第86局 さゆり先生の春
「マコ先生……マコ先生!」
「は!?」
「将棋で忙しいからって、仕事中に居眠りは駄目ですよ」
「す、すいません。さゆり先生」
意識が一瞬飛んでた……。
「忙しい時期ですが、事故になってしまっては元も子も無いですからね」
「すいません」
俺はピシャリと両頬を手で打ち、気合を入れ直す。
「まぁ、今は子供たちの面倒を見ていないデスクワークの時間なので自分のペースで無理なくやってください」
「ありがとうございます」
「とはいえ、4月からマコ先生が正式に保育士先生になってくれたおかげで、今まで保育補助者じゃ作れない役所あての申請書類なんかもお任せ出来て、私は大変に助かってます」
「本当は、これって主任に昇進されたさゆり先生の仕事なのでは?」
「う……その分、勤務シフトは融通利かせてるので見逃してください」
「まぁ、私は将来の勉強になりますから一向に構わないですけど」
何とか保育士試験に合格出来て、俺は春から保育士として正式に園に採用された。
保育補助でも子供たちとは戯れられるが、やはりいずれは保育園の運営に携わるつもりなのだから、こういった地味で根気の要る作業についても、習得していかなくてはならない。
「それにしても、棋士の先生ってみんなパソコンが得意なんですね。私、家にはパソコンが無くてスマホで済ませちゃってるから」
「将棋の研究には必須ですし、自分でパソコンをパーツから組む人が多いですね」
「熱くて凄い大きい音がしますよね」
「最新のAIを動かすには、結構マシンスペックが……って、家にパソコンが無いわりに偉く詳しいですね? さゆり先生」
棋士の使う100万円ちかいタワーデスクトップ型の自作パソコンなんて、今や棋士とパソコンマニアの家にしか無いのに。
「あ! いや、あの、その……この間、羽瀬さんに密着したテレビ番組で観たので」
妙に慌てながら、小百合先生があくせくと、
「ああ、何年か前の国営放送で流れたドキュメンタリー番組の再放送ですね。羽瀬先生も、会長に就任されて最近注目されてますね」
「そ、そうですね」
最初の頃は、棋士のことを騎士と混同していたさゆり先生だが、将棋に興味を持ってくれて嬉しいかぎりだ。
「名人戦は、やっぱり大変なんですか?」
「僕の場合は、初のタイトル戦だから余計に疲れますね」
「でも、今のところ2勝2敗のイーブンなんですよね?」
「え、ドキュメンタリー番組だけでなく、今期の名人戦も追ってくれてるんですか?」
「そ、そりゃあ、同僚のマコ先生が出てるんですし、普通気にしますよ。普通は」
何故か普通と2回も言って強調しつつ、さゆり先生が照れくさそうに笑う。
「ガムシャラにぶつかって行って、何とか先手番での勝ちを辛うじてキープしている状態ですね」
通常、タイトル戦と言うのは挑戦者が有利と言われている。
待ち構えていたタイトルホルダーと比べて、激しいトーナメントをたった一人になるまで勝ち上がってきた挑戦者では、勢いが違う。
その点は、特に第1局に色濃く出た。
名人戦第1局は、準備してきた渾身の研究が上手くハマり、羽瀬名人に中盤に時間を消費させ、終盤での追い上げも許さずに逃げ切れた。
初戦を白星で飾れたことは、確かな自信となった。
「桃花ちゃんが、私が師匠に買ってあげた着物のおかげだと言ってましたね」
「あいつ、そこは内緒にしろって言ったのに……」
買ってもらった側としては、あんまり強くは言えないんだけどさ……。
「こんにちは~。例の物持ってきました~」
事務室のドアが開き、姉弟子がひょっこりと顔を覗かせる。
「あ、姉弟子どうも。ありがとうございます」
「わぁ、綾瀬さん。いつもいつもすいません」
