第88局 単純ミスほど起きた時のダメージがデカい
「うごぉぉぉぉ! なんで名人戦第7局の2日目、最終日が棋征戦の前夜祭と被ってるんですかぁ!」
「そりゃ、棋征戦のタイトルホルダーも挑戦者も名人戦と被ってる人がいないからな」
発狂している桃花を背後に、俺はせっせと荷造りをする。
タイトル戦用の準備となると、着物もあって荷物が多くて大変だ。
「なんで師匠、第6局で決めてくれなかったんですか? せっかく私が私費で観に行ったのに、負けちゃって」
「それを言うな」
先に奪取に王手をかけたが、第6局は終始相手のペースでいい所なく終わり、結局3勝3敗のタイに戻されてしまった。
別に、盛り上げようと思って最終局までやる訳じゃないからな。
「こうなったら、前夜祭はブッチして」
「それやると俺が羽瀬会長に怒られるから止めろ!」
「羽瀬会長だって、昔、私と練習対局するために、名人戦の前夜祭をブッチした事あったくせに」
俺の苦言に、桃花がブー垂れる。
そういやそうだった……。
あの人が初めて我が家に桃花と練習対局を指しに来た時には、名人戦の前夜祭の日なのに名古屋にいて、大騒ぎになったんだった。
「前例があるからって許されると思うなよ。タイトル戦の前夜祭は、尽力してくれた方々のねぎらいの場でもあるんだからな」
「解ってますよ。むー、師匠め。タイトル戦を経験して一回り大きくなったからか、言葉に重みがありますね」
「だろ? 師匠も成長するもんなんだよ」
「そうやって、弟子の言葉も素直に受け止めるのが師匠の良い所ですよね。あ、その着物……いつ着るのかと思ってたけど、最後の最後に着るんですね」
「ん? ああ。最終局に着る予定だ」
そう言って、俺は少し古びた着物を撫でた。
着物だけは先に宿に宅配で送るので出しておいたのだ。
「最終局という皆の記憶や記録に残る時の姿は、やぱり師匠の師匠の着物になるんですね」
「ああ。ここ一番で着たかったんだ」
「私がせっせと着物を貢いだのに、結局一番の晴れ舞台には私は連れて行ってもらえないんですね……寂しい」
イジイジと桃花がいじける。
「人聞きの悪い事言うなよ」
「そりゃあ、理性では解ってますし、師匠の師匠は私にとっても大事な人です。けど、自分は選ばれなかったんだという、どうしようもない寂しさを感じる訳です」
「そんな、負けヒロインみたいな気持ちになるなよ。あ、そう言えば、桃花も着物出しとけよ。集荷の宅配業者の人がもうすぐ来るぞ」
「はーい。あれ、集荷用の伝票ってどう作るんでしたっけ?」
「宅配業者のアプリで作れる。桃花の分も作っておいたぞ」
どうせそんな事だろうなと先読みしていた俺は、出力した伝票を桃花に渡す。
「ありがと師匠。いつもケイちゃんに任せてたから私、よく解らなくて」
「高校卒業して、姉弟子も桃花のマネージャーは卒業したから、これからは自分で出来るようになれよ」
「大人になるって大変ですね。はぁ~、子供の頃に戻りたい」
「中学生の頃とかは、『私はもう大人の女なんでです!』とか言ってたじゃないか」
年齢相応の桃花の嘆きに、俺は茶々を入れる。
「へぇ~、師匠は私の事、大人の女性だと思ってるんだぁ。じゃあ、こうやって女性を自分の家に連れ込んでたらマズいんじゃないですかぁ?」
妖しく笑う桃花が、俺の反応を見るために顔を覗き込んでくる。
「桃花が俺の家に毎日出入りしている事なんて、国中の人が知ってて、今更週刊誌の記事にすらならないだろ」
この点に関しては、どこかのタイミングで俺か桃花のどちらかが距離を取るために引っ越したりするかと思ったが、結局そんなことは無かった。
「うーん。昔は、街中のスーパーで隠し撮りされた師匠と私の仲睦まじいツーショット写真が週刊誌に載ったりしてたのに、最近はとんと見なくなりましたね。公認夫婦扱いで、もはや皆飽きたんでしょうか?」
「公認夫婦ってなんだよ。意味が重複してるだろが」
「最近は別に婚姻届を出さなくても夫婦って名乗れるんですよ師匠」
「まぁ、内縁とかあるもんな。そういや、桃花は結婚しても苗字は変えな」
「いえ、稲田がいいです。子供の頃から、何度も稲田桃花ってノートに書いて練習してきました」
「顔が怖いわ」
こっちは軽く聞いたのに、食い気味に被せてきた桃花の圧に押される。
「どうです師匠? 稲田桃花って良いでしょ? ほら、私の実家は米も作ってるしピッタリ!」
「知らん。その辺は、実際に結婚が決まってから悩め」
「師匠ってば照れてる~。婚姻届を書く時を想像したんでしょ?」
「照れてない。あ、集荷の人が来たな。ほら、送る着物を準備しとけ」
「はーい」
タイミングよく玄関のチャイムが鳴ったので、俺はこれ幸いと話を打ち切った。
この時の俺は、口では照れてないと言いつつ、やっぱり動揺していたのかもしれない。
中学生や高校生が冗談交じりに言う『結婚した~い』とは違って、いよいよ現実感を帯びてきた約束の言葉。
そして、動揺している事に自分自身が気付いていない時と言うのが一番怖い。
こういう時に、人は普段では考えられない単純ミスをしでかす。
そして、単純ミスと言うのは、いざ起きた時のダメージが測り知れないほどにデカい。
「これ、桃花の着物じゃねぇかぁぁぁぁああああ!!」
名人戦最終局の前夜祭が始まる直前の、挑戦者に割り振られた部屋で俺は、桃花に最初のタイトル戦の頃に贈った黄色の着物の前で慟哭した。




