったように口を開く。
「私は棋士のままだと、師匠の赤ちゃんを産んであげられない」
桃花の意を決した言葉の先に、しばらく沈黙が場に鎮座した。
「……そうだな。タイトルホルダーが妊娠、出産をしたという前例がない」
沈黙を破り、俺が冷静に現状についての話をする。
「そうなんです。タイトルホルダーが、出産という個人的な都合で席を空ける訳にはいかないんです!」
「だけど、別に子供を産む事が絶対的な幸せな訳じゃないだろ。夫婦2人で仲良く過ごしたり、俺たちには保育園の子供たちも」
「師匠なら絶対そう言ってくれるから、私はずっと本当の理由を言えなかったんですよ!」
桃花の絶叫にも似た独白が、俺の言葉を遮る
「師匠は優しいから……2人で楽しく生きて行こうって笑って、私のことを支えようとしてくれるんでしょ? 自分の本当の気持ちは奥に閉じ込めたまま、一生」
ハラハラと泣きながら、桃花が俺に問いかける。
「そんなの私は嫌です……私の幸せが師匠の犠牲の上に成り立つだなんて」
「…………」
「だから私は棋士を、名人位を獲った節目で辞めようと思いました。将棋は大好きだけど……それ以上に、師匠のことが大好きだから」
涙で光る眼で桃花は真っすぐに俺の目を見据える。
大好きな将棋だから裏切れない。
桃花の強さは、いつしか、そのまま自分を棋界に縛りつける鎖となってしまっていた。
そんな哀れな天才のなれはて。
「だから、将棋を断ち切って、俺と結婚して家庭に入ろうって思ったのか」
「私は欲深い女なんですよ」
「知ってる」
泣き笑いする桃花に、フッと俺も笑顔を返す。
「でも、師匠にバレちゃってたなんてショックだな……これじゃあ、名人になっても私、師匠と結婚できない」
意気消沈して肩を落とす桃花は、いつもより小さく見えた。
「おや、子供の頃からの夢なんだろ? そんな簡単に諦めちゃうのか?」
「なんで、そこで師匠が煽って来るんですか……師匠と結婚できないなら、私にはもう将棋にひたすら邁進して、勝ち続ける人生しか残ってない……」
将棋で勝ち続けるのは既定路線なのね。
まぁ、今の桃花の鬼神のごとき勝ちっぷりから見るに、そうなるんだろうけど。
「お、時間だ。ちょっとテレビのリモコンを取ってくれ桃花」
「人が大事な事をしゃべってる時に、何をテレビの時間を気にしてるんですか師匠!」
「だって、これが桃花と話す時間を設けた理由だからな。一緒に観よう」
桃花の苦情を無視して、俺はテレビの電源を点けてチャンネルを合わせる。
「何を観るんですか? って、羽瀬会長?」
国営テレビの番組に、我らが羽瀬会長が映し出された。
『これより、将棋連盟から総会への議題提案に関する部会を開催します。なお、こういった内部の会議がテレビで放送されるのは初めての試みなので、不手際等もあるかと思われますが、ご容赦ください』
「え、将棋連盟の会議をテレビで? しかも、総会でもない、決定権がある訳じゃない、ただの部会? 正直、こんなの観てて楽しいんですか師匠?」
「まぁ、視聴者は困惑してるかもな」
桃花のもっともな疑問に、俺は曖昧に返答して、とにかく観ていろと促す。
『今回、総会の議決に掛ける前の議題提案の段階で公開をしたのは、広く世間の意見を拝聴したいがためです』
おそらく、テレビの前で桃花と同じ疑問を持った視聴者へ向けて、羽瀬会長が説明をする。
『今回、我々が総会にはかりたいのは、将棋連盟の定款改正で、改正内容は棋士の産前産後休暇と育児休業の明記です』
「え?」
思いもかけなかった内容に、桃花が口元に手をあてて驚きの声を上げる。
『まず、これらの規定条文が今まで無かった不作為を、公益法人たる連盟の長としてお詫びいたします』
羽瀬会長が腰を折り、頭を下げる。
『その反省を踏まえ、当連盟では定款の改正をいたします。改正の内容説明については、この規定の内容について、各所で粉骨砕身してくれた方たちからご説明させていただきます』
そう言って、壇上から羽瀬会長が掃けていくと、逆側の袖から2人のスーツ姿の女性が出てきた。
「え!? ケイちゃん! それと……」
「おお、姉弟子のスーツ姿なんて久しぶりに見たな。晴れ舞台だから、右京先生と揃えて気合入れたんだな」
テレビ画面に現れた2人がマイクを持つ。
『ただいま羽瀬会長よりご紹介いただきました、女性棋士の右京里奈と』
『元女流棋士の綾瀬桂子です。私達2人から、改正概要をご説明させていただきます』
その後、2人から改正の内容が説明されるが、横にいる桃花は、事態の急変にただ口をポカンと開けていた。