「いいのいいの。これは桃花ちゃんがスポンサー様から貰ってるもので、私は宅配してるだけだから。今回は、駄菓子の、でーらうめぇ棒です」
例によって、棋叡戦名物、スポンサーの菓子メーカー様から届く箱単位のお菓子を、姉弟子が届けてくれたのだ。
「お疲れ様です。お茶でも飲んでいきませんか?」
「お構いなく。この後、桃花ちゃんの通う短大の系列の幼稚園にも届けなきゃだから」
「色々配らないと、俺の部屋があっと言う間にお菓子で占領されますからね……」
最近は、桃花の師匠の俺が保育園で働いていることも公になっているので、お菓子メーカー様も容赦ない量を送ってくるようになった。
あれでも、前は手加減してくれてたんですね……。
「わぁ、お菓子の山! しゅごい!」
「すごい量!」
「私、知ってる! これ皆に配ってくれる奴だ!」
軽く雑談していると、何人かの園児たちが段ボール箱の中を覗き込んで快哉を上げている。
「ねぇ、おばさん、サンタさんなの?」
「おば……!?」
「初見の園児たちは、やっぱり興奮しますね。最近は、これが春の風物詩だ」
「あの……マコ先生。綾瀬さんへのフォローは無しですか?」
「時間だけは誰にでも平等ですから」
「フフフ……そうだよね。もう30超えたら、おばさんだよね……」
「俺も来年30歳なので立派なアラサーですよ姉弟子。受け入れましょう」
こればかりは仕方ない。
園児から見たら、俺も姉弟子も等しく、おじさん、おばさんだ。
受け入れてもらうしかない。
「随分と余裕じゃないのマコ。そりゃ、アンタはその気になれば10歳も若い女といつでも結婚できる立場だから、そりゃ余裕でしょうね」
「人聞きの悪い事言わんでくださいよ姉弟子」
場所を弁えて欲しい。
幸いお菓子に夢中で、園児たちには聞こえていないけど。
「で、式はいつ挙げんのよ?」
「予定はないです」
「あんた、まだ桃花ちゃんに手出してないの⁉ せっかく、私が気を使ってあの部屋を出たっていうのに。このヘタレ弟弟子が」
姉弟子のダル絡みがうざい。
園児に怒れないからって、おばさん呼びされたダメージを俺に八つ当たりしないで欲しい。
まぁ、この人の場合は、自分と中津川師匠との関係を、桃花と俺に重ねて見ている所があるからな。
どうしても、桃花持ちになるんだろうな。
「私もそろそろ結婚とか考えないとな~。さゆり先生は考えてる?」
「な、なんで、急に私を話を振るんですか⁉」
俺と姉弟子の掛け合いをニコニコ眺めていたさゆり先生が、突如水を向けられ、狼狽える。
「いや、保育士さんって出会い少ないって聞くし。今度、一緒に婚活パーティ行かない?」
「へぇ~、俺そういう類の場に行ったことないんですよね。興味あるかも」
「冷やかしで行くのはNGよ。今の発言、桃花ちゃんに垂れ込んでやろうかしら」
「勘弁してくださいよ~」
無論、婚活パーティに行きたいなんていうのは冗談だ。
姉弟子が、師匠との恋をきちんと自分の中で清算できて、前に進む気になったのが嬉しくて、つい口をついて出てしまったのだ。
「あの……私はそういう場に行くのはちょっと……」
「さゆり先生は婚活パーティとか苦手? でも、前にマコ主催の棋士合コンに参加してたんだよね?」
「いえ、その……あの……」
さゆり先生が言いにくそうに、エプロンの裾をつかんでモジモジする。
「ん? え、さゆり先生もしかして……この裏切り者~! 先に男作りやがって!」
「姉弟子。ここ保育園なんで、子供の教育に悪い人はマジで帰ってください。まだ桃花の短大の園にお菓子届けるんでしょ?」
そういうのは女子会とかでやってくださいよと、俺はうるさい姉弟子を放り出した。




