第91局 俺が先に名人になったぞ
【桃花視点】
「眠れないな」
私は、座敷の卓に置かれたスマホへ何度も視線を送り、落ち着かない時を過ごしていた。
棋征戦の前夜祭が終わり、私はその後の誘いは『今日は疲れていて……ゴメンなさい』
と断り、対局場である旅館の部屋に早々に戻って来ていた。
京都まで師匠の着物を取りに行ってから東京に届けて、短大の保育園実習のために名古屋へとんぼ返りして、実習が終わったら、前夜祭のために京都まで移動してと大移動が続いていたので、疲れていたのは本当だ。
だが、部屋に早々に引っ込んだ本来の目的は別にあった。
「下手にスマホを触ってると、ネタバレくらいそうだし」
でも、気になる。
滅茶苦茶気になる。
師匠の名人戦最終局がどうなったのか。
でも、同時にとても怖い。
1日目の昨日は、怖くて名人戦の棋譜中継すら見れなかった。
「そろそろ終局して、スマホも返却されてる時間だと思うんだけどな……」
布団に寝転がって、ネタバレを恐れてスマホも触れず、テレビも観れない。
何ともいえない手持ち無沙汰な時間が過ぎていく。
(ピリリッ!)
「来た!」
この日のために、師匠からの着信だけ音声通知するように設定したスマホから着信音が鳴り響く。
「はい」
「おお……桃花か……」
かすれた声で、力ない師匠の声が届く。
ああ……師匠……この声は……。
「師匠、おめでとう! 勝ったんだね!」
「まだ何も言って無いが……」
「解るよ。私は師匠の弟子だもん」
声がまともに出なくなるほど、深く潜って自分を追い込んだんだ。
そんな師匠が勝っていない訳が無いという確信があった。
「おかげさまで、名人になりました」
「うん……うん、師匠……おめでとう」
涙がとめどなく溢れてきて、私の声もかすれる。
「お前は明日、棋征戦だろ……そんな泣くと、明日に障るぞ」
「無理……止まんないよ……ぐずっ」
せめて目が腫れないように、目元を拭わず涙を流すままにするが、後から後から色んな師匠との思い出が蘇ってきて、滝のように涙が流れ続ける。
「桃花……着物、届けてくれてありがとうな」
「全然だよ師匠。気にしないで」
「俺が先に名人になったぞ……」
「うん。来年、私がいただくね」
「おい……」
師匠のいつもより力のないツッコミに、私は泣きながら笑ってしまう。
「楽しかった……とっても……」
「良かったね師匠」
「将棋って楽しい……」
「うんうん、そうだね」
やだ……対局終了直後の放心で、語彙力を半ば喪失している師匠、かわい過ぎ。
よく解らない性癖が芽吹きそう。
「なら、棋士を辞めるなんて言わないでくれよ……桃花」
「師匠……」
よこしまなことを考えていた所に、今までにない直球が放り込まれて、思わず私も押し黙ってしてしまう。
「お前の将棋が好きなんだよ俺は……」
「好きなのは、私じゃなくて将棋の方ですか? そこは、ウソでも私のことを愛してるからって、愛の言葉を囁けば、もしかしたらホイホイ師匠の言いなりになるかもしれませんよ」
「この事に関しては、一切譲る気がないくせに……」
「バレましたか」
師匠は本当に私の事をよく解ってくれている。
「あと1年か」
「そうですね」
あと1年。
さきほど終わったばかりの名人戦。
その予選である順位戦はすでに始まっている。
「桃花がA級順位戦を勝ち上がって挑戦者として目の前に来たら、師匠として全力で叩き潰してやる」
「私も弟子として、師匠の大事な名人位を剥ぎ取った上で、私のお婿さんにします」
師匠が名人位を獲得した晴れの日。
私と師匠の未来予想図という盤上は、とうとう最終局面に向かって動き出した。
最終話まで後5話




