第93局 師弟で仲良く署名
「ほら、師匠。そこに署名するんですよ」
「ここか?」
「そう。フフフッ、2人の名前が並んでる。まるで、婚姻届みたいだね」
「いや、婚姻届けは毛筆で書かないだろ」
慣れない筆を硯に置き、フゥッと一息つく。
「そんなペースで書いていては、いつまでも終わらないですよ。もっとテンポよく書いてください」
「す、すいません羽瀬会長」
注意され、俺は慌てて筆を取りなおす。
「師匠は免状署名は初めてですもんね」
「こんな事なら、習字教室に通っておくんだった……」
名人と覇王のタイトルホルダーには、他のタイトルには無い仕事がある。
それが、将棋連盟が発行するアマチュア段位の免状への自筆署名だ。
その仕事のために、俺と桃花は東京の将棋会館に来ていた。
免状の一枚一枚に、当代の名人と覇王、そして会長の自筆署名が連なるのだ。
「歴史上初めての、師弟の名人と覇王の署名ですからね。免状申請がひっきりなしです」
「そうなんですか。多少は連盟の収入に寄与出来て良かったです」
名人 稲田誠
こうやって署名すると、本当に俺は名人になったんだなと実感できる。
「来年度はどうせ覇王・名人 飛龍八冠の署名になりますからね。1年限定という所をもっとアピールしないと」
「そういう売り方は良くないと思います羽瀬会長」
俺だからって、明け透けに言いすぎでしょこの人は。
「しかし、こうして3人の署名が並んでいるのは感慨深いですね。名古屋の研究会で指していた3人の名前が連なっている訳ですから」
俺のツッコミを無視して、完成した免状の一枚を手に持って掲げて、羽瀬会長がフッと笑みをこぼす。
「ほらほら、師匠。連盟のホームページの棋士一覧を見て。私と師匠の写真、隣同士だよ」
「名人と覇王だからな」
嬉しそうに桃花がスマホ画面で見せびらかしてくる。
ちなみに、名人と覇王は同格だが、タイトル保持数が多い方が序列1位になるので、当然桃花が序列一位だ。
「普通、名人と覇王が一緒のタイミングで署名なんてしないんですけどね。署名の墨が渇く時間が必要なので、正直非効率です」
ぶつぶつ文句を言いながら、羽瀬会長が署名を再開する。
「いいじゃないですか。こうやって盤と駒を持ち込んで研究会もしつつ、署名作業をすれば待ち時間は無駄にならないですよ。会長業務で忙しい羽瀬会長をおもんばかってのことなんですから」
「単に桃花先生が、稲田先生と一緒に来たかっただけでしょうに」
「あら、バレましたか。はい、じゃあこの手はどうですか?」
「む……これは……」
何やかんや言いつつ、免状署名と研究会が和やかに、そして緩やかに行われる。
「そう言えば、桃花先生は取材が入っているのではなかったですか?」
「あ、そうでした! 東京に来た時にまとめて入れてるんでした。じゃあ、後はよろしくお願いします」
そう言って、桃花は署名の作業場である会議室を後にした。
「いつも以上にはしゃいでましたね、桃花先生は。師匠の稲田先生が名人になってよほど嬉しいと見えます」
「名人位を奪われた張本人が目の前にいるのに……すいません」
「そうやって腫れもの扱いされる方がしんどいですよ」
「そうなんですか?」
「幸い、仕事だけはたっぷりありますからね。失冠の痛みを忘れさせてくれます」
いや、やっぱり怒ってないか?
と思ったところで、羽瀬会長が真面目な顔になって話を切り出す。
「それで、例の件についてですが」
「どうなりました?」
俺は居住まいを正して、羽瀬会長の言葉に聞き入る体勢を取る。
「根回しはほぼ完了しました。後は、名人戦のスポンサー様の説得を残すのみです」
「……という事は」
「貴方にもしっかりと汗をかいてもらいますよ、稲田名人」
「わ……解りました」
ニッコリと笑う羽瀬会長に、俺は引きつりながらも応諾の言葉を返す。
これも当代の名人……例え一期で終わってしまい、棋界の歴史には大して残らない名人であろうとも、果たさねばならない責任だ。
「ビビってますか?」
「元はと言えば、俺が言い出したことです。むしろ、最後の詰めを任されるのを栄誉に感じていますよ」
「いいですね。そのやせ我慢が本物であることを願いますよ」
バレてる……だけど、俺がやらなくてはならないというのは本音だ。
それが、師匠として弟子に贈れる最後の贈り物なのだから。
最後の時は、もうすぐ目の前まで来ていた。
最終話まで後3話




