第89局 頑張れ師匠
最終話まで書き溜め終わりました。ここから毎日1話投稿していきます。
どうぞ最後までお付き合いください。
「名人戦ってスーツで出ちゃマズい……ですよね?」
「名人戦は規定で、タイトルホルダーも挑戦者も和服の着用が義務付けられてます」
「そうですよね……」
「まったく、最後の最後に面倒ごとを」
「す、すいません羽瀬会長」
着物の取り違えに気付いて、青ざめながら会長としての羽瀬先生に相談すると、にわかに周囲が慌ただしくなった。
やらかした張本人としては、大層いたたまれない状態である。
「棋征戦の対局会場である京都のホテルに着物は無事に届いているそうです」
連盟の職員が電話で問い合わせをしてくれた結果を告げる。
「やっぱり取り違えて送ってたか……桃花の棋征戦の対局は3日後だから、すぐに宅配で送れば間に合うけど、こっちは明日……」
「今から発送しても、棋征戦の会場の京都から東京の名人戦の会場を一晩では無理ですね。棋征戦には、まだ連盟の職員も前乗りしていないから、届けてもらうことも無理です」
駄目だ。
万策尽きた。
「ど、どうしましょう」
もう、すっかり色を失った顔で俺は羽瀬会長にすがるような目線を向ける。
「そこまで慌てなくていいですよ。ちゃんと連盟で予備の着物を準備してきています」
「そうなんですか⁉」
「今回みたいな発送トラブルや、食事で汚してしまうことも考えられますからね」
「良かったぁ……」
「いや、ちゃんと反省してください稲田先生」
「はい……」
この件に関しては、俺の単純ミスなので、申し開きの言葉もない。
お騒がせして、ただただ謝る事しかできない。
「なんだ羽瀬、思ったより会長業が板についてるじゃねぇか」
これから会長からガチ説教が始まるかと思ったところで、後ろから懐かしい野太い声が響く。
「北野会長。何しに来たんです?」
「前会長だろ、羽瀬現会長。なに、東京の対局だから、ちょっくらタダ酒をいただきにな」
「まったく」
ニヤリと笑う北野前会長に羽瀬会長がぶつくさ文句を言う様は、さながら授業参観を観に来た親を疎ましく思う子供のようだった。
「で、何かやらかしたのか?」
「稲田先生が、桃花先生の着物を取り違えてそれぞれの会場に送ってしまったんですよ」
「ハハハッ! そりゃ、連盟のインシデントマニュアルでも聞いたことないトラブルだな」
「今度の役員会で『夫婦で別々のタイトル戦に出る場合、荷物の送付先を必ず2人でダブルチェックすること』って対応策をマニュアル改訂時に入れないといけませんね」
「そんな書き方したら、誰がやらかしたせいでマニュアルに追記されたか、後世の人にも丸わかりじゃないですか……」
嫌だ。
こんな形で、後世の後輩棋士に名をはせたくない……。
「それで、桃花ちゃんには連絡したのか?」
「はい。桃花の着物はこっちから、京都の対局会場へ送ると」
対局が始めるとスマホを預けなくてはいけなくなるから、連絡だけは慌ただしい中で入れておいたのだ。
「そういや、稲田君の着物は桃花ちゃんが買ってくれたんだっけ?」
「ええ。って、北野元会長にまで話が届いてるんですか?」
「解説の時に桃花ちゃんが言いまくってたからな」
「あいつ……」
「ま、最終局が借り物の着物ってのはしまらねぇだろうが、案外そんなもんだからな。歴史的な一局っていうのは。羽瀬の時なんてよ」
「北野元会長。そろそろ前夜祭の会場が開きますから、その辺で飲み食いしててください」
「お! そうだった、これが目的で来たんだった。いや~、会長や対局者と違って気楽に飲み食いできるなんて最高だ」
羽瀬会長に上手く誘導された北野元会長は、ルンルン気分で前夜祭会場であるホールへ向かっていった。
「じゃ、じゃあ、我々も」
「待ちなさい稲田先生。貴方には、まだお説教が残っています」
「ひぇ……」
その後10分ほど、俺は普通に怒られた。
大人がしっかりしていない事で怒られるのは、普通にしんどい。
桃花がいない時で良かったことだけが唯一の救いだった。
◇◇◇◆◇◇◇
「ふぅ……これにて前夜祭のお勤め完了っと」
部屋に戻り戸を閉めると、背広を脱いでネクタイを緩める。
