第87局 師匠は私の物だって実感できます
【桃花視点】
「全国一億人の将棋ファンの皆様、こんにちは。本日の名人戦第5局の解説を務めさせていただきます、飛龍桃花です。前日に棋叡位を防衛して、すぐに駆け付けました」
ペコリと頭を下げると、大盤解説を見に来た満員御礼のお客さんたちから拍手が湧き起こる。
「どうも。同じく解説で、飛龍棋叡に棋叡位を無残に奪われた折原です」
「本日は、この解説コンビでお送りしま~す。いや~、師匠の入室まだかな~」
「いや、飛龍先生。ちょっとは、俺の自虐ネタにかまってくださいよ!」
私が早速、師匠の話をしようとすると、折原先生がツッコんできて、ドッと会場に笑いが起きる。
「私、解説のお仕事ってほとんどやった事なくて、よろしくお願いしますね折原先生」
「たしかに飛龍先生は大忙しですもんね」
「特にタイトル戦の解説は初めてですから。タイトル戦って普通、出るものですし」
「さらっと、マウント取るの止めてもらえますか?」
「お~、やっぱり折原先生との解説はやりやすいですね。小気味良くツッコミが返ってきます。師匠の言ってた通りだ」
「しかし、弟子が師匠の対局を解説するなんて珍しいですね」
「皆さんに先に言っておきます。今日は忖度ありありで解説します」
「その点は、端から全将棋ファンが諦めてると思いますよ」
大盤会場の観客の方たちが、折原先生の言葉にウンウンとうなずく。
よし、お墨付きも得たし自由に話したいこと話しちゃうぞ。
「あ~、今日の師匠の着物もいいな~」
「そう言えば、噂によると師匠の名人戦での着物は飛龍先生がプレゼントしたとか?」
「ええ、そうですよ。人生の最推しに自分のプレゼントした着物を着てもらって、タイトル戦という晴れの舞台に出てもらうって最高ですよね。師匠は私の物だって実感できます」
「ちょっと状況が特殊過ぎて共感できる人は少ないんじゃないかな。しかし、しょっぱなから飛ばすな~。これ、俺聞き手として最期までもつかな?」
しばし解説の仕事を忘れて、画面の向こう側の着物姿の師匠をウットリと眺めてしまう。
おっと、局面が動いた。ちゃんと解説の仕事もしないと。
「先手番の師匠は相矢倉指向だったようですが、どうやら羽瀬名人は雀刺しで対抗するようですね」
「雀刺し!? タイトル戦ではまず見ない形だ」
「若い頃の羽瀬名人がタイトル戦で使った例がありますね。ガンガン攻めるから受けてみろって感じですかね」
「対応策を知らない素人相手ならボコボコに出来るから、アマチュアではよく指されるけど、プロでは皆無ですよね」
雀刺しとは、香車と飛車が縦に並び、角や桂まで投入して1筋へ攻め手を集中させる攻めの戦型だ。
雀刺しはあからさまに1筋が攻撃目標だと相手に宣言するようなものなので、現代将棋では廃れてしまった戦型だ。
「師匠も予想外……いや、違うな。この顔はちゃんと想定内って顔だ」
「顔を見ただけで解るもんなんですか?」
「普通、弟子なら師匠の事は全て解るものでしょう?」
「いや、そちらの一門が特殊なだけです」
折原先生はあきれた顔をしている。
「さぁ、師匠。挑戦者が勢い任せに勝利を獲れるのは精々2勝まで。ここからが真価を示す時。名人の奇策にいまさら動揺するタマじゃないとこを示してやるんだ」
私は、画面の向こう側にいる師匠にエールを送った。
◇◇◇◆◇◇◇
『いや、口で言うのは簡単だろうけど、お前と違って実際にやるのはしんどいんだってば!』
対局中なのに、ふと思考のエアポケットに入った俺は、脳内桃花にツッコミを入れる。
雀刺しという、昨今の棋士が深く研究していないであろう攻めを披露してきた羽瀬名人。
きっと、何か面白い物を見つけたから、使ってみたかったんだろうな。
名人戦という最高峰の舞台でそれをやってしまうというのが、常人には無理なクソ度胸だ。
だが、俺だって長年この化け物相手に研究会で指してきたんだ。
「す~~っ」
息を深く吸って、目を閉じる。
例え自身が優勢であっても、相手が偉人レベルの強者である場合、どうしても頭の片隅に、『この人がこのままで終わる訳がない。何か仕掛けてくるに違いない』と考えてしまう。
そして、その弱気を振り払うためには、自分に自信を持つこと。