『つまり、出産や育児について、棋士の方から対局スケジュールについて、より融通が利きやすくなったという訳ですね』
『はい。男女ともに、時期の変更が可能です。そして、これは全ての対局に適応されます』
『全てと言いますと?』
『名人戦を含むタイトル戦も対象になります』
『それは良いですね。これで、家族のために止むを得ず棋士や女流棋士を引退する人が、少しでも減るといいですね』
姉弟子が質問役で、右京先生が回答役ということで、話の内容はするすると頭に入って来る。
「ちょっと寸劇めいてるけど解りやすいな。あの2人、今日のために何回も練習したんだろうな」
「これ……師匠は知ってたんですか?」
テレビを指さしながら、桃花が尋ねる。
「いや、知ってるも何も」
その後の答えは、テレビの向こう側からもたらされた。
『概要説明ありがとうございました。以上が提言となります。なお、この提言の代表者は、この場にはおりませんが、稲田名人となります』
姉弟子と右京先生の説明が終わったタイミングで、羽瀬会長が結びの言葉を述べる。
「羽瀬会長め……。別にこの場では、俺の名前は出さなくてもいいって言ったのに」
頭をボリボリ掻いて、画面の向こう側の羽瀬会長のすまし顔に苦情を入れる。
とは言え、流石に言い出しっぺの俺が目立ちたくないと言うのはワガママか。
「どうして……師匠……」
「この提言をするのが、俺が名人になった最大の理由だったからな」
「……私の寿引退を直接阻止するために、名人になったんじゃないんですか?」
「最初に目指し始めた頃はそうだった。けど、桃花が抱えてる物に気付けてからは、目的が変わったんだ」
ニカッと笑って、まるでドッキリの仕掛け人のように桃花に種明かしをする。
「大きくルールを変えるためには、それなりの地位の奴が声を上げなきゃ動かない。けど、当事者の桃花が提言すると角が立つ。なら、俺がやらないといけないなって思ったんだ。だから名人を目指した」
不思議と、桃花が人知れず抱えていたものに気付けてからの方が、力が湧きたった。
きっと、この気概が名人位をギリギリながら獲得するに至った大きな要因だろう。
「この改正って凄く大変だったんじゃ……」
「大変だったよ。今回の改正で一番負担を被ることになる、タイトル戦や棋戦のスポンサー様へ説明に回ってさ」
多くは羽瀬会長が行ってくれたのだが、終盤の頃は俺が名人になったこともあり、羽瀬会長に一緒にスポンサー様行脚に連れ回された。
「けど、みんな最終的には納得してくれた。だから、こうして今日、テレビで広く世間に周知できたんだ」
ルール上は、連盟の定款改正は、総会にはかった後の結果をいきなり公表するだけでも問題ないのだが、今後、この改正が実際に適用されることで将棋ファンが戸惑わないように、事前に発表を行ったのだ。
「みんな、この提言の話をしたら協力してくれてさ。姉弟子や右京先生も、将来に続く女性棋士や女流棋士の未来のためにもなるって凄く張り切ってくれた」
「う……う……」
「どうだ、桃花? これで……おぶっ!」
「師匠ぅぅぅぅぅぅうううう!」
飛び込んできた桃花を胸の中に受け止めた衝撃で、思わず変な声が出てしまった。
「おま……桃花。そんな勢いよく抱き着いて」
「師匠っ! 師匠…… ううぅ……」
諫めようとしたが、当の桃花は俺の胸の中で泣きなじゃくっているので、しばらくそのまま胸を貸すことにした。
しばらく、2人きりのリビングに桃花の泣き声が響く。
「師匠……私のためにありがとう」
「ああ。ったく、日頃は型破りな将棋を指す癖に、こういう肝心の所で一人で抱え込みやがって」
「だって……だって……」
「どうだ? ルールの方を変えちゃう俺の荒業は? 凄かったろ?」
「うん……参りましたぁ」
「そんな、嬉しそうな顔して参ったなんて言う棋士があるか」
泣き笑いする桃花に、しょうがないなと笑いかける。
「私、これでもう、将棋を続けても師匠を我慢させなくていいんだよね?」
「そうだよ」
「じゃあさ……」
「私が名人になったら結婚しよ? 師匠」
涙の雫で濡れた目で、腕の中にいる桃花が俺の目をまっすぐに見ながら、いつもの提案をしてくる。
「ああ。結婚しよう」
それは、今まで何度も、何年間も桃花から言われ続けてきた言葉で、俺の返答はいつもその言葉をかわすばかりだった。
そんな俺が、最初で最後に言葉にした投了の言葉を、桃花は嚙みしめるように目を閉じながら聞き入る。
俺は無言でそのまま、桃花の身体を自分の元に抱き寄せて唇を重ねた。
タイトル回収完了。
残り2話