シワになってはいけないと、ワードロープに背広たちをかける。
ふと、着物を掛ける衣桁に目が行く。
そこには、先ほど借り受けた着物がかけられている。
「こういう所でポカするのが、俺らしいっちゃ俺らしいのかね……」
中津川師匠からの形見の着物でゲン担ぎを試みたが、これは師匠からの、『お前にそういうドラマチックさは似合わない。愚直にただ指せ』ってメッセージなのかね。
「ただの俺の凡ミスに意義をもたせすぎか?」
と、俺は自嘲気味に笑う。
でも、対局前にはこういうセンチメンタルも大切なんだ。
だから、ここは一つ、天国の師匠のいたずらってことで、冤罪かもしれないけど許してくださいな。
そうやって、今日のトラブルに気持ちの中で区切りをつけて、俺はスマホの画面を開く。
「桃花から返事は……無いか」
バタバタしていたので、着物の取り違えについてはメッセージを送っておいたのだが、反応がない。
電話をしてみたが出ない。
「まぁ、むこうの着物は間に合うんだから良いか」
明日の朝にはスマホを預けてしまって、終局まで連絡は取れないのできちんと連絡したかったが仕方がない。
そう諦めて、俺は寝間着に着替えて眠りについた。
「おはようございます。朝食をお持ちしました」
「ありがとうございます」
翌朝。
仲居さんが部屋に来て朝食の御膳を持ってきてくれた。
「朝食が終わりましたら、スマホ等の電子通信機器をお預かりします」
「はい」
仲居さんと一緒に入って来た連盟職員が、伝達事項を伝えてくる。
対局の初日の朝は、まだ外部の人との接触が許される。
「それと、こちらを」
「え?」
いつもの伝達事項だけかと思ったら、連盟職員は恭しく大きなバッグを取り出した。
「これは……」
見覚えのあるバッグを受け取った俺は、慌てて中を開く。
そこには、師匠の着物が入っていた。
「だ、誰が運んでくれたんですか⁉」
京都にあった着物が一晩で東京にあるだなんて。
宅配では無理だから、誰かが新幹線に乗って運んでくれたのか?
「早朝のホテルのロビーで、飛龍桃花七冠がこの着物バッグを抱えて眠りこけてました」
「桃花が!?」
てっきり、関西将棋連盟の関係者が気を回して届けてくれたのかと思ったら、予想外の名前が上がり驚いた。
「なんでも、連絡を受けてからすぐに新幹線に乗って京都の棋征戦の会場で着物を受け取り、終電も無いので、夜通しタクシーを何台も乗り継いでここまでトンボ返りしたそうです」
何て無茶を……。
一晩で往復1,000km近く移動したのか。
棋征戦の直前だって言うのに、何をやってるんだ。
「それで、桃花は?」
「着物を渡したらすぐに出ていかれました。今日は短大の保育園実習があるので欠席できないから、このまま新幹線の始発で名古屋まで直行すると」
なんちゅう強行軍だ。
「今はまだ、スマホで連絡を取ってもいいですか?」
「はい、大丈夫ですよ」
スマホでコールするが出ない。
連盟の人の話の通りならば、今頃は新幹線の車内で爆睡している頃だから、電話には出れないか。
諦めてスマホ画面を閉じようとするが、ふとメッセージが来ているのを見つける。
『頑張れ師匠』
そこには、俺のミスを咎めるでもからかうでもなく、ただ短い激励の言葉だけが添えられていた。
「桃花……」
届けてくれた着物を指でなぞりながら、俺は桃花がなぜこの着物を何も言わずに届けてくれたのかに想いをはせる。
着物を届けるなら、名古屋で保管している、前の対局で使った着物でも良かったはずだ。
名古屋東京間の方が移動距離は半分で済むし、本音では自分の贈った着物を名人戦最終局に俺に着て欲しいと桃花は前に言っていた。
なのに、桃花は俺のためにわざわざ京都まで行って、中津川師匠の形見の着物を届けてくれた。
「そろそろお時間です。スマホをお預かりします」
「あ、はい。少しお待ちを」
お付きの連盟の方にことわって、俺は桃花へ短くメッセージを送る。
『俺のためにありがとう桃花』
メッセージを送信したのを見届けてスマホをお付きの連盟の方に渡す。
朝食を終え、着物と向かい合う。
「こんなの燃えない訳にいかないよな」
師匠の形見の着物に袖を通すと、メラメラと体中が滾るのが解った。