ただ、恋愛などとは違い、こと将棋に関して言えば、自分に自信を持つという事は、読みの深さで自分の方が圧倒出来ていると自身が感じられなければならない。
そして、不安を払しょくするためにと深く思考の深海に潜りすぎると、疲弊し終盤に信じられないようなミスをする。
これが、トップが持つ魔法、勝負術。
棋士は研究者ではない。
勝負師だ。
その言葉を胸に、俺は自分の心拍を管理し、時に読みを打ち切る勇気を持ち、フラットな気持ちをできるだけ保って指す。
これが俺が導き出した答え。
最初の頃の俺は、恐ろしい化け物に勝つには、とにかく全てを将棋に捧げなくてはならないと思った。
そうしないと、化け物を相手にした時に自分に自信が持てないからと。
けど、そうじゃなかった。
将棋以外の荷物を捨てるのではない、一層背負うものが多くなることで、かえって目線は上を向くようになった。
将棋、母の残した保育園、そして桃花との未来。
あえて、それらの荷物を正面から見据えて、抱えることを自分で選んだのだ。
誰に言われたからでもなく、自分の意志で。
背負った荷物によって下を向くのではなく前を見ることで、自然と背筋が伸びた。
そして立ち止まって見上げる機会が増えたからこそ、見えなかった物が見えてくるようになった。
「死ぬほどきっついけど、いい景色だな」
ポツリと呟いた後に、羽瀬名人のタダ捨ての銀を取るのを放置し、飛成と切り込み、勝負手を潰す。
「負けました」
唐突な羽瀬名人の投了宣言。
「え!? あ、ありがとうございました」
着物の襟や羽織の裾を正す間もなく、俺は慌ただしく礼をする。
「ず、ずいぶん早い投了ですね」
あまりの潔さに、立会人がまだ対局場に来ていない。
今頃、中継モニタで観戦していた立会人の真壁八段……もとい先日勝ち数規定で昇段した真壁九段が走ってこちらに向かってきている事だろう。
「稲田先生が集中しきっていましたからね」
「そういうの解るもんですか……」
「ええ。流石に、思い付きで昔の対局を掘り起こすものではないですね」
「雀刺しは事前に準備してた作戦なんじゃなかったんですか?」
「自慢じゃないですが、会長に就任してから碌に将棋の研究なんてしてないですよ」
「そんな、テスト前に『俺、全然勉強してねぇわ~ っべぇわ~』みたいなこと言わんでください」
負け惜しみか? いや、この人はそういう人ではない。
こと、将棋に関しては子供のように真っすぐな人だから。
「だって事実ですから。さっきは局面が、過去に雀刺しを指した対局と同じである事を思い出してつい遊び心で指してしまいました。手順はきちんと憶えていたのですが、私以上に過去の対局を稲田先生は研究してたんですね。序盤の手に迷いが見えなかった」
「……これで3勝。名人に王手ですよ」
「まだ先手番をキープしてるだけでしょ」
「ぐっ……」
そうなのだ。
名人戦の第2局と第4局の羽瀬名人の先手番では、俺はいい所なしで負けている。
後からAIの評価値の形勢グラフを見ても、一度も俺の側に形勢が振れていない、まさに横綱相撲だ。
こっちは、毎回先手番の勝利をもぎとるために、いつも以上に脳をフル回転させてやっとこさキープしてるって言うのに。
「そこで、『いや、次で決めてみせる‼』と啖呵を切らないのが、つくづく稲田先生ですね」
「どういう意味ですかそれ」
「言葉通りですよ。まぁ、会長の立場としては最終局までもつれ込んでくれた方が、興行的に盛り上がりますから、こちらとしては有難いかぎりですが」
「どこぞのスキンヘッドのクマみたいな事を言うようになりましたね」
「最近はタイトルが剥がれて身軽になったと思っていましたが、中々どうして、重荷を背負っていた方がかえって調子が良いようです」
負けた後だというのに笑っているこの人もまた、強者としての責務を果たそうとしている。
だからこそ、俺も弟子に言わなくてはならない事がある。
そこまで考えたところで、慌てて立会人の真壁九段が対局場にゼェゼェ息を切らしながら、着物姿で入室してきたのと合わせて、報道陣がどやどやと入って来る。
こうして、名人戦第5局は俺の3勝2敗と奪取に王手をかける形で幕を閉じた。




