第92局 桃花の回想
【桃花の回想】
『あ……私この人と結婚するんだ』
奨励会に入るため、親に連れられて初めて師匠に会った時に、私の頭の中にまるで原風景のような鮮明さでイメージされた場景がある。
成長して大人になった私と師匠が、仲良く子供たちに囲まれて笑顔のシーン。
女の子がこういう未来の伴侶をイメージする時は、ウェディングドレスを着ている花嫁の自分と、白いタキシードを着た新郎という絵が相場が決まっていると思うんだけど、私が見た未来のシーンは何というかこう……良く言えば朗らかで、悪く言えば少々所帯じみていた。
『っていうか、師匠と私の周りに沢山子供がいたけど、あれ何人いました? 師匠、どんだけ私に赤ちゃん産ませる気⁉ 私、まだ小学生なんですけど⁉』
当時の私はまだ10歳だったが、棋士を志すだけあって、自分で言うのも何だけど早熟だった。
赤ちゃんの作り方を、本で読んでしっかり知っていた私は、勝手に浮かんだ自分のイメージに顔を赤らめつつ、かなり警戒レベルを上げて師匠をあらためて眺めた。
目の前にいる稲田、当時五段は20歳で朴訥とした若手棋士だ。
この若さで弟子を取るというのは、かなり珍しい。
私は岐阜県の田舎出身で、唯一の同県出身の棋士という事で、若い先生だから無理かな~ と思いつつ駄目元で弟子入りの手紙を書いたら、まさかの了承の返事を貰えたのだ。
『う~ん……別に悪くはないけど、特段顔が整っている訳でもないし、棋士としての実績は取り立てて高くも低くも無いし……なんで、あんなイメージが湧いてきたんだろ?』
私は、これから弟子入りする身分の癖に、失礼にも師匠である稲田五段のことを値踏みしていた。
いや、でも師匠と言えども、女の子が結婚する相手としてのイメージが湧いた以上、きちんと人生の伴侶としての厳しい目で見極めないと!
「君の師匠になる稲田です。これからよろしくね、飛龍さん」
そう言って、稲田五段はにこやかに笑いながら手を差し出してきた。
「はい。よろしくお願いします」
心の中で値踏みしている事なんてお首にも出さずに、私は稲田五段の手を握り返す。
まぁ、将棋の師匠としても人生の伴侶としても、一先ず様子見ですね。
果たして私に相応しいのか?
しっかり見定める必要があります。
しかし、稲田五段も気の毒ですね。
未来のお婿さん候補なんてイメージを私が勝手に抱いてしまったがために、通常の師弟関係の何倍も厳しい目で、弟子のこの私に品定めをされることになってしまうなんて。
果たして、私の中で上がり切ったハードルを、この目の前の青年は越えることが出来るのか?
見ものですね。
◇◇◇◆◇◇◇
「ああ~、もう好きっ! 大好き!」
実家のベッドで布団に包まり枕に顔を埋めながら、私は絶叫していた。
「はぁ、次の研究会は、また一か月後か……そんなに待てない……会いたいよ師匠……」
耐えられない切なさから、掛け布団を丸めて両腕と両足でがっしりとホールドしながら、私は呟いた。
私が師匠の弟子になって1年。
私は見事に、師匠にトロットロにとろかされていた。
いや、あんなの無理だし……。
女の子は皆、墜ちちゃうって。
断じて私がチョロいからじゃないです。断じて!
小学生で弟子の私と練習対局してくれる時でも、師匠は私をきちんと一人の将棋指しとして扱ってくれるのが嬉しかった。
大人が自分に真剣に向き合ってくれているというのは、子供ながらにも肌で感じ取れるものだ。
この人は、将棋の盤を挟んで自分に正面から向き合ってくれていると解って、心地がよかった。
そして、将棋から離れると、きちんとお兄さん的な余裕をもって甘やかしもしてくれた。
私の奨励会の例会おわりに、師匠の家へ立ち寄るのが定例化し、それが稲田一門の研究会という事になっているのだが、研究会の後にはいつも師匠の手作りスイーツが並ぶ。
つい研究会が白熱して遅い時間になった時には、ご飯まで作ってくれた。
同郷だから、料理の味付けの好みも完璧に合う。
この間は、師匠が作ってくれた土鍋味噌煮込みうどんのおつゆが美味しくて、何杯もおかわりしてしまった。
学校の宿題や、縄跳びの練習といった、将棋に一切関係ない物にも付き合ってくれる。
利発で手のかからない子として、両親や学校の先生からも良く言えば自由に、悪く言えば放任的な扱いを受けがちだった私が、子供として甘えることのできる場所。
こんなさ~。
日頃は大人の余裕で以って子供として甘やかしてくれつつ、いざ盤上という戦場で戦う時には、子供の自分にも戦う者への敬意を払って対等に扱ってくれる、厳しくも心地よい関係とかさ……。
ギャップや振り幅でおかしくなっちゃうんですよ。
私、まだ小学生女子ですよ⁉
こんな、緩急つけた攻撃喰らったら、ひとたまりもないですって!
師匠の女たらし!
