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第90局 名人戦最終局

 名人戦第7局。

 

 最終決戦の場は、東京都渋谷区という都会のど真ん中のホテル内にある能楽堂の能舞台の上で繰り広げられる。


 後から入室した羽瀬名人は、俺の着ている着物を見て、一瞬「おや?」という顔をする。


 借り物の着物と違うという事に気付いたのだろう。


 そして、「フッ」と笑った。

 俺の着物がどういう経緯を辿って届いたのか、大方の予想がついたのだろう。



「と金が三枚なので挑戦者である稲田八段の先手番となります」



 最終局は、振り駒で先手番が決まる。

 ここまで互いに自身の先手番をキープして3勝3敗。


 そういう意味では、天運が俺に味方したと言える。


 ただ、先手番だからと侮れる相手ではない。

 だからこそ、確実に勝ちを……。



『って、思ってるよな』



 俺は、先手番になったら是非ぶつけたかった戦型へ誘導する。



「これは……」



 思わず口に出たボヤキと共に、羽瀬名人は一瞬盤面から目を離し、俺の方を睨みつける。


『こぇぇ……』


 流石は、一時代を築いた大棋士だ。

 睨み一つに重みがある。


 その睨みに込められた伝達事項はこうだろう。


『名人を決める最終対局で、弟子が使った戦法を師匠が使いやがって』


と。



『でも、貴方には効くし、こっちの狙いに乗らない貴方じゃないでしょ?』


 そう伝えるために、俺は銀を自陣の囲いに投入した。


 俺が目指す囲いは異形の銀4枚の穴熊。

 かつて、弟子の桃花が王棋戦で羽瀬名人相手に演じた泥仕合で見せた、異形の穴熊だ。


 あの、本来の対局時間を大幅に超えた死闘。

 それも、自分が最後の最後で勝勢を手放してしまった、悔しさが刻まれたであろう対局だ。



(パチリッ)



『そうですよね。リベンジしたいですよね』



 こういう時に乗って来てくれる気質であることは、解っていた。

 あの悔しい敗戦を、羽瀬名人が研究しなかった訳がない。


 だからこそ、この局面に誘導した意味があるのだ


『当然、考えてきてますよね』


 銀4枚の穴熊の構想を霧散させようと放たれる羽瀬名人の手には迷いが感じられない。


 しかし、まだこちらもまだまだ想定内の手の範囲だ。


 対局は、1日目にしては多い手数まで進み封じ手となった。

 おそらくAIの形勢判断では、俺の方が少し分が悪いと出ているはずだ。


 だが、俺はまるで気にすることなく床についた。

 今までの名人戦の対局ではほとんど寝られなかったのに、この日はすぐに意識が落ちた。




◇◇◇◆◇◇◇




 翌日。

 気持ちよく目覚めて、師匠の形見の着物に袖を通す。


 名人戦最終局最終日。


 一番大事な日に、俺は黄色いハンカチを手持ちの巾着袋にしまった。

 新人王戦の時に、桃花がプレゼントしてくれた縁起物だ。


「縁起物にケチがついちゃいけないと思ってたら、結局最後の最後になちまったな」


 師匠の形見の着物と言い、こういう小心者なところに自嘲気味な苦笑が浮かぶ。


「だが、これが俺なんだよな」


 全ての自分と向き合ったからこその境地だ。




 封じ手が開封され、名人戦最終局2日目が開始された。


 局面は、徐々に俺が悪くなっているように見えるだろう。


 守勢に回り、かつて弟子が指して羽瀬名人に勝利した、銀4枚の穴熊の囲いに固執していると。



『まだだ……我慢しろ……』



 ここで狙いが悟られたら、全て終わりだ。


 チャンスは一回きり。

 羽瀬名人が、こちらの狙いに気付く一手前を狙う。


 そうでなくては間に合わない。

 そして、その時が来た。



(パチリッ)