「そう言えば、師匠って恋人とかいるのかな……」
ふと、思いついたことを口に出す。
すると、その不安はまるで池に小石を投げ入れた波紋のように、私の胸の中を広がっていく。
「師匠ってまだ21歳なんですよね。当然独身……だけど、本来なら色々とお盛んな年齢」
そんな師匠がもし……
『桃花、紹介するよ。俺の大事な女性だ。来年、結婚するんだ』
『桃花。奥さんがそろそろ出産予定日なんだ。だから、研究会はしばらくお休みな』
『久しぶり桃花。どうだ可愛いだろ? 俺の娘だ。抱っこしてやってくれよ、ほら』
(ツーーッ)
頬を大粒の涙がつたう。
想像しただけで、胸がプレス機に押しつぶされように、痛くて苦しい。
奨励会で昇級を逃した時の何十倍もキツイ……。
ほんと無理……。
こんな事態が起きたら耐えられる訳がない。
もしそんな未来が訪れたなら、私は全てを捨てて逃げ出してしまうだろう。
「この偉大な才能が失われてしまうのは、人類においてあまりにも大きな損失です。何とかしなきゃ……」
自分のことを偉大な才能とか称するのはいささか痛い子だと思われるかもしれないですけど、これは将棋指しとしての客観的な評価だからご容赦願いたいです。
女性プロ棋士として、私は新たな景色を将棋ファンに見せてあげられるかもしれない可能性を秘めているのです。
師匠は、そんな偉大な弟子を持ってしまった責任を果たすべきなのですよ。
「あ、そうか。私が師匠のお嫁さんになれば解決する話だ」
物事を私は複雑に考え過ぎていました。
要は、棋界に悲劇を起こさないためには、師匠が私をお嫁さんにしてくれれば万事解決です。
しかし、私がプロ棋士になるまでは、まだまだ数年の月日が必要だ。
その間に、師匠は20代前半から半ばという男盛りの期間に突入する。
これは大変危険だ……。
師匠と同年代の女どもなんて、隙あらば男にプレッシャーを掛けて、結婚に持ち込もうとする浅ましい生き物なのだ。
え? お前も一緒だろって? どこが? 私のはただの純愛ですが?
話を戻そう。
要は、これから結婚適齢期に差し掛かる師匠をいかにして、私に縛りつけるかだ。
ならば、私が師匠に差し出せる物は一つだ。
「私が名人になったら結婚してください師匠!」
私は意を決して師匠に自分の想いを伝えた。
人生初のプロポーズだ。
普通は、女の子からなんてしないんだぞ。そこのところ解ってるのかな? 師匠。
「おう、いいぞ。名人になったらな」
師匠は、私の一世一代のプロポーズに、笑いながら私の頭を撫でた。
むぅ~!
師匠ったら、完全に子供の戯言だと思ってるな……。
乙女のプロポーズを軽くあしらわれてご立腹の私だったが、成果はあった。
師匠知ってた?
婚約って口約束でも成立するんだよ。
私の決死のプロポーズにより、一先ずの言質を師匠から得る事には成功した。
けど、まだだ……まだ足りない。
これでは、師匠としての認識では、ただの弟子の子供時代の可愛い思い出エピソード程度にしか刻まれていない。
考えてみれば、私が名人になったらっていう結婚の交換条件も、今はただの奨励会員でプロ棋士になれるかも解らない私では、空手形でしかないのだ。
師匠に危機感をおぼえさせるには、私は圧倒的な力を棋界で示さなくてはならない。
本当にこの弟子は名人になるんじゃないか?
そう思わせるために、私はただの棋士じゃなく、中学生棋士を目指してひたすら、奨励会の階段を駆け上がって行った。
◇◇◇◆◇◇◇
私が奨励会初段に昇段した頃だっただろうか。
「桃花、お前は本気で名人になろうとしてるのか?」
と、師匠が恐る恐るという様子で私に聞いて来た。
「当たり前です。名人になったら結婚って約束、憶えてますよね?」
「うむぅ……」
師匠の苦虫をかみつぶしたような複雑な表情を見て、私は内心の喜びを隠すことに大変な労力を要した。
師匠が、弟子の私が名人になる可能性があるという見立てを持ってくれたという、将棋指しとしての喜びを。
そして、名人になったら私と結婚してくれるという約束を、誠実な師匠はちゃんと受け取っているという高揚に、私はその場で叫び出したい気分だった。
「このまま行けば、中学生棋士になれるペースか。そうなると、歴代の中学生棋士のように名人や他のタイトルホルダーになるのか」
「そうですよ。だから……」
ここで、私は雷に打たれたような衝撃を受けた。
私は一つの重大な要素が読み抜けていたことに気付いたのだ。
それは私だけじゃなく、今、目の前にいる師匠をも巻き込んでしまう、望まない未来。
「桃花? どうした?」
突然、押し黙った私の顔を怪訝そうに覗き込む師匠へ返答することなく、長考の海に沈む。
『そうだ……結婚すること自体がゴールじゃない……。その後に、この人と一緒に歩む人生こそが重要なのに、私ったら舞い上がって……』
望まぬ未来の回避。
なら、もう私に選べる道は一つしかなかった。
「師匠。わたし、名人位を獲って師匠と結婚したら、棋士を引退しますから」
「ハァ!? なんでだ⁉」
私の投げ込んだ爆弾に、今度こそはっきりとした狼狽を見せる師匠。
「それは秘密です」
その後も、しつこく師匠は私に理由を問いただしてきたけど、私は頑として口を割らなかった。
本当の理由を言ったら、優しい師匠はきっと譲ってしまうから。
そんな事になったら、私は一生、自分のことが許せなくなってしまう。
こうして、私は師匠に、名人になって結婚したら棋士を寿退職すると言い続けた。
これは、決して、師匠を私の拙い婚約未遂に縛り付けて、他の女の人に目移りしないようにしようって魂胆じゃないんです。
まぁ……ちょっぴりその理由もなくはないんですけどね。
ワガママで、重くて、臆病な弟子でゴメンね師匠。
代わりに、その時が来たら、私の全部を師匠にあげるから許してほしい。
だから、もうちょっとだけ待ってて師匠。
最終話まであと4話