『取れるものなら取ってみろ』


 そう言わんばかりの、羽瀬名人の自陣への銀投入。



『ここだ!』



 ここで守勢から一転、飛車が前に出る手を指した。

 敵戦地で孤立するように指された、一見、飛車のただ捨てのように見える一手。


『…………!?』


 羽瀬名人も一拍して、俺の狙いに気付いたようだ。


 羽瀬名人が足元を崩して盤面を睨む。長考に入ったサインだ。


 1日目がテンポよく進んだため、持ち時間はお互いたっぷりある。


 長考は実に100分近くに及んだ。


 その間、俺はじっと手元に持った黄色いハンカチに視線を落とし、静かに時の経過に身をゆだねた。



「残り1時間10分~」



 記録係の間延びした残り時間のアナウンスを受け、羽瀬名人がようやく手を指した。

 読み切ったというよりは、消費時間のリミットから打ち切ったという指し手だ。



『だが、さすがは羽瀬名人。最後は斬り合いを選んだか』



羽瀬名人が長考の末に導き出した手を見て、俺の手は、あれだけ固く囲っていた自陣の守り駒たちに伸びる。


『これで、間に合うと?』

『ええ』


まるで玉将を見捨てるように敵陣に殺到していく、自陣の駒たち。


『ここから斬り合いですか』

『はい。どちらが先に倒れるかの勝負です』


 相手の手から対局者の内心がこんなに窺い知れて、また相手にこちらの内心が伝わっていると実感できたのは初めてかもしれない。


『楽しい』


 将棋って本当に楽しい。


 ひょっとして、これがいつも桃花が見ている景色なのか?


 だとしたら、こんな楽しいことを自ら捨てようとしているなんて、桃花は本当にどうかしている。




 終盤戦。


 王と玉の囲いがドンドン崩れていく。

 それでも、お互いに攻め手が次々と繰り出される。


 味方が次々と討ち死にしていこうが関係ない。

 自身の手足が吹っ飛ぼうが、構わず白刃だけは口に噛みしめながら、這いずってでも前に進む。


 相手の将の首を取る事だけを真っすぐ見据えて進み続けて、口に咥えた白刃を全身を躍動させるように相手の王の首に叩きつける。


 と同時に、自分の喉元にも白刃が届いたことを、首元の冷たい感触から悟る。


 後は、どちらが先に絶命するかの勝負。


 首の皮一枚が残るだけでもいい。

 相手が倒れた数秒後に、自身が絶命しても構わない。


 ただ、相手より速く、はやく。


 その想いだけで前に進む。




 まるで永遠のような斬り合いの時間は、やがてどちらかの体力が尽きたところで終わる。



 フッと、口に咥えた白刃から手ごたえが消えた気がした。


 そして、綺麗な世界は終わりを告げる。



「汚い投了図ですね」


「え……あれ?」


 先ほどまで、最早お互いに人の形を留めない状態で命の取り合いをしていた羽瀬名人が、現実の姿として俺の目の前にいて声を発している。


「殴り合いで最期は乱戦も乱戦。形づくりなんてする暇がなく、頭金を喰らうとは」


 なんで、羽瀬名人はまるで感想戦みたいに……。


「敗着は、私が銀を抱え込んだ手ですか。貴方の狙いを銀4枚の穴熊だと思い、その固執を断ち切らせるために自陣に打った銀が、最後の最後の斬り合いの際に邪魔となり、こちらの攻めのテンポを一拍遅らせた。戦法に固執していたのは私の方だったという訳ですか」


「え……声……」


 普通に目の前で喋っている羽瀬名人に驚いた俺は、注意しようとするが、喉がかすれて声が上手く出ない。


「なんですか? その様子だと、ちゃんと聞こえてなかったんですね。まったく、もう終わったんですから、しゃんとしてください。ほら、これからインタビューも始まるんですから、お茶を飲んで喉を開いて」


「終わった……」


「ええ、そうですよ。まったく、どこまで思考の海に深く潜っていたんだか」


 あきれたような顔をして、羽瀬名人がお茶をすするのを見て、俺も同じようにお茶を口に入れる。



「どちらが……」


「聞き逃すのが悪い。もう一度言うなんて私は御免ですよ。ただ……」


 お茶を飲み干し、着物の居住まいを正しながら羽瀬名人がこちらを真っすぐに見据える。



「いい対局でした。おめでとうございます。稲田誠 新名人」



 そう羽瀬名人が呟くと同時に、ドヤドヤとした足音が対局場である能楽堂舞台の板の間に響き、こちらに近づいてきた。


 カメラから暴力的なフラッシュが焚かれる光の世界の中、俺はしばし茫然としていた。


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― 新着の感想 ―
[一言] ついに、そこに到達しましたか。そして、会長は無冠に。一つの時代が完全に終わったということでしょうか。 思考の海に潜る。確か、昔ハチワンダイバーって言う漫画がありましたね。あまりに深く潜ると…
[良い点] 対局の描写が良すぎる… [気になる点] 師匠の戦法ってモデルになった対局とかあったりしますか?近しいものでもあれば振り返ってみたいですね
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